跡(trace)とは、正方行列 $A$ の対角成分の和 $\operatorname{tr}A$ のことであり、$\operatorname{tr}(AB)=\operatorname{tr}(BA)$ により相似な行列は同じ跡をもつので、有限次元のベクトル空間の線形変換にも基底によらずに定まる。跡は固有値の重複度込みの和であり、$\operatorname{tr}(AB)=\operatorname{tr}(BA)$ を満たす線形汎関数は跡の定数倍に限り、跡が $0$ の行列はちょうど交換子の和である。不変部分空間についての加法性から鎖複体の跡公式(Hopf の跡公式)が、$\det(I+tA)$ の $t$ の係数が跡であることから $\det e^A=e^{\operatorname{tr}A}$ が従い、Lefschetz の不動点公式や体の拡大の跡の基礎になる。
正方行列の 跡(trace)とは、対角成分の和 $\operatorname{tr}A=a_{11}+\cdots+a_{nn}$ のことである。定義は成分を足すだけだが、$\operatorname{tr}(AB)=\operatorname{tr}(BA)$ という性質のおかげで相似な行列は同じ跡をもち、有限次元のベクトル空間の線形変換に対して、基底によらない量として跡が定まる。跡は固有値の和であり、置換行列では不動点の個数、冪等な変換では像の次元を数え、行列式を単位行列の近くで 1 次まで展開したときの係数でもある。
この記事では、跡の定義と基底によらないこと(thm-tr-well-defined)、階数 $1$ の写像による座標を使わない表し方(thm-tr-rank-one)、$\operatorname{tr}(AB)=\operatorname{tr}(BA)$ を満たす線形汎関数は跡の定数倍に限ること(thm-tr-characterization)、不変部分空間に関する加法性(thm-tr-additive)とそこから従う鎖複体の跡公式(thm-tr-hopf)、行列式の微分と跡の関係(thm-tr-jacobi)を証明する。
以下、$K$ は体、$M_n(K)$ は $K$ の元を成分とする $n$ 次正方行列の全体である。$E_{ij}$ は $(i,j)$ 成分だけが $1$ で他が $0$ の行列(行列単位)を表す。
$A=(a_{ij})\in M_n(K)$ に対し、対角成分の和
$$
\operatorname{tr}A:=\sum_{i=1}^{n}a_{ii}
$$
を $A$ の 跡(trace)という。トレースとも呼び、$\operatorname{Tr}A$ とも書く。
$A,B\in M_n(K)$、$c\in K$ とする。
1:$A+B$ と $cA$ の $(i,i)$ 成分は $a_{ii}+b_{ii}$ と $ca_{ii}$ なので、和をとればよい。2:転置しても対角成分は変わらない。4:対角成分はすべて $1$ である。3 は 正方行列 の記事の定理「跡の循環性と交換子」の 1 である($A$ が $m\times n$、$B$ が $n\times m$ の長方行列でも成り立つ)。$\square$
$V$ を $n$ 次元の $K$ ベクトル空間、$T\colon V\to V$ を線形変換とする。$V$ の基底 $v$ に関する表現行列 $M_v(T)$ の跡は、基底 $v$ の選び方によらない。
$v,v'$ を $V$ の 2 つの基底とする。相似(行列) の記事の定理「相似と基底の取り替え」の 1 により、$M_{v'}(T)=P^{-1}M_v(T)P$ となる正則行列 $P$ がある。prop-tr-basic の 3 により $\operatorname{tr}M_{v'}(T)=\operatorname{tr}M_v(T)$ である。$\square$
有限次元のベクトル空間 $V$ の線形変換 $T$ について、$V$ の基底 $v$ を 1 つ選び、$\operatorname{tr}T:=\operatorname{tr}M_v(T)$ と定め、$T$ の 跡 という。thm-tr-well-defined によりこれは $v$ によらない。
線形変換 $S,T$ について $\operatorname{tr}(S+T)=\operatorname{tr}S+\operatorname{tr}T$、$\operatorname{tr}(ST)=\operatorname{tr}(TS)$、$\operatorname{tr}\mathrm{id}_V=(\dim V)\cdot1_K$ が成り立つ。同じ基底で表現行列をとれば、prop-tr-basic に帰着するからである。$V\to V$ の線形変換でも、定義域と終域で別の基底を使った表現行列 $M_{v,w}(T)$ の跡は $T$ の跡と一致するとは限らない(下の「条件を外した反例」の表の 3 行目)。跡は「同じ基底で測る」ことに意味がある量である。
