非可換多項式環(noncommutative polynomial ring)とは、可換環 $R$ と文字の集合 $X$ について、文字の有限列(語)を基底とし語の連結を積とする $R$ 代数 $R\langle X\rangle$ のことで、自由代数ともいう。文字を任意の $R$ 代数の元に送る写像はただ一つの準同型に延びるので、生成元と関係式で与えられる代数はすべてその剰余環として得られ、有限個の文字の場合はテンソル代数 $T(R^n)$ と同型である。係数が整域なら零因子をもたず単元は定数だけだが、文字が $2$ 個以上なら中心は $R$ だけで、Noether 環でなく、可算無限個の文字の非可換多項式環を部分代数に含む。多重ゼータ値の Hoffman 代数 $\mathbb{Q}\langle x,y\rangle$ はその例である。
多項式環 $R[x,y]$ では $xy=yx$ だが、変数どうしの順序を区別して $xy\ne yx$ とし、$xyx$、$x^2y$、$yx^2$ をすべて別の「単項式」として扱うと、非可換多項式環 $R\langle x,y\rangle$ が得られる。その元は文字 $x,y$ の有限列(語)の一次結合であり、積は語をつなげることで定まる。たとえば $(x+y)^2=x^2+xy+yx+y^2$ で、$xy$ と $yx$ はまとまらない。
非可換多項式環は、可換とは限らない代数の世界での「自由な」対象である。文字を代数の任意の元に送る写像は、ただ一つの準同型に延びる(thm-ncpoly-universal)。そのため、生成元と関係式で与えられる代数(Weyl代数、外積代数、可換な多項式環そのもの)は、すべて非可換多項式環を両側イデアルで割ったものとして作られる。多重ゼータ値の理論では、2 文字の非可換多項式環 $\mathbb{Q}\langle x,y\rangle$ が Hoffman代数 と呼ばれ、多重ゼータ値の積の規則を語の組合せ論として扱う舞台になる(多重ゼータ値)。
一方、可換な多項式環との違いも大きい。係数が整域なら零因子をもたず単元は定数だけという点は同じだが、文字が 2 個以上あると中心は係数環だけになり(thm-ncpoly-domain)、Noether 環でなくなる(cor-ncpoly-not-noetherian)。2 文字の非可換多項式環は、可算無限個の文字の非可換多項式環を部分代数として含む(prop-ncpoly-subalgebra)。
以下、$R$ は単位元をもつ可換環、$R$ 代数は多元環の意味(環 $A$ と、像が $A$ の中心に入る環準同型 $R\to A$ の組。$A$ は可換とは限らない)とする。$X$ を集合とし、その元を 文字 とよぶ。
$X$ の元の有限列 $w=a_1a_2\cdots a_l$($a_i\in X$、$l\ge0$)を $X$ 上の 語(word)、$l$ をその 長さ といい、長さ $0$ の語を $1$ と書く。語の全体 $X^*$ は連結 $(a_1\cdots a_l)(b_1\cdots b_m)=a_1\cdots a_lb_1\cdots b_m$ について、$1$ を単位元とするモノイドである($X$ 上の自由モノイド)。
$X^*$ を基底とする自由 $R$ 加群に、語の連結を双線形に延ばした積
$$
\Bigl(\sum_uc_uu\Bigr)\Bigl(\sum_vd_vv\Bigr)=\sum_{u,v}c_ud_v\,uv
$$
を入れた $R$ 代数を、$X$ 上の 非可換多項式環(noncommutative polynomial ring)または 自由代数(free algebra)といい、$R\langle X\rangle$ と書く。$X=\{x_1,\dots,x_n\}$ のときは $R\langle x_1,\dots,x_n\rangle$ と書く。長さ $d$ の語で張られる部分 $R$ 加群を $R\langle X\rangle_d$ とし、その元を $d$ 次の斉次元という。
$R\langle X\rangle$ はモノイド $X^*$ のモノイド環 $R[X^*]$ であり、結合法則などは一般のモノイド環と同じ計算で確かめられる(Lan02 Chapter II §3、pp. 104–106)。体上の場合の定義とテンソル代数との関係は EGH11 Example 1.6 の 4(p. 7)と §1.11(p. 19)にもある。$R$ は $r\mapsto r\cdot1$ で中心に入る。$R\langle X\rangle_dR\langle X\rangle_e\subset R\langle X\rangle_{d+e}$ なので $R\langle X\rangle=\bigoplus_{d\ge0}R\langle X\rangle_d$ は次数付き環である。$0$ でない元 $f$ について、$f$ の $0$ でない斉次成分の最大の次数を $\deg f$ と書く。
「非可換多項式環」という語は、変数と係数が可換でない多項式の環、たとえば係数環の自己準同型 $\sigma$ で捻って $xa=\sigma(a)x$ と定める捻れ多項式環(Ore 拡大)や、可換でない環を係数とする 1 変数の多項式環(多項式環 の注意「関連する構成」)の意味で使われることもある。この記事では、文字どうしが可換でない自由代数 $R\langle X\rangle$ の意味に限る。
