零対象(zero object)とは、圏の対象で、始対象かつ終対象であるもの、すなわちすべての対象へもすべての対象からもちょうど一本ずつ射が存在する対象である。零対象は存在すれば同型を除いて一意で、始対象と終対象をもつ圏では、終対象から始対象への射が一本でもあることが零対象の存在と同値になる。群・加群・ベクトル空間の自明な対象や点付き集合の一点集合が例であり、$\mathbf{Set}$ や単位的環の圏 $\mathbf{Ring}$ は始対象と終対象をもつが零対象をもたない。零対象を経由して任意の二対象間に零射が定まり、核・余核の定義を通じて加法圏やアーベル圏の理論の基礎になる。
前提知識: 圏
圏 $\mathcal C$ の対象 $0$ が零対象(zero object, null object)であるとは、$0$ が始対象かつ終対象であることをいう。
零対象・始対象・終対象の定義は Mac98 I.5 と Rie16 Definition 1.6.14(p. 44)に沿う。零対象 $0$ と対象 $X$ に対し、ただ一つの射 $0\to X$ と $X\to0$ をそれぞれ $\iota_X$、$\pi_X$ と書くことにする。
圏 $\mathcal C$ が始対象を持てば、それは同型を除いて一意である。終対象についても同様であり、したがって零対象も存在すれば同型を除いて一意である。
$0,0'$ をともに始対象とする。始対象の定義より、射 $f\colon 0\to 0'$ と $g\colon 0'\to 0$ がそれぞれちょうど一つ存在する。合成 $g\circ f\colon 0\to 0$ を考えると、これは $0$ から $0$ への射であり、$0$ が始対象であることから $0$ から $0$ への射は $\operatorname{id}_0$ ただ一つしかない。ゆえに $g\circ f=\operatorname{id}_0$。同様に $f\circ g=\operatorname{id}_{0'}$ が従う。したがって $f,g$ は互いに逆な同型射であり、$0\cong 0'$。終対象の一意性も、すべての矢印を逆にした双対の議論で同じく従う。零対象は始対象かつ終対象なので、その一意性は両者の一意性から直ちに得られる。$\blacksquare$
一意性は「同型を除いて」であり、零対象の取り方は一つとは限らない。例えば点付き集合の圏では、どの一点集合も零対象である。ただし二つの零対象の間の同型はただ一つに定まるので、どれを選んでも以下の構成は変わらない。
零対象は「情報を持たない対象」であり、任意の対象との間に迷いなく定まる橋渡し役を提供する。始対象性は「そこから出発する方法が一意」、終対象性は「そこへ到達する方法が一意」という、互いに双対な二つの条件である。零対象はこの両方を同時に満たす特別な対象であり、両方を満たすからこそ、任意の対象 $A,B$ に対して
$$
A\longrightarrow 0\longrightarrow B
$$
という「$0$ を経由する」射が一意に定まる。この構成が零射の起源である。
始対象と終対象が別々に存在しても、それらが一致するとは限らない点に注意する。零対象とは、単に「始対象が存在し、終対象が存在する」ことではない。次の命題が示すように、両者の間に「終対象から始対象へ」の向きの射が一本でもあることが、零対象の存在と同じことになる。
圏 $\mathcal C$ が始対象 $I$ と終対象 $T$ をもつとする。次は同値である。
(i) $\mathcal C$ は零対象をもつ。
(ii) $I$ と $T$ は同型である。
(iii) 射 $T\to I$ が少なくとも一つ存在する。
さらにこれらが成り立つとき、$I$ も $T$ も零対象である。
(i)⇒(ii):零対象 $0$ は始対象なので、一意性(prop-zero-object-unique)から $0\cong I$。同様に $0\cong T$。よって $I\cong T$。
(ii)⇒(iii):同型 $T\to I$ がその一つである。
(iii)⇒(i):射 $s\colon T\to I$ をとり、$t\colon I\to T$ をただ一つの射とする。$t\circ s\colon T\to T$ は $T$ から終対象 $T$ への射なので、そのような射は $\operatorname{id}_T$ しかなく $t\circ s=\operatorname{id}_T$。同様に $s\circ t\colon I\to I$ は始対象 $I$ からの射なので $s\circ t=\operatorname{id}_I$。よって $t$ は同型射である。任意の $X$ に対し、射 $X\to I$ は $f\mapsto t\circ f$ によって射 $X\to T$ と一対一に対応する(逆は $g\mapsto s\circ g$)。右辺はちょうど一つなので、$X\to I$ もちょうど一つであり、$I$ は終対象でもある。すなわち $I$ は零対象である。同様に $T$ も始対象であり、零対象である。$\blacksquare$
単位元の存在を仮定しない環と、和と積を保つ写像の圏 $\mathbf{Rng}$ では、零環 $\{0\}$ が零対象である。環 $R$ への射 $\{0\}\to R$ は $0\mapsto0$ だけであり、$R\to\{0\}$ は定値写像だけである。単位元を保つことを要求する圏 $\mathbf{Ring}$ では事情が変わる(下の反例)。
