志村多様体(Shimura variety)とは、有理数体上の簡約群 $G$ と、Deligne トーラスから $G_{\mathbb{R}}$ への準同型の共役類 $X$ で Deligne の公理を満たすもの(志村データ)から、コンパクト開部分群 $K$ について $G(\mathbb{Q})\backslash(X\times G(\mathbb{A}_f)/K)$ として作られる空間である。これは Hermite 対称領域を算術部分群で割った空間の有限個の和で、$K$ が小さければ代数多様体になり、反射体の上の標準モデルをもつ。楕円モジュラー曲線と、主偏極アーベル多様体を分類する Siegel モジュラー多様体 $\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})\backslash\mathfrak{H}_g$ が基本の例である。
上半平面 $\mathbb{H}$ をモジュラー群で割った $\mathrm{SL}_2(\mathbb{Z})\backslash\mathbb{H}$ は、複素数体上の楕円曲線の同型類を並べた空間である。次元を上げると、Siegel 上半空間 $\mathfrak{H}_g$ を $\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})$ で割った空間が、主偏極をもつ $g$ 次元アーベル多様体の同型類を並べる。志村多様体(Shimura variety)は、これらを簡約群と Hodge 構造の言葉で一般化したもので、有理数体上の簡約群 $G$ と、Hermite 対称領域の構造をもつ空間 $X$ の組(志村データ)から、アデールを使った両側剰余類の空間として作られる。名は志村五郎(Goro Shimura)にちなむ。志村多様体は(レベルを十分小さくとれば)代数多様体であり、数体の上の標準的なモデルをもつので、保型形式・Galois 表現・Langlands プログラムをつなぐ舞台になる。
この記事では、志村データと志村多様体を定義し、楕円モジュラー曲線と Siegel モジュラー多様体を例に挙げ、基本的な事実を所在付きで述べる。そのうえで、Siegel の場合の核心である次の 2 つを証明する。実シンプレクティック群が Siegel 上半空間に推移的に作用し、固定部分群がユニタリ群になること。主偏極複素トーラスの同型類が $\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})\backslash\mathfrak{H}_g$ の点と一対一に対応すること。
$\mathbb{S}:=\operatorname{Res}_{\mathbb{C}/\mathbb{R}}\mathbb{G}_m$ を Deligne トーラスとする($\mathbb{S}(\mathbb{R})=\mathbb{C}^\times$)。実ベクトル空間 $V$ 上の実 Hodge 構造は準同型 $h\colon\mathbb{S}\to\mathrm{GL}(V)$ と同じものである(Hodge構造、Mumford–Tate群)。$\mathbb{A}_f$ を有限アデール環(アデール環)とする。
志村データ(Shimura datum)とは、$\mathbb{Q}$ 上の簡約群(代数群)$G$ と、準同型 $h\colon\mathbb{S}\to G_{\mathbb{R}}$ の $G(\mathbb{R})$ 共役類 $X$ の組 $(G,X)$ で、すべての $h\in X$ について次を満たすものをいう。
これは Mil17 Definition 5.5(pp. 54–55)の形である。$X$ には、$G$ のどの表現 $\rho$ についても Hodge 構造の族 $(\rho\circ h)_{h\in X}$ が正則になる複素多様体の構造がただ一つあり、$X$ は有限個の Hermite 対称領域の非交和になる(Mil17 Corollary 5.8・Proposition 5.9、pp. 55–56。この記事では証明しない)。
$(G,X)$ を志村データ、$K\subset G(\mathbb{A}_f)$ をコンパクト開部分群とする。
$$
\operatorname{Sh}_K(G,X):=G(\mathbb{Q})\backslash\bigl(X\times G(\mathbb{A}_f)/K\bigr)
$$
($q(x,a)k=(qx,qak)$ で割る)を 志村多様体という。$K$ を動かした逆系 $(\operatorname{Sh}_K(G,X))_K$ に $G(\mathbb{A}_f)$ が $[x,a]\mapsto[x,ag]$ で作用したものを $\operatorname{Sh}(G,X)$ と書く。
次の事実はこの記事では証明しない(所在はすべて Mil17)。
$G=\mathrm{GL}_2$ とし、$X$ を $h_0(a+bi)=\begin{pmatrix}a&b\\-b&a\end{pmatrix}$ の $\mathrm{GL}_2(\mathbb{R})$ 共役類とする。$(G,X)$ は志村データで、$gh_0g^{-1}\mapsto gi$ により $X$ は $\mathbb{C}\setminus\mathbb{R}$(上半平面と下半平面の和)と同一視される(Mil17 Example 5.6、p. 55)。$N\ge1$ について $K(N):=\{k\in\mathrm{GL}_2(\hat{\mathbb{Z}})\mid k\equiv1\bmod N\}$ とすると、$\operatorname{Sh}_{K(N)}(G,X)$ の連結成分の集合は $(\mathbb{Z}/N\mathbb{Z})^\times$ と同一視され(同 p. 63)、単位元に当たる成分は $\Gamma(N)\backslash\mathbb{H}$ である(同 p. 61 の議論)。ここで $\Gamma(N)=K(N)\cap\mathrm{GL}_2(\mathbb{Q})_+$ は、行列式が $\mathbb{Z}^\times\cap\mathbb{Q}_{>0}=\{1\}$ に入るので、$\mathrm{SL}_2(\mathbb{Z})$ の主合同部分群 $\{\gamma\in\mathrm{SL}_2(\mathbb{Z})\mid\gamma\equiv1\bmod N\}$ である(上半平面、モジュラー群)。