1:一意性。$F$ は積を保つので、語 $w=a_1\cdots a_l$ について $F(w)=f(a_1)\cdots f(a_l)$、$F(1)=1$ でなければならず、$R$ 線形性から $F$ は決まる。存在。この式で語の上の値を定め、$R$ 線形に延ばして $F$ を定める。語 $u=a_1\cdots a_l$、$v=b_1\cdots b_m$ について、$B$ の積の結合法則から $F(uv)=f(a_1)\cdots f(a_l)f(b_1)\cdots f(b_m)=F(u)F(v)$ である。積は双線形で、$R$ の像は $B$ の中心にあるので、$F\bigl((\sum c_uu)(\sum d_vv)\bigr)=\sum c_ud_vF(u)F(v)=F(\sum c_uu)F(\sum d_vv)$ となる。$F(r\cdot1)=r\cdot1_B$ なので $F$ は $R$ 代数の準同型である。
2:像は $b_a$ を含む部分 $R$ 代数なので、生成の仮定から $B$ 全体である。準同型定理により $B\cong R\langle X\rangle/\ker F$ である。
3:1 により $x_i\mapsto e_i$ となる準同型 $\Phi\colon R\langle x_1,\dots,x_n\rangle\to T(R^n)$ がある。逆向きには、$R$ 線形写像 $R^n\to R\langle x_1,\dots,x_n\rangle$、$e_i\mapsto x_i$ から、テンソル代数の普遍性(対称代数 の補題「テンソル代数の普遍性」)により $\Psi\colon T(R^n)\to R\langle x_1,\dots,x_n\rangle$ がある。$\Psi\circ\Phi$ は $x_i$ を固定するので 1 の一意性により恒等写像であり、$\Phi\circ\Psi$ は $T^1(R^n)=R^n$ 上で恒等写像なので、テンソル代数の普遍性の一意性により恒等写像である。$\square$
1 は、$R\langle X\rangle$ が「$X$ 上の自由な $R$ 代数」であることを述べている。たとえば $R\langle x_1,\dots,x_n\rangle$ を交換子 $x_ix_j-x_jx_i$ 全体で生成される両側イデアルで割ると多項式環 $R[x_1,\dots,x_n]$ が得られ、関係式 $[\partial_i,x_j]=\delta_{ij}$ などで割ると Weyl代数 が得られる。3 は、体上の有限次元ベクトル空間の場合に、DF04 §11.5 の Theorem 31(p. 442、テンソル代数の普遍性)と Proposition 32(p. 443、基底のテンソル積が基底になること)から導かれている(p. 443)。
次の環は、非可換多項式環を括弧内の元で生成される両側イデアルで割ったものに同型である。
1:$f,g$ に現れる文字は有限個なので、それらに全順序を一つ入れ、同じ長さの語を辞書式に(最初に異なる文字で)比べる。$d=\deg f$、$e=\deg g$ とし、$f_d,g_e$ を最高次の斉次成分、$u_0,v_0$ をそれぞれの台の最大の語、$c,c'\ne0$ をその係数とする。長さ $d+e$ の語は長さ $d$ と $e$ の語の連結にただ一通りに分かれ、辞書式順序では $uv$ と $u'v'$ の大小はまず $u,u'$ で、等しければ $v,v'$ で決まる。よって $f_dg_e$ に現れる語 $uv$ の中で $u_0v_0$ が最大で、それを与える組は $(u_0,v_0)$ だけだから、$f_dg_e$ の $u_0v_0$ の係数は $cc'\ne0$ である。$fg$ の次数 $d+e$ の成分は $f_dg_e$ なので、$fg\ne0$、$\deg(fg)=d+e$ である。$fg=1$ なら $\deg f+\deg g=0$ より $f,g\in R$ で、$f$ は $R$ の単元である。
2:$R$ が中心に入ることは定義による。$P=\sum_wc_ww$ が中心に入るとし、空でない語 $w$ について $c_w=0$ を示す。文字 $a$ を一つ固定する。$aP$ の語 $aw$ の係数は $c_w$ である。一方 $Pa=\sum_vc_vva$ に現れる語はどれも $a$ で終わるので、$aw$ が $a$ で終わらなければ $Pa$ の $aw$ の係数は $0$ である。$aP=Pa$ だから、$c_w\ne0$ なら $aw$ は $a$ で終わり、$w$ は空でないので $w$ の最後の文字は $a$ である。これがすべての文字 $a$ について成り立つが、$X$ には異なる 2 文字があるので矛盾する。よって $c_w=0$ であり、$P=c_1\in R$ である。$\square$
2 文字あれば、無限個の文字の非可換多項式環を作れる。これは可換な多項式環 $k[x,y]$ では起こらない現象である($k[x,y]$ の部分代数は互いに可換な元で生成される)。