圏 $\mathcal C$ が終対象 $T$ をもつとする。対象を組 $(X,x)$($x\colon T\to X$ は射)とし、$(X,x)$ から $(Y,y)$ への射を $f\circ x=y$ を満たす射 $f\colon X\to Y$ とする圏を $\mathcal C_*$ と書く(点付き対象の圏)。このとき $(T,\operatorname{id}_T)$ は $\mathcal C_*$ の零対象である。
$\mathcal C_*$ が圏であることは、恒等射と合成が条件 $f\circ x=y$ を保つことから分かる($g\circ f\circ x=g\circ y=z$)。
始対象であること:$(X,x)$ への射 $f\colon(T,\operatorname{id}_T)\to(X,x)$ は $f\circ\operatorname{id}_T=x$、すなわち $f=x$ を満たす射なので、ちょうど一つ存在する。
終対象であること:$(X,x)$ からの射は $f\colon X\to T$ で $f\circ x=\operatorname{id}_T$ を満たすものである。$T$ は終対象なので $X\to T$ の射はただ一つ $\pi\colon X\to T$ しかない。さらに $\pi\circ x\colon T\to T$ は終対象への射なので $\operatorname{id}_T$ に等しく、条件も満たされる。よって射はちょうど一つである。$\blacksquare$
$\mathcal C=\mathbf{Set}$ とすると $\mathcal C_*$ は点付き集合の圏 $\mathbf{Set}_*$(集合と基点の組、基点を保つ写像)であり、一点集合が零対象になる。$\mathcal C=\mathbf{Top}$ なら点付き位相空間の圏 $\mathbf{Top}_*$ で、一点空間が零対象になる。代数的位相幾何学で基点付きの空間を扱うと零射(基点への定値写像)が使えるのは、この命題による。
圏 $\mathcal C$ が零対象 $0$ を持つとき、$0$ の自己射全体、すなわち $0$ から $0$ への射の集合 $\operatorname{Hom}_{\mathcal C}(0,0)$ は恒等射 $\operatorname{id}_0$ のみからなる一元集合である。
$0$ は終対象でもあるから、定義より $0$ から $0$ への射はちょうど一つしか存在しない。$\operatorname{id}_0$ はその一つの例であるから、$\operatorname{Hom}_{\mathcal C}(0,0)=\{\operatorname{id}_0\}$ である。$\blacksquare$
零対象 $0$ と任意の対象 $X$ に対し、$\iota_X\colon0\to X$ は分裂モノ射、$\pi_X\colon X\to0$ は分裂エピ射であり、$\pi_X\circ\iota_X=\operatorname{id}_0$ が成り立つ。
$\pi_X\circ\iota_X$ は $0$ から $0$ への射なので、prop-zero-object-endomorphism-trivial により $\operatorname{id}_0$ に等しい。これは $\pi_X$ が $\iota_X$ の左逆射であること、言い換えれば $\iota_X$ が $\pi_X$ の右逆射であることを意味する。左逆射をもつ射はモノ射であり($\iota_Xa=\iota_Xb$ に $\pi_X$ を左から合成すれば $a=b$)、右逆射をもつ射はエピ射である(双対)。$\blacksquare$
半順序集合 $(P,\le)$ を、$x\le y$ のときだけ射 $x\to y$ がただ一つある圏とみなす。この圏が零対象をもつのは、$P$ が一元集合のときに限る。
この圏で始対象はすべての元以下の元、すなわち最小元であり、終対象は最大元である。零対象 $0$ があれば、任意の $x\in P$ について $0\le x$ かつ $x\le0$ なので、反対称律から $x=0$ となる。よって $P=\{0\}$。逆に一元集合ならその元は最小元かつ最大元である。$\blacksquare$
零対象を持つ圏では、任意の対象 $A,B$ に対して合成 $\iota_B\circ\pi_A\colon A\to B$ が定まり、これを零対象を経由する零射とよぶ。この射の族が任意の合成と両立する(吸収的である)こと、および零対象の選び方によらないことは、零射の命題「零対象による零射の構成」で証明する。零射があると、射 $f\colon A\to B$ の核・余核を「$f$ と零射の等化子・余等化子」として定義でき、加法圏・アーベル圏の理論が始まる。
特に、零対象をもつ圏では任意の二つの対象の間に少なくとも一本の射がある。逆にいえば、射が一本もない対象の組をもつ圏は零対象をもたない。$\mathbf{Set}$ では空でない集合から空集合への写像がなく、下の表の体の圏では標数の違う体の間に射がないので、どちらも零対象をもたないことがこの観察だけからも分かる。