跡は次のようにいくつもの顔をもつ。どれも以下の節で確かめる。
$\sigma$ を $\{1,\dots,n\}$ の置換とし、置換行列 $P_\sigma$ を $P_\sigma e_j=e_{\sigma(j)}$ で定める。$P_\sigma$ の $(i,i)$ 成分は、$\sigma(i)=i$ なら $1$、そうでなければ $0$ である。したがって
$$
\operatorname{tr}P_\sigma=\#\{i\mid\sigma(i)=i\}\cdot1_K
$$
は $\sigma$ の不動点の個数である。たとえば巡回置換 $(1\,2\,3)$ の置換行列の跡は $0$、互換 $(1\,2)$ を $3$ 文字の置換とみたときの跡は $1$ である。
平面の角 $\theta$ の回転 $R_\theta=\begin{pmatrix}\cos\theta&-\sin\theta\\\sin\theta&\cos\theta\end{pmatrix}$ の跡は $2\cos\theta$ である。
空間 $\mathbb{R}^3$ で、単位ベクトル $u$ を軸とする角 $\theta$ の回転 $R$ を考える。$u$ に直交する正規直交基底 $u_1,u_2$ を $(u_1,u_2,u)$ が右手系になるようにとると、この基底に関する $R$ の表現行列は
$$
\begin{pmatrix}\cos\theta&-\sin\theta&0\\\sin\theta&\cos\theta&0\\0&0&1\end{pmatrix}
$$
であり、跡は $1+2\cos\theta$ である。跡は基底によらない(thm-tr-well-defined)ので、$R$ を標準基底でどんな行列に書いても、回転角は $\cos\theta=\frac12(\operatorname{tr}R-1)$ で読み取れる。
$d$ を平方数でない整数とし、$L=\mathbb{Q}(\sqrt d)$ を基底 $1,\sqrt d$ をもつ $\mathbb{Q}$ 上 $2$ 次元のベクトル空間とみる。$\alpha=a+b\sqrt d$($a,b\in\mathbb{Q}$)を掛ける写像 $m_\alpha\colon L\to L$ は、$\alpha\cdot1=a+b\sqrt d$、$\alpha\cdot\sqrt d=db+a\sqrt d$ なので
$$
M(m_\alpha)=\begin{pmatrix}a&db\\b&a\end{pmatrix},\qquad \operatorname{tr}m_\alpha=2a,\qquad \det m_\alpha=a^2-db^2
$$
である。$\theta=\sqrt[3]{2}$、$L=\mathbb{Q}(\theta)$ を基底 $1,\theta,\theta^2$ で表すと、$\alpha=a+b\theta+c\theta^2$ について $\alpha\theta=2c+a\theta+b\theta^2$、$\alpha\theta^2=2b+2c\theta+a\theta^2$ なので
$$
M(m_\alpha)=\begin{pmatrix}a&2c&2b\\b&a&2c\\c&b&a\end{pmatrix},\qquad \operatorname{tr}m_\alpha=3a
$$
である。一般に有限次拡大 $L/K$ と $\alpha\in L$ について、$m_\alpha$ の跡を $\alpha$ の $L/K$ に関する跡といい $\operatorname{Tr}_{L/K}(\alpha)$ と書く。体の拡大の跡はこの意味で線形変換の跡の特別な場合であり、行列式 $\det m_\alpha$ が体のノルムにあたる。
グラフの隣接行列 $A$ について、$A^k$ の $(i,i)$ 成分は頂点 $v_i$ から出て $v_i$ に戻る長さ $k$ の歩道の個数である(隣接行列 の記事の定理「隣接行列の冪と歩道の数」)。したがって $\operatorname{tr}(A^k)$ は長さ $k$ の閉じた歩道(始点を区別して数える)の総数である。ループのない単純グラフでは $\operatorname{tr}A=0$、$\operatorname{tr}(A^2)$ は辺の数の $2$ 倍、$\operatorname{tr}(A^3)$ は三角形の個数の $6$ 倍になる。隣接行列の固有値を $\lambda_1,\dots,\lambda_n$ とすると $\operatorname{tr}(A^k)=\lambda_1^k+\cdots+\lambda_n^k$ なので(トレースと固有値 の記事の定理「固有値の冪の和はトレース」)、これらの数はグラフのスペクトルから決まる。
