粗幾何学(coarse geometry)とは、距離空間を有界な誤差を無視した大きな尺度の形で調べる幾何学の分野であり、距離の増え方を関数で抑え有界集合の逆像が有界な粗写像と、互いの合成が恒等写像に近い粗同値で空間を比べる。長さ空間の間では粗同値と準等長写像は同じものになり、有限生成群の語距離や Švarc–Milnor の補題を通じて幾何学的群論の言葉になる。粗同値で変わらない量として増大度や漸近次元があり、無限な有限生成群の漸近次元は 1 以上である。漸近次元が有限な群では Novikov の高次符号数予想が成り立つという Yu の定理など、多様体の位相にも応用される。
粗幾何学(coarse geometry)は、距離空間を「非常に遠くから見たときの形」で調べる幾何学の分野である。大きな尺度の幾何学(large-scale geometry)ともいう。遠くから見ると、整数の集合 $\mathbb{Z}$ と実数直線 $\mathbb{R}$ は区別できず、碁盤の目 $\mathbb{Z}^2$ と平面 $\mathbb{R}^2$ も区別できない。一方、$\mathbb{Z}$ と $\mathbb{Z}^2$ は遠くから見ても違う(幾何学的群論 の系「$\mathbb Z^m$ と $\mathbb Z^n$ の区別」と thm-cg-qi)。粗幾何学は、有界な誤差を無視しても変わらない性質(粗不変量)を見つけ、それで空間を分類する。
主な舞台は二つある。一つは有限生成群で、群を語距離で距離空間とみなすと、生成系の取り方による違いは有界な誤差の範囲に収まる(幾何学的群論)。もう一つは多様体の位相で、基本群の大きな尺度の形が Novikov 予想と結びつく(rem-cg-novikov)。
この記事では、距離空間の粗写像・粗同値と準等長写像を定義し、分野の主な問いと定理を表にまとめる。代表的な定理として、長さ空間の間では粗同値と準等長が同じであること、漸近次元が粗同値で変わらないこと、無限な有限生成群の漸近次元が $1$ 以上であることを完全に証明する。最後に学ぶ順の道筋を示す。
$(X,d_X)$、$(Y,d_Y)$ を距離空間とし、文脈から明らかなときは距離をどれも $d$ と書く。写像 $f\colon X\to Y$ は連続でなくてよい。
写像 $f\colon X\to Y$ について次のようにいう。
写像 $f,g\colon S\to Y$($S$ は集合)が 近い とは、$\sup_{s\in S}d(f(s),g(s))<\infty$ となることをいう。粗写像 $f\colon X\to Y$ に対して、粗写像 $g\colon Y\to X$ で $g\circ f$ が $\mathrm{id}_X$ に、$f\circ g$ が $\mathrm{id}_Y$ に近いものがあるとき、$f$ を 粗同値(coarse equivalence)といい、$g$ を $f$ の 粗逆写像 という。粗同値 $X\to Y$ があるとき、$X$ と $Y$ は 粗同値 であるという。
これらは 粗空間 の定義「固有写像・粗一様写像・粗写像」「近い写像・粗同値」を、距離空間の有界粗構造($\{(x,x')\mid d(x,x')< r\}$ に含まれる集合を制御集合とする粗構造)について書き直したものである。実際、有界粗構造について $f$ が粗一様であることは、各 $r>0$ について $\rho(r):=\sup\{d(f(x),f(x'))\mid d(x,x')< r\}$ が有限であることであり、このとき $\rho_+(t):=\rho(t+1)$ が 1 の関数になる。逆に 1 の $\rho_+$ があれば、$d(x,x')< r$ の点対は $d(f(x),f(x'))\le\rho_+(r)$ を満たす。
幾何学的群論 の定義「準等長写像」の $(\lambda,c)$-準等長写像は、$\frac1\lambda d(x,x')-c\le d(f(x),f(x'))\le\lambda d(x,x')+c$ を満たし、像から $c$ 以内に $Y$ の全体が入る写像であった。これは $\rho_+$ を 1 次関数にとれる粗写像で、距離の縮み方も 1 次関数で抑えられるものである。
| 問い | 代表的な定理 | この記事での扱い | 詳しく扱う記事 |
|---|---|---|---|
| 粗同値と準等長の関係 | 長さ空間の間では粗同値 $\iff$ 準等長 | thm-cg-qi(証明) | 長さ空間 |
| 群と空間を結ぶ | Švarc–Milnor の補題 | 引用 | 幾何学的群論 |
| 体積の増え方 | 増大度は準等長で変わらない | 引用 | 幾何学的群論 |
| 増大度による群の特徴付け | 多項式増大度の群は指数有限の冪零部分群をもつ(Gromov) | 引用 | 幾何学的群論 |
| 大きな尺度の次元 | 漸近次元は粗同値で変わらない | thm-cg-asdim-invariance(証明) | — |
| 次元が小さい群 | 無限な有限生成群の漸近次元は $1$ 以上 | prop-cg-asdim-group(証明) | — |
