単位元(identity element)とは、マグマ(集合と二項演算の組)$M$ の元 $e$ であって、任意の元 $a$ に対して $e\cdot a=a\cdot e=a$ を満たすもの、すなわちどの元と演算しても相手を変えない元のことで、中立元ともいう。整数の加法の $0$、実数の乗法の $1$、写像の合成の恒等写像が典型例である。左単位元と右単位元がともに存在すれば一致し、単位元は存在すれば一意だが、片側だけの単位元は複数ありうる。半群では冪等元 $h$ が部分半群 $hSh$ の単位元になり、部分半群の単位元になりうる元はちょうど冪等元である。
集合 $M$ と二項演算 $\cdot\colon M\times M\to M$ の組 $\langle M,\cdot\rangle$ をマグマ(magma)という。結合律も可換律も仮定しない。結合律を満たすマグマを半群(semigroup)という。本記事では、マグマの中で「どの元と演算しても相手を変えない」元を扱う。
マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $e_L$ が、任意の $a\in M$ に対して
$$
e_L\cdot a=a
$$
を満たすとき、$e_L$ を $M$ の左単位元(left identity)という。
同様に、元 $e_R$ が任意の $a\in M$ に対して
$$
a\cdot e_R=a
$$
を満たすとき、$e_R$ を $M$ の右単位元(right identity)という。
マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $e$ が左単位元かつ右単位元であるとき、すなわち任意の $a\in M$ に対して
$$
e\cdot a=a\cdot e=a
$$
が成り立つとき、$e$ を $M$ の単位元(identity element)または中立元(neutral element)という。単位元を持つマグマを単位的マグマ(unital magma)、結合的な単位的マグマをモノイド(monoid)という(Bou89 Ch. I, §2, no. 1, Definitions 1–2, p. 12)。
元 $b$ による左移動 $\gamma_b(x):=b\cdot x$ と右移動 $\delta_b(x):=x\cdot b$(Bou89 Ch. I, §2, no. 2, Definition 4, p. 14)を使うと、$e$ が単位元であることは、$\gamma_e$ と $\delta_e$ がともに恒等写像であることと言い換えられる。片側の条件だけを満たす元はそれぞれ左単位元・右単位元の記事で詳しく扱い、本記事は両側の単位元を中心に述べる。
加法の記号で書く演算では単位元を $0$ と書いて零元とよび、乗法の記号で書く演算では $1$ と書くことが多い。
単位元は「何もしない操作」に対応する基準点である。整数の加法における $0$、実数の乗法における $1$ がその典型で、相手にぶつけても相手はそのまま返ってくる。左右を分けて定義するのは、一般のマグマでは演算が可換でも結合的でもないため、「左からぶつけて変えない」と「右からぶつけて変えない」が独立な条件になりうるからである。両方を満たす元は、存在すればただ一つに定まる(cor-identity-element-unique)。
単位元は、演算の中に「空の積」の値を用意するものでもある。有限個の元の積を考えるとき、元が一つもない場合の積を単位元と定めておけば、「積をつなげる」操作が例外なく扱える(Bou89 Ch. I, §2, no. 1, Definition 3, p. 13)。
$\langle\mathbb{Z},+\rangle$ において $0$ は単位元である。実際、任意の $a\in\mathbb{Z}$ に対して $0+a=a+0=a$ が成り立つ。$\langle\mathbb{R},\times\rangle$ において $1$ は単位元である($1\times a=a\times1=a$)。同じ集合 $\mathbb{R}$ でも、加法の単位元は $0$、乗法の単位元は $1$ であり、単位元は集合だけでなく演算によって決まる。
集合 $X$ から $X$ 自身への写像全体 $X^X$ に合成 $\circ$ を演算として入れたマグマ $\langle X^X,\circ\rangle$ において、恒等写像 $\mathrm{id}_X$($x\mapsto x$)は単位元である。実際、任意の $f\colon X\to X$ と $x\in X$ に対して $(\mathrm{id}_X\circ f)(x)=f(x)=(f\circ\mathrm{id}_X)(x)$ である。
集合 $X$ の冪集合 $\mathcal{P}(X)$ で、合併 $\cup$ の単位元は $\emptyset$、共通部分 $\cap$ の単位元は $X$ である($A\cup\emptyset=A$、$A\cap X=A$)。より一般に、全順序集合 $L$ に $a\vee b:=\max(a,b)$ を入れたマグマでは、単位元があることと $L$ が最小元をもつことは同値で、単位元は最小元である。実際、最小元 $m$ は $\max(m,a)=a$ を満たし、逆に単位元 $e$ があれば任意の $a$ で $\max(e,a)=a$、すなわち $e\le a$ である。たとえば $\langle\mathbb{N},\max\rangle$ の単位元は $0$ であり、$\langle\mathbb{Z},\max\rangle$ は単位元をもたない(Bou89 Ch. I, §2, no. 1, Examples, p. 13 に、束の上限演算についての同じ観察がある)。