跡は表現行列を経由して定義したが、基底を使わずに特徴づけることもできる。$V^*$ を $V$ の双対空間(線形代数)とし、$\varphi\in V^*$ と $v\in V$ から作る線形変換
$$
\varphi\otimes v\colon V\to V,\qquad x\mapsto\varphi(x)\,v
$$
を考える。$\varphi\ne0$、$v\ne0$ ならこれは階数 $1$ の線形変換であり、逆に階数 $1$ の線形変換はすべてこの形に書ける(像を張るベクトルを $v$ とすれば、$T(x)$ の $v$ に関する係数が $x$ の線形汎関数になる)。
$V$ を $n$ 次元の $K$ ベクトル空間とする。
$v_1,\dots,v_n$ を $V$ の基底、$v_1^*,\dots,v_n^*$ をその双対基底($v_i^*(v_j)=\delta_{ij}$)とする。線形変換 $T$ の表現行列の $(i,j)$ 成分は $v_i^*(T(v_j))$ である。
1:$T=\varphi\otimes v$ なら $v_i^*(T(v_j))=\varphi(v_j)\,v_i^*(v)$ なので
$$
\operatorname{tr}T=\sum_{i=1}^n\varphi(v_i)\,v_i^*(v)=\varphi\Bigl(\sum_{i=1}^nv_i^*(v)\,v_i\Bigr)=\varphi(v)
$$
である。最後の等号は $v=\sum_iv_i^*(v)\,v_i$(座標による展開)による。
2:$v_j^*\otimes v_i$ は $v_j\mapsto v_i$、他の基底ベクトル $\mapsto0$ という線形変換で、表現行列は行列単位 $E_{ij}$ である。任意の $T$ の表現行列 $(a_{ij})$ は $\sum_{i,j}a_{ij}E_{ij}$ と書けるので、$T=\sum_{i,j}a_{ij}\,v_j^*\otimes v_i$ である。線形汎関数は張る集合の上の値で決まるので、条件を満たすものは高々 1 つであり、1 により跡がそれである。$\square$
$(\varphi,v)\mapsto\varphi\otimes v$ は双線形なので、テンソル積 の普遍性から線形写像 $V^*\otimes V\to\operatorname{End}(V)$ が得られ、有限次元ではこれは同型である(次元はどちらも $n^2$ で、2 により全射)。この同型のもとで、跡は $\varphi\otimes v\mapsto\varphi(v)$ という「評価」の写像そのものである。テンソル解析でいう縮約は、この評価をテンソルの 1 つの上付きの添字と 1 つの下付きの添字について行う操作であり、Ricci テンソルが曲率テンソルの縮約として基底によらず定まるのもこのためである(Ricciテンソル)。
内積空間では、跡は正規直交基底 $e_1,\dots,e_n$ を使って
$$
\operatorname{tr}T=\sum_{i=1}^n\langle T e_i,e_i\rangle
$$
と書ける。$\langle Te_j,e_i\rangle$ が表現行列の $(i,j)$ 成分だからである(Axl24 8.55)。
2 つの行列 $A,B$ の 交換子 $[A,B]:=AB-BA$ の跡は、prop-tr-basic の 3 により $0$ である。逆に、跡が $0$ の行列はすべて交換子の和で書け、跡はこの性質によって定数倍を除いて決まる。
$n\ge1$ とし、$\mathfrak{sl}_n(K):=\{A\in M_n(K)\mid\operatorname{tr}A=0\}$ とおく。
行列単位の積は $E_{ij}E_{kl}=\delta_{jk}E_{il}$ である。これから、$i\ne j$ について
$$
[E_{ii},E_{ij}]=E_{ij}-0=E_{ij},\qquad [E_{ij},E_{ji}]=E_{ii}-E_{jj}
$$
が成り立つ。
1:交換子の跡は $0$ で、跡は線形なので、交換子で張られる部分空間 $C$ は $\mathfrak{sl}_n(K)$ に含まれる。逆向きを示す。$A=(a_{ij})$ の跡が $0$ なら $a_{nn}=-\sum_{i< n}a_{ii}$ なので
$$
A=\sum_{i\ne j}a_{ij}E_{ij}+\sum_{i=1}^{n-1}a_{ii}(E_{ii}-E_{nn})
$$