| Hilbert 空間への埋め込み | 漸近次元が有限なら Hilbert 空間に粗埋め込みできる | rem-cg-novikov(言明) | — |
| 指数理論への応用 | 基本群の漸近次元が有限な多様体では Novikov の高次符号数予想が成り立つ(Yu) | rem-cg-novikov(言明) | — |
長さ空間では、近い点の距離が制御できれば、遠い点の距離も 1 次関数で制御できる。これが下の定理の 2 の要点である。
$X$ を長さ空間、$f\colon X\to Y$ を粗一様な写像とし、$\rho_+$ を def-cg-coarse-map の関数とする。このとき、すべての $x,x'\in X$ について
$$
d(f(x),f(x'))\le\rho_+(1)\bigl(d(x,x')+2\bigr)
$$
である。
$x$ と $x'$ を結ぶ曲線 $\gamma\colon[a,b]\to X$ で $L(\gamma)< d(x,x')+1$ となるものをとる。$L:=L(\gamma)$、$n:=\lceil L\rceil$($L=0$ なら $x=x'$ で明らか)とする。途中までの長さ $\lambda(t):=L(\gamma|_{[a,t]})$ は連続(長さ空間 の補題「途中までの長さは連続」)なので、$a=t_0\le t_1\le\cdots\le t_n=b$ を $\lambda(t_j)=\min(j,L)$ となるようにとれる。$x_j:=\gamma(t_j)$ とおくと $d(x_{j-1},x_j)\le\lambda(t_j)-\lambda(t_{j-1})\le1$ なので、
$$
d(f(x),f(x'))\le\sum_{j=1}^nd(f(x_{j-1}),f(x_j))\le n\,\rho_+(1)\le(L+1)\rho_+(1)\le\bigl(d(x,x')+2\bigr)\rho_+(1)
$$
である。$\square$
1。 $f\colon X\to Y$ を $(\lambda,c)$-準等長写像とする。各 $y\in Y$ について $d(y,f(x))\le c$ となる $x$ を一つ選んで $g(y):=x$ とおく。$f\circ g$ と $\mathrm{id}_Y$ の距離は $c$ 以下である。$x\in X$ について $d(f(g(f(x))),f(x))\le c$ なので、下からの評価 $\frac1\lambda d(g(f(x)),x)-c\le c$ から $d(g(f(x)),x)\le2\lambda c$ であり、$g\circ f$ は $\mathrm{id}_X$ に近い。$f$ は $\rho_+(t)=\lambda t+c$ で粗一様で、$d(x,x')\le\lambda(d(f(x),f(x'))+c)$ なので計量的に固有である。$g$ については
$$
d(g(y),g(y'))\le\lambda\bigl(d(f(g(y)),f(g(y')))+c\bigr)\le\lambda\bigl(d(y,y')+3c\bigr)
$$
であり、逆に $d(y,y')\le d(f(g(y)),f(g(y')))+2c\le\lambda d(g(y),g(y'))+3c$ である。前者から $g$ は粗一様、後者から計量的に固有である。
2。 $g$ を $f$ の粗逆写像とし、$\sup_xd(g(f(x)),x)\le C$、$\sup_yd(f(g(y)),y)\le C$ とする。lem-cg-large-scale-lipschitz を $f$ と $g$ に使うと、ある $A\ge1$ について
$$
d(f(x),f(x'))\le A\bigl(d(x,x')+2\bigr),\qquad d(g(y),g(y'))\le A\bigl(d(y,y')+2\bigr)
$$
である。よって
$$
d(x,x')\le d(x,g(f(x)))+d(g(f(x)),g(f(x')))+d(g(f(x')),x')\le A\,d(f(x),f(x'))+2A+2C
$$
であり、$\frac1Ad(x,x')-\frac{2A+2C}A\le d(f(x),f(x'))\le A\,d(x,x')+2A$ となる。また任意の $y$ は $f(g(y))$ から $C$ 以内にある。$\lambda:=A$、$c:=\max(2A+2C,C)$ とすれば $f$ は $(\lambda,c)$-準等長写像である。$\square$
2 の仮定は外せない。$\mathbb{R}$ に距離 $\sqrt{\lvert x-y\rvert}$ を入れた空間は長さ空間でなく、恒等写像 $(\mathbb{R},\lvert\cdot\rvert)\to(\mathbb{R},\sqrt{\lvert\cdot\rvert})$ は粗同値だが準等長写像ではない(ex-cg-counterexamples)。有限生成群の語距離は長さ空間の距離ではないので、2 は群の語距離にはそのままでは使えない。