零対象をもつ圏どうしの間の関手 $F\colon\mathcal C\to\mathcal D$ が零対象を零対象に送るとき、$F$ は零対象を保つという。零対象の一意性から、ある一つの零対象について $F(0)$ が零対象であれば、どの零対象の像も零対象である(同型な対象の像は同型であり、零対象と同型な対象は零対象だからである)。
$\mathcal C,\mathcal D$ が零対象をもち、関手 $F\colon\mathcal C\to\mathcal D$ が零対象を保つとする。このとき任意の対象 $A,B$ に対し、$F$ は零対象を経由する射 $\iota_B\circ\pi_A\colon A\to B$ を、$\mathcal D$ の零対象を経由する射 $FA\to FB$ に送る。
関手は合成を保つので $F(\iota_B\circ\pi_A)=F(\iota_B)\circ F(\pi_A)$ であり、これは $FA\to F(0)\to FB$ という $F(0)$ を経由する射である。$F(0)$ は $\mathcal D$ の零対象なので、$FA\to F(0)$ と $F(0)\to FB$ はそれぞれただ一つの射であり、合成は $F(0)$ を経由する $FA\to FB$ のただ一つの射に等しい。$\mathcal D$ の零対象 $0'$ を別に選んでも、同型 $F(0)\cong0'$ を挟めば、それを経由する射と一致する。$\blacksquare$
左随伴関手は始対象を保ち、右随伴関手は終対象を保つ(始対象は空図式の余極限、終対象は空図式の極限であり、余極限(圏論)の命題「左随伴は余極限を保存する」とその双対による)。したがって左随伴かつ右随伴である関手、特に圏同値は零対象を保つ。一方、片側だけの随伴では零対象が保たれるとは限らない。
群の圏から集合の圏への忘却関手 $U\colon\mathbf{Grp}\to\mathbf{Set}$ は、零対象 $\{e\}$ を一点集合に送る。一点集合は $\mathbf{Set}$ の終対象だが、始対象ではない(空集合への写像がない)ので零対象ではない。そもそも $\mathbf{Set}$ には零対象がない。$U$ は右随伴(自由群の関手の右随伴)なので終対象は保つが、始対象は保たない。関手が零対象を保つことは、関手であることからは従わない。
零対象の定義の二条件はそれぞれ独立であり、どちらか一方だけでは零対象にならない。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| 始対象と終対象が同型であること | $\mathbf{Set}$ の $\emptyset$ と一点集合 | 零対象の存在 |
| 終対象であること | $\mathbf{Ring}$ の整数環 $\mathbb Z$(始対象) | $\mathbb Z$ が零対象であること |
| 始対象であること | $\mathbf{Ring}$ の零環 $\{0\}$(終対象) | 零環が零対象であること |
| 始対象・終対象の存在 | 体と体準同型の圏 | 始対象・終対象・零対象の存在 |
| 元が一つであること | 二元以上の半順序集合 | 零対象の存在(prop-zero-object-poset) |
$\mathbf{Set}$ では、空集合 $\emptyset$ が始対象(空集合からの写像はただ一つ、空写像)であり、任意の一元集合 $\{*\}$ が終対象である。しかし $\{*\}$ から $\emptyset$ への写像はないので、prop-zero-object-characterization の条件 (iii) が破れ、$\mathbf{Set}$ は零対象を持たない。
単位的環を対象とし単位元を保つ環準同型を射とする圏 $\mathbf{Ring}$ も同様である。整数環 $\mathbb Z$ が始対象($\mathbb Z\to R$ は $n\mapsto n\cdot1_R$ しかない)、零環 $\{0\}$ が終対象である。零環から $\mathbb Z$ への単位元を保つ写像は $1=0$ を $1$ と $0$ の両方に送らなければならないので存在しない。よって条件 (iii) が破れ、$\mathbf{Ring}$ は零対象を持たない。$\mathbb Z$ は始対象だが終対象でなく($\mathbb Z/2\mathbb Z\to\mathbb Z$ で $1+1=0$ を保つ射はない)、零環は終対象だが始対象でない。始対象・終対象がともに存在することと、それらが一致して零対象を与えることとは別の条件である。
体と体の準同型(単位元を保つ環準同型)の圏を考える。体の準同型は単射で、標数を保つ。よって二元体 $\mathbb F_2$ と有理数体 $\mathbb Q$ の間には、どちら向きにも射がない。始対象 $I$ があれば $I\to\mathbb F_2$ と $I\to\mathbb Q$ がともに存在するので $I$ の標数は $2$ かつ $0$ となり矛盾する。終対象についても同様である。したがってこの圏には始対象も終対象もなく、零対象もない。「どの圏にも始対象か終対象がある」という主張を破る例である。
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