$(V,\psi)$ を $\mathbb{Q}$ 上の $2g$ 次元シンプレクティック空間、$G=\mathrm{GSp}(\psi)$ を $\psi$ を定数倍を除いて保つ線形変換の群とする。$X$ を、$V_{\mathbb{R}}$ 上の複素構造 $J$ で $\psi(Ju,Jv)=\psi(u,v)$ を満たし $\psi(u,Jv)$ が正定値または負定値のものの全体とすると、$(G,X)$ は志村データである(Mil17 pp. 68–69)。シンプレクティック基底を選ぶと $X$ の連結成分は Siegel 上半空間 $\mathfrak{H}_g$ と同一視される(同 Exercise 6.2 (b)、p. 69。この記事では証明しない)。$\operatorname{Sh}_K(G,X)(\mathbb{C})$ は、レベル構造付きの偏極アーベル多様体の同型類と一対一に対応し(同 Theorem 6.11、p. 74)、$\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})\backslash\mathfrak{H}_g$ は主偏極アーベル多様体の粗モジュライ多様体である(同 p. 75)。後半の主定理は、この対応の点の水準での核心である。
志村データ $(G,X)$ が、ある $(\mathrm{GSp}(\psi),X(\psi))$ への埋め込みをもつとき Hodge 型という(Mil17 Definition 7.1、p. 76)。このとき $G$ は $\mathrm{GSp}(\psi)$ の中で有限個のテンソルを固定する部分群であり(同 Lemma 7.2、p. 76)、$\operatorname{Sh}_K(G,X)(\mathbb{C})$ はそれらのテンソルを Hodge 類としてもつアーベル多様体(とレベル構造)を分類する(同 Theorem 7.4、p. 77)。Mumford–Tate群 の記事が述べる「Hodge テンソルを固定した Hodge 構造の族」がこの $X$ に当たる。
$\Omega :=\begin{pmatrix}0&I_g\\-I_g&0\end{pmatrix}$ とし、$\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{R}):=\{\gamma\in\mathrm{GL}_{2g}(\mathbb{R})\mid\gamma^{\mathsf T}\Omega \gamma=\Omega \}$、$\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z}):=\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{R})\cap\mathrm{GL}_{2g}(\mathbb{Z})$ とおく。$\gamma^{\mathsf T}\Omega \gamma=\Omega $ の逆行列をとると $\gamma \Omega \gamma^{\mathsf T}=\Omega $ が出るので、$\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{R})$ と $\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})$ は転置で閉じている。$\gamma=\begin{pmatrix}A&B\\C&D\end{pmatrix}$(各ブロックは $g\times g$)と書く。Siegel 上半空間を
$$
\mathfrak{H}_g:=\{\tau\in M_g(\mathbb{C})\mid\tau^{\mathsf T}=\tau,\ \operatorname{Im}\tau\text{ は正定値}\}
$$
とする。$\mathfrak{H}_g$ は対称行列の空間 $\mathbb{C}^{g(g+1)/2}$ の凸な開集合である。$g=1$ では上半平面 $\mathbb{H}$ である。
$\gamma\in\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{R})$ と $\tau\in\mathfrak{H}_g$ について、$C\tau+D$ は正則で、
$$
\gamma\tau:=(A\tau+B)(C\tau+D)^{-1}\in\mathfrak{H}_g,\qquad\operatorname{Im}(\gamma\tau)=\bigl((C\tau+D)^{-1}\bigr)^{*}\,\operatorname{Im}\tau\,(C\tau+D)^{-1}
$$
である($M^*:=\bar M^{\mathsf T}$)。これは $\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{R})$ の $\mathfrak{H}_g$ への推移的な左作用で、$iI_g$ の固定部分群は
$$
\Bigl\{\begin{pmatrix}A&B\\-B&A\end{pmatrix}\Bigm|A+iB\in U(g)\Bigr\}\cong U(g)
$$
である。したがって $\mathfrak{H}_g\cong\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{R})/U(g)$ である。
$Y:=\operatorname{Im}\tau$、$\begin{pmatrix}P\\Q\end{pmatrix}:=\gamma\begin{pmatrix}\tau\\I\end{pmatrix}$($P=A\tau+B$、$Q=C\tau+D$)とおく。$2g\times g$ 行列 $M,N$ について $M^{\mathsf T}\Omega N=M_1^{\mathsf T}N_2-M_2^{\mathsf T}N_1$(添字は上下のブロック)であり、$\tau$ が対称なので
$$
\begin{pmatrix}\tau\\I\end{pmatrix}^{\mathsf T}\Omega \begin{pmatrix}\tau\\I\end{pmatrix}=\tau^{\mathsf T}-\tau=0,\qquad\overline{\begin{pmatrix}\tau\\I\end{pmatrix}}^{\mathsf T}\Omega \begin{pmatrix}\tau\\I\end{pmatrix}=\bar\tau-\tau=-2iY.