位相空間の被覆次元は「細かい開被覆を、どの点も高々 $n+1$ 個にしか含まれないように取れるか」で次元を測る。漸近次元はこれを大きな尺度に移したもので、M. Gromov が有限生成群の不変量として導入した(BD07 p. 2)。
距離空間 $X$ の部分集合の族 $\mathcal{U}$ が 一様に有界 であるとは $\sup_{U\in\mathcal{U}}\operatorname{diam}U<\infty$ となることをいい、$r>0$ について $r$-離散 であるとは、異なる $U,U'\in\mathcal{U}$ について $d(U,U'):=\inf\{d(u,u')\mid u\in U,u'\in U'\}>r$ となることをいう。整数 $n\ge0$ について、任意の $r>0$ に対して、一様に有界で $r$-離散な $n+1$ 個の族 $\mathcal{U}_0,\dots,\mathcal{U}_n$ で、それらの元の和集合が $X$ になるものがあるとき、$\operatorname{asdim}X\le n$ と書く。そのような $n$ の最小値を $X$ の 漸近次元(asymptotic dimension)といい、どの $n$ もそうでなければ $\operatorname{asdim}X=\infty$ とする。
Gromov の元の定義は、一様に有界な任意の被覆を、重なりの多重度が $n+1$ 以下の一様に有界な被覆で粗くできることを求めるもので、上の定義と同値である(BD07 Theorem 19、pp. 7–8。この記事では証明しない)。
距離空間 $X$ と $Y$ が粗同値なら $\operatorname{asdim}X=\operatorname{asdim}Y$ である。
$f\colon X\to Y$ を粗同値、$g$ をその粗逆写像とし、$\rho^f_+$、$\rho^g_+$ を粗一様性の関数、$C:=\sup_yd(f(g(y)),y)<\infty$ とする。$\operatorname{asdim}X\le n$ と仮定して $\operatorname{asdim}Y\le n$ を示す。逆向きは $f$ と $g$ の役割を入れ替えればよい。
$r>0$ をとり、$s:=\rho^g_+(r+1)$ とする。仮定から、一様に有界で $s$-離散な族 $\mathcal{U}_0,\dots,\mathcal{U}_n$ で $X$ を覆うものがある。$D:=\sup\{\operatorname{diam}U\mid U\in\mathcal{U}_0\cup\dots\cup\mathcal{U}_n\}$ とし、
$$
\mathcal{V}_i:=\{g^{-1}(U)\mid U\in\mathcal{U}_i\}\qquad(i=0,\dots,n)
$$
とおく。$\mathcal{U}_i$ の元の和集合が $X$ なので、$\mathcal{V}_i$ の元の和集合は $Y$ である。
$r$-離散。 $U\ne U'$ が $\mathcal{U}_i$ の元で、$y\in g^{-1}(U)$、$y'\in g^{-1}(U')$ が $d(y,y')\le r+1$ を満たすとすると、$d(g(y),g(y'))\le\rho^g_+(r+1)=s$ となり、$d(U,U')>s$ に反する。よって $d(g^{-1}(U),g^{-1}(U'))\ge r+1>r$ である。
一様に有界。 $y,y'\in g^{-1}(U)$ なら $d(g(y),g(y'))\le D$ なので
$$
d(y,y')\le d(y,f(g(y)))+d(f(g(y)),f(g(y')))+d(f(g(y')),y')\le2C+\rho^f_+(D)
$$
である。$\square$
連結なグラフのように「小さな歩幅でつながっている」空間は、漸近次元が $0$ にならない。
$c>0$ とし、距離空間 $X$ の任意の 2 点 $x,y$ が、隣どうしの距離が $c$ 以下の有限列 $x=x_0,x_1,\dots,x_k=y$ で結べるとする。$X$ が有界でなければ $\operatorname{asdim}X\ge1$ である。とくに、無限な有限生成群(語距離)の漸近次元は $1$ 以上であり、有限生成群の漸近次元が $0$ であることと有限であることは同値である。
$\operatorname{asdim}X\le0$ と仮定する。定義を $r:=c$ で使うと、一様に有界で $c$-離散な一つの族 $\mathcal{U}_0$ が $X$ を覆う。$x$ を含む元を $U$ とすると、列 $x_0,\dots,x_k$ の隣どうしは距離 $c$ 以下なので異なる元に属することができず、$y\in U$ となる。よって $U=X$ であり、$X$ は有界になって仮定に反する。