と書ける。上の計算により右辺の各項は交換子の定数倍なので、$A\in C$ である。よって $C=\mathfrak{sl}_n(K)$ である。次元は、跡 $\operatorname{tr}\colon M_n(K)\to K$ が $\operatorname{tr}E_{11}=1$ より全射なので、次元定理から $n^2-1$ である。
2:$f(AB)=f(BA)$ から、$f$ はすべての交換子で $0$ になり、1 により $\mathfrak{sl}_n(K)$ の上で $0$ である。任意の $A$ について $A-(\operatorname{tr}A)E_{11}$ は跡が $0$ なので、
$$
f(A)=f\bigl(A-(\operatorname{tr}A)E_{11}\bigr)+(\operatorname{tr}A)f(E_{11})=c\operatorname{tr}A
$$
である。$\square$
2 は「行列の積の順序を入れ替えても変わらない線形な量は跡しかない」ことを言う。$K$ の標数が $n$ を割り切らないなら、$c=f(I_n)/n$ とも書ける。$\mathfrak{sl}_n(K)$ は交換子について閉じた部分空間で、特殊線形群 $\mathrm{SL}_n$ に対応する Lie環 である。積の跡がつくる双線形形式 $(A,B)\mapsto\operatorname{tr}(AB)$ は非退化であり、$M_n(K)$ 上の線形汎関数はすべて $X\mapsto\operatorname{tr}(AX)$ の形にただ 1 通りに書ける(双対空間(線形代数) の記事の例「行列の空間と跡」)。
$V$ を有限次元の $K$ ベクトル空間、$T\colon V\to V$ を線形変換、$W$ を $T$ の不変部分空間($T(W)\subset W$)とする。$T|_W\colon W\to W$ を制限、$\overline{T}\colon V/W\to V/W$ を $\overline{T}(x+W)=T(x)+W$ で定まる誘導写像とすると、
$$
\operatorname{tr}T=\operatorname{tr}(T|_W)+\operatorname{tr}\overline{T}
$$
である。
商ベクトル空間 の記事の命題「誘導写像と区分上三角行列」により、$W$ の基底を延長した $V$ の基底に関する $T$ の表現行列は $\begin{pmatrix}A&B\\O&C\end{pmatrix}$ の形で、$A$ は $T|_W$ の、$C$ は $\overline{T}$ の表現行列である。この行列の対角成分は $A$ の対角成分と $C$ の対角成分を並べたものなので、跡は $\operatorname{tr}A+\operatorname{tr}C$ である。thm-tr-well-defined により結論を得る。$\square$
$A\in M_n(K)$ の固有多項式が $K$ の上で $\prod_{i=1}^n(x-\lambda_i)$ と 1 次式の積に分解するなら、$\operatorname{tr}A=\lambda_1+\cdots+\lambda_n$ である。分解しない場合も、分解する拡大体の上で同じ式が成り立つ。とくに冪零行列の跡は $0$ である。
固有多項式が分解するなら、$A$ は対角成分が $\lambda_1,\dots,\lambda_n$ の上三角行列 $T$ と相似である(三角化 の記事の定理「三角化可能性の判定」)。分解しない場合は、分解する拡大体 $L$ をとり $M_n(L)$ の中で同じことを行う(同じ記事の系「対角成分と固有値」の 3)。prop-tr-basic の 3 により $\operatorname{tr}A=\operatorname{tr}T=\sum_i\lambda_i$ である。冪零行列の固有多項式は $x^n$ なので(冪零行列 の記事の定理「冪零行列の特徴づけ」)、跡は $0$ である。$\square$
冪の跡 $\operatorname{tr}(A^k)$ がすべて $0$ であることから冪零性を判定する方法は、冪零行列 の記事の定理「跡による冪零性の判定」にある。
加法性は、ベクトル空間の列に沿って跡の交代和をとると、余分な項が打ち消し合うことを意味する。その代表が次の跡公式である。$K$ ベクトル空間の 鎖複体 とは、有限次元の空間 $C_0,\dots,C_m$ と線形写像 $\partial_i\colon C_i\to C_{i-1}$($\partial_0=0$、$C_{-1}=0$)の列で $\partial_{i-1}\partial_i=0$ を満たすものをいう。$Z_i:=\ker\partial_i$、$B_i:=\operatorname{im}\partial_{i+1}$($B_m=0$)とおくと $B_i\subset Z_i$ であり、$H_i:=Z_i/B_i$ を $i$ 次のホモロジーという。線形写像の族 $f_i\colon C_i\to C_i$ が $\partial_if_i=f_{i-1}\partial_i$ を満たすとき、$f$ を鎖写像という。このとき $f_i(Z_i)\subset Z_i$、$f_i(B_i)\subset B_i$ なので、$f_i$ は $H_i$ の線形変換 $H_i(f)$ を誘導する。