$$
$\gamma$ は実で $\gamma^{\mathsf T}\Omega \gamma=\Omega $ なので、$P,Q$ についても
$$
P^{\mathsf T}Q-Q^{\mathsf T}P=0,\qquad\bar P^{\mathsf T}Q-\bar Q^{\mathsf T}P=-2iY\qquad(\ast)
$$
が成り立つ。
正則性. $Qv=0$($v\in\mathbb{C}^g$)なら、$(\ast)$ の第 2 式を $v^*$ と $v$ で挟んで $(Pv)^*Qv-(Qv)^*Pv=-2iv^*Yv$、左辺は $0$ なので $v^*Yv=0$、$Y$ が正定値なので $v=0$ である。
$\gamma\tau\in\mathfrak{H}_g$. $\tau':=PQ^{-1}$ とおく。$(\ast)$ の第 1 式に左から $(Q^{\mathsf T})^{-1}$、右から $Q^{-1}$ を掛けて $\tau'^{\mathsf T}=\tau'$ を得る。第 2 式に左から $(\bar Q^{\mathsf T})^{-1}$、右から $Q^{-1}$ を掛けると $\bar\tau'^{\mathsf T}-\tau'=-2i(Q^{-1})^*YQ^{-1}$、左辺は $\bar\tau'-\tau'=-2i\operatorname{Im}\tau'$ なので、虚部の式を得る。右辺は正定値 Hermite 行列で、$\operatorname{Im}\tau'$ は実なので実対称正定値である。
作用であること. $\begin{pmatrix}\gamma\tau\\I\end{pmatrix}=\gamma\begin{pmatrix}\tau\\I\end{pmatrix}Q^{-1}$ なので、$\gamma'\begin{pmatrix}\gamma\tau\\I\end{pmatrix}=(\gamma'\gamma)\begin{pmatrix}\tau\\I\end{pmatrix}Q^{-1}$ であり、上下のブロックの比 $(\text{上})(\text{下})^{-1}$ をとると $\gamma'(\gamma\tau)=(\gamma'\gamma)\tau$ である。単位行列は自明に作用する。
推移性. $\tau=R+iY$($R,Y$ は実対称、$Y$ は正定値)とし、$Y^{1/2}$ を $Y$ の正定値平方根とする。$\gamma_1:=\begin{pmatrix}I&R\\0&I\end{pmatrix}$、$\gamma_2:=\begin{pmatrix}Y^{1/2}&0\\0&Y^{-1/2}\end{pmatrix}$ はブロックの条件 $A^{\mathsf T}C,\ B^{\mathsf T}D$ が対称で $A^{\mathsf T}D-C^{\mathsf T}B=I$($\gamma^{\mathsf T}\Omega \gamma=\Omega $ をブロックで書いたもの)を満たすので $\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{R})$ に入り、$\gamma_1\gamma_2(iI)=\gamma_1(iY)=iY+R=\tau$ である。
固定部分群. $A,B,C,D$ は実なので、$(Ai+B)(Ci+D)^{-1}=iI$、すなわち $Ai+B=-C+iD$ は $A=D$、$B=-C$ と同値である。このとき上のブロックの条件は $A^{\mathsf T}B$ が対称かつ $A^{\mathsf T}A+B^{\mathsf T}B=I$ となり、これは $U:=A+iB$ について $U^*U=(A^{\mathsf T}A+B^{\mathsf T}B)+i(A^{\mathsf T}B-B^{\mathsf T}A)=I$ と同値である。$\begin{pmatrix}A&B\\-B&A\end{pmatrix}\mapsto A+iB$ は積を保つ単射で、像は $U(g)$ である。$\square$
$\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})$ は $\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{R})$ の離散部分群なので $\mathfrak{H}_g$ に真性不連続に作用し、商 $\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})\backslash\mathfrak{H}_g$ は複素解析空間になる(Deb99 定理 VII.1.2・命題 VII.1.3、pp. 91–92。この記事では証明しない)。