$2$ 次正方行列全体 $M_2(\mathbb{R})$ は行列の積について単位行列 $I$ を単位元に持つ。部分集合 $S:=\{\operatorname{diag}(a,0)\mid a\in\mathbb{R}\}$(対角成分が $(a,0)$ の対角行列全体)は積で閉じており、$\operatorname{diag}(1,0)$ は $S$ の単位元である。実際 $\operatorname{diag}(1,0)\operatorname{diag}(a,0)=\operatorname{diag}(a,0)=\operatorname{diag}(a,0)\operatorname{diag}(1,0)$ である。しかし $\operatorname{diag}(1,0)\neq I$ であり、$I\notin S$ である。部分マグマの単位元は全体の単位元と一致するとは限らない。この現象の一般的な仕組みは thm-identity-element-local-monoid で述べる。
次の例は、それぞれ「左単位元 ⇒ 単位元」「任意のマグマは単位元を持つ」が成り立たないことを示す。
マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ が左単位元 $e_L$ と右単位元 $e_R$ をともに持つならば、$e_L=e_R$ である。
$e_L$ が左単位元であることを $a=e_R$ に適用すると $e_L\cdot e_R=e_R$ を得る。$e_R$ が右単位元であることを $a=e_L$ に適用すると $e_L\cdot e_R=e_L$ を得る。左辺が同じ元であるから $e_L=e_R$ である。$\square$
マグマは高々一つの単位元しか持たない。
$e_1,e_2$ を単位元とする。$e_1$ は特に左単位元、$e_2$ は特に右単位元であるから、prop-identity-element-left-right により $e_1=e_2$ である。$\square$
マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ において、左単位元が存在しかつ右単位元が存在するならば、左単位元も右単位元もそれぞれただ一つであり、両者は一致する。
右単位元 $e_R$ を一つ固定する。任意の左単位元 $e_L$ に対して prop-identity-element-left-right により $e_L=e_R$ であるから、左単位元は $e_R$ のみである。同様に左単位元 $e_L$ を固定すれば任意の右単位元は $e_L$ に等しい。よって左単位元も右単位元もただ一つで、ともに同じ元である。$\square$
一意性の証明は結合律を使っていない。単位元の一意性は、マグマという最も弱い枠組みですでに成り立つ。
$f\colon\langle M,\cdot\rangle\to\langle N,\ast\rangle$ をマグマの準同型(すべての $x,y\in M$ で $f(x\cdot y)=f(x)\ast f(y)$)とし、$f$ は全射であるとする。$e$ が $M$ の単位元ならば、$f(e)$ は $N$ の単位元である。とくに、演算と両立する同値関係($x\sim x'$、$y\sim y'$ ならば $x\cdot y\sim x'\cdot y'$)による商マグマ $M/{\sim}$ では、$e$ の同値類が単位元である。
$b\in N$ を任意にとる。$f$ は全射なので $b=f(a)$ となる $a\in M$ がある。すると
$$
f(e)\ast b=f(e)\ast f(a)=f(e\cdot a)=f(a)=b,\qquad b\ast f(e)=f(a\cdot e)=f(a)=b
$$
であり、$f(e)$ は $N$ の単位元である。商マグマの演算は $[x]\cdot[y]:=[x\cdot y]$ で定まり(両立性によって代表元の選び方によらない)、商写像 $x\mapsto[x]$ は全射準同型だから、前半から $[e]$ は単位元である。$\square$
全射の仮定は外せない。整数の乗法の単位的マグマから、成分ごとの積を入れた $\mathbb{Z}\times\mathbb{Z}$ への単射 $x\mapsto(x,0)$ は演算を保つが、$1$ を単位元 $(1,1)$ でなく $(1,0)$ へ送る(単位的マグマの記事の注意「反例:演算を保つが単位元を保たない写像」)。そのため、単位的マグマの準同型の定義では単位元を保つことを別に課す(Bou89 Ch. I, §2, no. 1, Definition 2, p. 12)。
元 $h$ が $h\cdot h=h$ を満たすとき、$h$ を冪等元(idempotent)という。単位元はつねに冪等元である。