有限次元の $K$ ベクトル空間の鎖複体 $(C_\bullet,\partial)$ と鎖写像 $f$ について
$$
\sum_{i=0}^m(-1)^i\operatorname{tr}(f_i)=\sum_{i=0}^m(-1)^i\operatorname{tr}\bigl(H_i(f)\bigr)
$$
が成り立つ。
$f_i$ の $Z_i$、$B_i$ への制限をそれぞれ $f_i|_{Z_i}$、$f_i|_{B_i}$ と書く。
$\partial_i$ は $C_i/Z_i$ から $B_{i-1}$ への同型 $\bar\partial_i$ を誘導し(商ベクトル空間 の記事の系「線形写像の準同型定理」)、$\partial_if_i=f_{i-1}\partial_i$ から、$C_i/Z_i$ 上の誘導写像 $\overline{f_i}$ について $\bar\partial_i\circ\overline{f_i}=f_{i-1}|_{B_{i-1}}\circ\bar\partial_i$ である。同型で移り合う線形変換は、基底を同型で移せば同じ表現行列をもつので、跡が等しい。よって $\operatorname{tr}\overline{f_i}=\operatorname{tr}(f_{i-1}|_{B_{i-1}})$ である。
thm-tr-additive を $Z_i\subset C_i$ と $B_i\subset Z_i$ に当てはめると
$$
\operatorname{tr}f_i=\operatorname{tr}(f_i|_{Z_i})+\operatorname{tr}(f_{i-1}|_{B_{i-1}}),\qquad \operatorname{tr}(f_i|_{Z_i})=\operatorname{tr}(f_i|_{B_i})+\operatorname{tr}H_i(f)
$$
を得る($B_{-1}=0$ の項は $0$ とする)。2 式から
$$
\operatorname{tr}f_i=\operatorname{tr}H_i(f)+\beta_i+\beta_{i-1},\qquad \beta_i:=\operatorname{tr}(f_i|_{B_i})
$$
である。$(-1)^i$ を掛けて $i=0,\dots,m$ で足すと、$\beta_i$ は $(-1)^i\beta_i$ と $(-1)^{i+1}\beta_i$ の 2 回現れて打ち消し合い、$\beta_{-1}=\beta_m=0$ なので主張を得る。$\square$
$f$ を恒等写像とすると、両辺は $\sum_i(-1)^i\dim C_i$ と $\sum_i(-1)^i\dim H_i$ の $K$ での値になる。同じ論法を跡の代わりに次元で行えば、整数として $\sum_i(-1)^i\dim C_i=\sum_i(-1)^i\dim H_i$ が成り立つ(Euler標数)。有限単体複体(またはそのレトラクト)からそれ自身への連続写像が胞体の鎖複体(係数は $\mathbb{Q}$)に誘導する写像にこの公式を当てはめ、不動点のない写像を単体近似で取り替えて胞体の鎖の上の表現行列の対角成分をすべて $0$ にすることで、Lefschetz の不動点定理が証明される(Hat02 §2.C、p. 181。Lefschetz不動点公式)。
有限次元のベクトル空間 $V$ の線形変換 $P$ が $P^2=P$ を満たすなら、$\operatorname{tr}P=(\operatorname{rank}P)\cdot1_K$ である。
要点:$V=\operatorname{im}P\oplus\ker P$ と分け、$P$ は像の上で恒等写像、核の上で $0$ になる。
$x\in V$ を $x=Px+(x-Px)$ と分けると、$Px\in\operatorname{im}P$、$P(x-Px)=Px-P^2x=0$ なので $V=\operatorname{im}P+\ker P$ である。$y\in\operatorname{im}P\cap\ker P$ なら $y=Pz$ と書けて $y=Pz=P^2z=Py=0$ なので、この和は直和である。また $y=Pz\in\operatorname{im}P$ なら $Py=P^2z=y$ である。$\operatorname{im}P$ の基底と $\ker P$ の基底を並べた $V$ の基底に関する表現行列は $\mathrm{diag}(1,\dots,1,0,\dots,0)$($1$ が $\operatorname{rank}P$ 個)なので、跡は $(\operatorname{rank}P)\cdot1_K$ である。$\square$