有限生成系 $S$ の語距離では、$g$ と $gs$($s\in S$)の距離が $1$ なので、$c=1$ で仮定が成り立つ。語距離の球 $\{g\mid\lvert g\rvert_S\le r\}$ は高々 $(\#S+1)^r$ 個の元しかもたないので、無限群は有界でない。有限群は有界なので漸近次元は $0$ である(ex-cg-asdim-examples の 1)。$\square$
この記事では次の定理を証明しない。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| thm-cg-qi の 2 の $Y$ が長さ空間であること | 恒等写像 $(\mathbb{R},\lvert x-y\rvert)\to(\mathbb{R},\sqrt{\lvert x-y\rvert})$ | 粗同値だが準等長写像でない |
| thm-cg-qi の 1 の準等長写像の像が粗く稠密であること | $\mathbb{Z}\to\mathbb{Z}^2$、$n\mapsto(n,0)$ | 距離を保つが粗同値でない |
| thm-cg-asdim-invariance の粗同値(粗写像であるだけでは足りない) | $X:=\{k^2\mid k\ge0\}\subset\mathbb{Z}$ から $\mathbb{Z}$ への $k^2\mapsto k$ | 粗写像だが $\operatorname{asdim}X=0<1=\operatorname{asdim}\mathbb{Z}$ |
| prop-cg-asdim-group の小さな歩幅でつながること | $X:=\{k^2\mid k\ge0\}\subset\mathbb{Z}$ | 有界でないが $\operatorname{asdim}X=0$ |
各行で外れているのは一つの条件だけであることを確かめる。
1 行目:$t\mapsto\sqrt t$ は $\sqrt{s+t}\le\sqrt s+\sqrt t$ を満たすので $\sqrt{\lvert x-y\rvert}$ は距離である。恒等写像は $\rho_+(t)=\sqrt t$ で粗一様、逆写像は $\rho_+(t)=t^2$ で粗一様で、どちらも有界集合を有界集合に引き戻すので粗同値である。$\sqrt t\ge\frac t\lambda-c$ はどの $\lambda,c$ でも大きな $t$ で破れるので準等長写像でない。$(\mathbb{R},\lvert\cdot\rvert)$ は長さ空間である。$(\mathbb{R},\sqrt{\lvert\cdot\rvert})$ で $0$ と $4$ の距離は $2$ である。$z$ がその $\varepsilon$-中点なら $\sqrt{\lvert z\rvert}\le1+\varepsilon$、$\sqrt{\lvert z-4\rvert}\le1+\varepsilon$ なので $4\le\lvert z\rvert+\lvert z-4\rvert\le2(1+\varepsilon)^2$ となり、$\varepsilon\ge\sqrt2-1$ でなければならない。よって $\varepsilon<\sqrt2-1$ の $\varepsilon$-中点はなく、この空間は長さ空間でない(長さ空間 の補題「長さ空間には近似的な中点がある」)。
2 行目:$d((n,0),(m,0))=\lvert n-m\rvert$ なので $(1,0)$-準等長写像の評価式を満たすが、$(0,k)$ は像から距離 $k$ にあり、像は粗く稠密でない。粗逆写像 $g$ があれば $f\circ g$ は恒等写像に近いので、像の $C$ 近傍が全体になるはずである。
3・4 行目:$r>0$ について、$2k_0+1>r$ となる最小の整数 $k_0\ge0$ をとる。有限集合 $\{k^2\mid k\le k_0\}$ を一つの元とし、$k>k_0$ の $k^2$ を一点ずつの元とする。$k\ge k_0$ なら $(k+1)^2-k^2=2k+1>r$ なので、これは一様に有界で $r$-離散な一つの族である。よって $\operatorname{asdim}X=0$ である。$h(k^2):=k$ は $\lvert k-l\rvert\le\lvert k^2-l^2\rvert$ なので $\rho_+(t)=t$ で粗一様であり、有界集合の逆像は有限集合なので計量的に固有である。$\operatorname{asdim}\mathbb{Z}=1$ は ex-cg-asdim-examples の 3 による。$X$ は有界でなく、$k^2$ と $(k+1)^2$ の間は $2k+1$ 離れている。
漸近次元は 1990 年代の初めに Gromov が有限生成群の不変量として導入した(BD07 p. 1)。漸近次元への関心を大きく高めたのは、1998 年の Yu による Novikov 予想の結果である(BD07 p. 2)。
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