半群 $\langle S,\cdot\rangle$ の冪等元 $h$ に対し、$hSh:=\{h\cdot s\cdot h\mid s\in S\}$ とおく。
ex-identity-element-submagma は、$S=M_2(\mathbb{R})$、$h=\operatorname{diag}(1,0)$ の場合である。任意の $A=(a_{ij})$ について $hAh=\operatorname{diag}(a_{11},0)$ なので、$hM_2(\mathbb{R})h$ はちょうど $\{\operatorname{diag}(a,0)\}$ であり、その単位元が $h$ になる。$h\neq I$ だから、部分モノイドの単位元と全体の単位元がずれる。
単位元 $e$ をもつマグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $x$ が冪等($x\cdot x=x$)で、左から簡約できる(任意の $y,y'$ について $x\cdot y=x\cdot y'$ ならば $y=y'$)ならば、$x=e$ である。とくに群の冪等元は単位元だけである。
$x\cdot x=x=x\cdot e$ であり、$x$ を左から簡約すると $x=e$ を得る。群では、任意の $x$ が逆元 $x^{-1}$ をもち、$x\cdot y=x\cdot y'$ の両辺に左から $x^{-1}$ を掛けて結合律を使えば $y=y'$ となるので、すべての元が左から簡約でき、前半が当てはまる。$\square$
簡約の仮定は外せない。$\langle\mathbb{Z},\times\rangle$ はモノイドで $0\cdot0=0$ だが、$0\neq1$ である。$0$ は $0\cdot2=0\cdot3$ のように左から簡約できない。
マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ と、$M$ に属さない新しい記号 $1$ をとり、$M^1:=M\cup\{1\}$ に演算を次で定める:$x,y\in M$ では $x\cdot y$ をもとの値とし、$1\cdot x=x\cdot1=x$($x\in M^1$)とする。このとき次が成り立つ。
$M$ がすでに単位元 $e$ をもっていても、$M^1$ では $e$ はもう単位元でない($e\cdot1=e\neq1$)。たとえば一元のモノイド $\{0\}$($0\cdot0=0$)に $1$ を付け加えると、$\{0,1\}$ に整数の積を入れたモノイドと同じ演算表になり、$0$ は単位元から吸収元に変わる。
左単位元・右単位元の存在の仕方は、次の四通りがすべて実現する。
| マグマ | 左単位元 | 右単位元 | 単位元 |
|---|---|---|---|
| $\langle\mathbb{Z},+\rangle$ | $0$ のみ | $0$ のみ | $0$ |
| $x\cdot y:=y$(二元以上) | すべての元 | 存在しない | 存在しない |
| $x\cdot y:=x$(二元以上) | 存在しない | すべての元 | 存在しない |
| $\langle\mathbb{Z}_{>0},+\rangle$ | 存在しない | 存在しない | 存在しない |
prop-identity-element-sets により「左が二つ以上あり、かつ右もある」という組合せは起こらない。左単位元が複数あるマグマでは右単位元は必ず存在しない。片側だけの単位元がどんな自然な例に現れるかは、左単位元・右単位元の記事に行列や写像の例がある。
単位元と対になる概念として、どの元と演算しても自分自身に戻る元(吸収元、例えば乗法の $0$)がある。二元以上のマグマでは単位元と吸収元は常に異なる元である(吸収元の記事の命題「吸収元かつ単位元ならば一点マグマ」)。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| 両側の条件(片側だけにする) | $x\cdot y:=y$(二元以上) | 単位元の一意性(cor-identity-element-unique) |
| 準同型の全射性 | $\mathbb{Z}\to\mathbb{Z}\times\mathbb{Z}$、$x\mapsto(x,0)$(乗法) | 単位元の像は単位元(prop-identity-element-surjective) |
| 部分マグマが全体の単位元を含むこと | $\{\operatorname{diag}(a,0)\}\subset M_2(\mathbb{R})$ | 部分マグマの単位元は全体の単位元 |
| 左からの簡約 | $\langle\mathbb{Z},\times\rangle$ の $0$ | 冪等元は単位元(prop-identity-element-idempotent) |
| 最小元の存在 | $\langle\mathbb{Z},\max\rangle$ | 単位元の存在(ex-identity-element-lattice) |
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