標数が $0$ の体(たとえば $\mathbb{R}$、$\mathbb{C}$)では、射影の像の次元は跡そのものとして読める。標数 $p$ の体では、跡からは次元を $p$ で割った余りしか分からない(下の表の 5 行目)。
次の定理は、跡が行列式の「1 次の部分」であることを述べる。$K=\mathbb{R}$ または $\mathbb{C}$ のとき、これは行列式の微分の公式になる。
1:$I+M$ の $(i,j)$ 成分は $\delta_{ij}+m_{ij}$ なので、行列式 の Leibniz の公式から
$$
\det(I+M)=\sum_{\sigma}\operatorname{sgn}\sigma\prod_{i=1}^n\bigl(\delta_{i\sigma(i)}+m_{i\sigma(i)}\bigr)
$$
である。$\sigma\ne\mathrm{id}$ なら $\sigma(i)\ne i$ となる $i$ が少なくとも 2 個あり、その因子は $m_{i\sigma(i)}$ だけなので、積を展開した各項は $M$ の成分を 2 個以上含む。$\sigma=\mathrm{id}$ の項 $\prod_i(1+m_{ii})$ を展開すると $1+\sum_im_{ii}$ と、成分を 2 個以上含む項の和になる。これで前半を得る。$M=tA$ とすれば、成分を 2 個以上含む項は $t^2$ で割り切れる。
2:$h\ne0$ を $t+h\in J$ となるようにとり、$B(h):=X(t)^{-1}\dfrac{X(t+h)-X(t)}{h}$ とおく。$X(t+h)=X(t)\bigl(I+hB(h)\bigr)$ なので、積の行列式の公式と 1 から
$$
\frac{\det X(t+h)-\det X(t)}{h}=\det X(t)\cdot\frac{\det\bigl(I+hB(h)\bigr)-1}{h}=\det X(t)\Bigl(\operatorname{tr}B(h)+\frac{R\bigl(hB(h)\bigr)}{h}\Bigr)
$$
である。$h\to0$ で $B(h)\to X(t)^{-1}X'(t)$ なので、$0$ に近い $h$ では $B(h)$ の成分の絶対値は定数 $c$ で抑えられる。$R(hB(h))$ の各項は $hB(h)$ の成分を 2 個以上含むので絶対値が $(c\lvert h\rvert)^2$ 以下($c\lvert h\rvert\le1$ のとき)であり、項の個数は $h$ によらないから、$R(hB(h))/h\to0$ である。よって極限は $\det X(t)\operatorname{tr}\bigl(X(t)^{-1}X'(t)\bigr)$ である。$\square$
$K=\mathbb{R}$ または $\mathbb{C}$、$A\in M_n(K)$ について $\det e^{A}=e^{\operatorname{tr}A}$ である。とくに $\operatorname{tr}A=0$ なら $e^{tA}\in\mathrm{SL}_n(K)$(すべての $t\in\mathbb{R}$)である。
要点:$\phi(t)=\det e^{tA}$ は Jacobi の公式から $\phi'=\phi\operatorname{tr}A$、$\phi(0)=1$ を満たす。
$\phi(t):=\det e^{tA}$ とおく。$X(t)=e^{tA}$ は正則で $X'(t)=Ae^{tA}=e^{tA}A$ である(行列の指数関数 の記事の定理「指数関数の微分と $x'=Ax$ の解」の (R1))から、$X(t)^{-1}X'(t)=A$ である。thm-tr-jacobi の 2 により $\phi'(t)=\phi(t)\operatorname{tr}A$ である。$\psi(t):=\phi(t)e^{-t\operatorname{tr}A}$ は $\psi'(t)=\bigl(\phi'(t)-\phi(t)\operatorname{tr}A\bigr)e^{-t\operatorname{tr}A}=0$ を満たすので定数で、$\psi(0)=\det I=1$ である。$t=1$ として $\det e^A=e^{\operatorname{tr}A}$ を得る。$\square$