$x\ne y$ を文字とし、$z_k=yx^{k-1}$($k\ge1$)とおく。可算無限個の文字 $Z=\{z_1,z_2,\dots\}$ の非可換多項式環から $R\langle x,y\rangle$ への準同型 $\varphi$($z_k\mapsto yx^{k-1}$)は単射であり、その像は $1$ と $y$ で始まる語で張られる部分 $R$ 加群 $R\oplus yR\langle x,y\rangle$ である。
$\varphi$ は $Z$ 上の語 $z_{k_1}\cdots z_{k_r}$ を語 $yx^{k_1-1}yx^{k_2-1}\cdots yx^{k_r-1}$ に送る。$y$ で始まる語は、各 $y$ の直前で切ることで $yx^{a_1}\cdots yx^{a_r}$($a_i\ge0$)の形にただ一通りに書けるので、$\varphi$ は $Z$ 上の語の全体を、$1$ と $y$ で始まる語の全体へ一対一に写す。基底を基底の一部へ一対一に写す $R$ 線形写像は単射で、像はその一部が張る部分加群である。$\square$
Hoffman代数 $\mathfrak{H}=\mathbb{Q}\langle x,y\rangle$ の部分代数 $\mathfrak{H}^1=\mathbb{Q}+y\mathfrak{H}$ が $z_k$ を文字とする非可換多項式環 $\mathbb{Q}\langle z_1,z_2,\dots\rangle$ と同一視できるのは、この命題による。
$R\ne0$ で $X$ が異なる 2 文字 $x,y$ を含むなら、$R\langle X\rangle$ は左 Noether 環でも右 Noether 環でもない。
要点:左イデアル $L_N=\sum_{k\le N}R\langle X\rangle yx^k$ は真に増大する。
$L_N$ は語 $uyx^k$($u$ は語、$0\le k\le N$)で張られる。語の集合で張られる部分加群に元が入ることは、その元の台がその集合に含まれることと同値である。語 $yx^{N+1}$ が $uyx^k$ の形に書けたとすると、$y$ はただ一つで先頭にあるので $u=1$、$k=N+1$ となり、$k\le N$ に反する。よって $yx^{N+1}\notin L_N$ だが $yx^{N+1}\in L_{N+1}$ であり($R\ne0$ なので $yx^{N+1}\ne0$)、$L_0\subsetneq L_1\subsetneq\cdots$ は止まらない。右イデアル $\sum_{k\le N}x^kyR\langle X\rangle$ についても、語の先頭を見て同様である。$\square$
語を逆順に並べる写像 $a_1\cdots a_l\mapsto a_l\cdots a_1$ を $R$ 線形に延ばした $\tau$ は、$\tau(uv)=\tau(v)\tau(u)$ を満たし、$\tau\circ\tau=\mathrm{id}$ なので、$R\langle X\rangle$ の反自己同型である。$\mathfrak{H}=\mathbb{Q}\langle x,y\rangle$ では、これと $x,y$ の入れ替えを合成した反自己同型が $\mathfrak{H}^0=\mathbb{Q}+y\mathfrak{H}x$ を保ち、多重ゼータ値の双対性を述べるのに使われる(多重ゼータ値)。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| thm-ncpoly-domain の 1 の「$R$ は整域」(零因子) | $R=\mathbb{Z}/6\mathbb{Z}$、$f=2x$、$g=3y$ | $f,g\ne0$ だが $fg=6xy=0$ |
| thm-ncpoly-domain の 1 の「$R$ は整域」(単元) | $R=k[\varepsilon]/(\varepsilon^2)$、$f=1+\varepsilon x$ | $f$ は単元(逆元 $1-\varepsilon x$)だが定数でない |
| thm-ncpoly-domain の 2 の「2 個以上の文字」 | $X=\{x\}$、$R\langle x\rangle=R[x]$ | 可換なので中心は $R[x]$ 全体で、$R\ne0$ なら $R$ より大きい |
| cor-ncpoly-not-noetherian の「2 個以上の文字」 | $R$ が Noether 環、$X=\{x\}$ | $R\langle x\rangle=R[x]$ は Hilbertの基底定理 により Noether 環である |
1 行目:$2\cdot3=6=0$ である。2 行目:$(1+\varepsilon x)(1-\varepsilon x)=1-\varepsilon^2x^2=1$ である。3・4 行目:1 文字の語 $x^l$ どうしの連結は $x^{l+m}$ なので、$R\langle x\rangle$ は $x^l\mapsto x^l$ で多項式環 $R[x]$ と同型であり、可換である。
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