同じ等式は、三角化を使って固有値の言葉でも示せる(行列の指数関数 の記事の定理「指数関数の固有値と行列式」)。上の証明は、行列式が乗法的で跡がその 1 次の部分であることだけを使う。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| 空間が有限次元 | 多項式全体 $K[x]$(標数 $0$)の微分 $D$ と $x$ を掛ける写像 $X$ | 交換子は恒等写像にならない($DX-XD=\mathrm{id}$) |
| 並べ替えが巡回的 | $A=E_{11}$、$B=E_{12}$、$C=E_{21}$ | $\operatorname{tr}(ABC)=\operatorname{tr}(ACB)$ |
| 定義域と終域で同じ基底を使う | $\mathbb{Q}^2$ の恒等写像と、基底 $(e_1,e_2)$、$(e_2,e_1)$ | 表現行列の跡が写像の跡に等しい |
| 成分が可換 | 四元数を成分とする $1\times1$ 行列 $(i)$、$(j)$ | $\operatorname{tr}(AB)=\operatorname{tr}(BA)$ |
| 標数が $0$ | $\mathbb{F}_p$ 上の単位行列 $I_p$ | 冪等変換の跡から階数が読める |
各行の反例が実際に条件を破ることを確かめる。
1 行目:$f\in K[x]$ について $(DX-XD)f=(xf)'-xf'=f$ なので $DX-XD=\mathrm{id}$ である。有限次元なら交換子の跡は $0$、恒等写像の跡は $\dim V\cdot1_K$ なので、標数 $0$ で $V\ne0$ ならこれは起こらない(正方行列 の記事の定理「跡の循環性と交換子」の 2)。$K[x]$ には、$\operatorname{End}(K[x])$ 全体の上で $f(ST)=f(TS)$ を満たし $f(\mathrm{id})\ne0$ となる線形汎関数 $f$ は存在しない。存在すれば $f(\mathrm{id})=f(DX)-f(XD)=0$ となるからである。
2 行目:$E_{ij}E_{kl}=\delta_{jk}E_{il}$ より $ABC=E_{11}E_{12}E_{21}=E_{12}E_{21}=E_{11}$ で跡は $1$、$ACB=E_{11}E_{21}E_{12}=0$ で跡は $0$ である。3 つの積の跡は巡回的な並べ替え $\operatorname{tr}(ABC)=\operatorname{tr}(BCA)=\operatorname{tr}(CAB)$ では変わらない(prop-tr-basic の 3 を $A$ と $BC$ に当てはめる)が、任意の並べ替えでは変わる。
3 行目:恒等写像 $\mathrm{id}$ の、定義域の基底 $(e_1,e_2)$、終域の基底 $(e_2,e_1)$ に関する表現行列は、$\mathrm{id}(e_1)=e_1$ が終域の第 2 の基底ベクトル、$\mathrm{id}(e_2)=e_2$ が第 1 の基底ベクトルなので、対角成分がともに $0$ の行列であり、跡は $0$ である。$\operatorname{tr}\mathrm{id}=2$ とは異なる。
4 行目:四元数では $ij=k$、$ji=-k$ なので、$1\times1$ 行列としての跡は $\operatorname{tr}(AB)=k$、$\operatorname{tr}(BA)=-k$ で、$k\ne-k$ である。prop-tr-basic の 3 の証明は成分の積の可換性を使っている。
5 行目:$I_p$ は冪等で階数 $p$ だが、$\mathbb{F}_p$ の中で $\operatorname{tr}I_p=p\cdot1=0$ であり、階数 $0$ の零行列と同じ跡をもつ。prop-tr-idempotent の等式 $\operatorname{tr}P=(\operatorname{rank}P)\cdot1_K$ 自体は成り立っているが、跡から階数を復元できない。
行列の跡の定義は Axl24 8.47(§8D、p. 326)、$\operatorname{tr}(AB)=\operatorname{tr}(BA)$ は同 8.49(p. 326)、線形変換の跡が基底によらないことと線形変換の跡の定義は 8.50・8.51(p. 327)、複素ベクトル空間で跡が固有値の和であることは 8.52(p. 328)、内積空間での表示と跡の線形性・循環性は 8.55・8.56(p. 329)、恒等写像が交換子にならないことは 8.57(p. 330)にある。鎖複体の跡が短完全列について加法的であることと、胞体の鎖複体での跡公式は Hat02 §2.C(p. 181)にある。
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