次に、主偏極複素トーラスの分類を述べる。Hermite 形式 $H$ は第 1 変数について線形とし、$E:=\operatorname{Im}H$ とおく(Appell–Humbertの定理 の記事の規約)。主偏極複素トーラス $(X,H)$(この節の $X$ は複素トーラスで、志村データの $X$ とは別のもの)とは、複素トーラス $X=V/\Lambda$ と正定値 Hermite 形式 $H$ の組で、$E$ が $\Lambda$ 上で整数値をとり、$\Lambda$ の基底に関する $E$ の行列の行列式が $1$ のものをいう(テータ因子 の記事の定義「主偏極とテータ因子」)。$(X,H)$ と $(X',H')$ の同型とは、$\mathbb{C}$ 線形同型 $f\colon V\to V'$ で $f(\Lambda)=\Lambda'$、$H'(fv,fw)=H(v,w)$ となるものをいう。$\tau\in\mathfrak{H}_g$ に対し $\Lambda_\tau:=\tau\mathbb{Z}^g+\mathbb{Z}^g$、$X_\tau:=\mathbb{C}^g/\Lambda_\tau$、$H_\tau(v,w):=v^{\mathsf T}(\operatorname{Im}\tau)^{-1}\bar w$ とおくと、$(X_\tau,H_\tau)$ は主偏極複素トーラスで、$E_\tau$ の基底 $\tau e_1,\dots,\tau e_g,e_1,\dots,e_g$ に関する行列は $\Omega $ である(テータ因子 の記事の Siegel の標準形)。
$\Lambda$ を階数 $2g$ の自由加群、$E$ を $\Lambda$ 上の整数値交代形式で、ある基底に関する行列の行列式が $1$ のものとする。このとき $\Lambda$ の基底 $\lambda_1,\dots,\lambda_g,\mu_1,\dots,\mu_g$ で、$E(\lambda_j,\mu_k)=\delta_{jk}$、$E(\lambda_j,\lambda_k)=E(\mu_j,\mu_k)=0$ を満たすもの(シンプレクティック基底)がある。
要点:行列式が $1$ なので $x\mapsto E(x,\cdot)$ は $\Lambda$ から双対加群への同型で、原始的な元 $\lambda_1$ に $E(\lambda_1,\mu_1)=1$ となる $\mu_1$ がとれ、直交補空間で帰納法を回す。
$x\mapsto E(x,\cdot)$ は行列式 $1$ の行列で表されるので同型 $\Lambda\to\operatorname{Hom}(\Lambda,\mathbb{Z})$ である。$\lambda_1$ を基底の 1 つの元とすると、$E(\lambda_1,\cdot)$ は同型による原始的な元(基底の元)の像なので、像は $d\mathbb{Z}$ の形で $d=1$ でなければならない($d>1$ なら $E(\lambda_1,\cdot)/d$ も双対加群の元で、その逆像 $y$ は $dy=\lambda_1$ を満たし、$\lambda_1$ が基底の元であることに反する。像は $0$ でないので $d\ge1$ である)。よって $E(\lambda_1,\mu_1)=1$ となる $\mu_1$ がある。$\Lambda':=\{x\in\Lambda\mid E(x,\lambda_1)=E(x,\mu_1)=0\}$ とおくと、$x\mapsto x-E(x,\mu_1)\lambda_1-E(\lambda_1,x)\mu_1$ は $\Lambda'$ への射影で、$\Lambda=\mathbb{Z}\lambda_1\oplus\mathbb{Z}\mu_1\oplus\Lambda'$ となる。$E$ の行列はこの分解でブロック対角で、$\mathbb{Z}\lambda_1\oplus\mathbb{Z}\mu_1$ の部分の行列式が $1$ なので、$\Lambda'$ の部分の行列式も $1$ である。$\Lambda'$ に帰納法の仮定を当てて基底を並べ替えればよい。$\square$
$g$ 次元の主偏極複素トーラス $(X,H)$ に、$\Lambda$ のシンプレクティック基底 $(\lambda,\mu)$ を選び、$\mu_1,\dots,\mu_g$ を $V$ の基底として $\lambda_j=\tau e_j$ で定まる行列 $\tau$ を対応させる。このとき $\tau\in\mathfrak{H}_g$ であり、$(X,H)\cong(X_\tau,H_\tau)$ である。$\tau$ の $\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})$ 軌道は基底の選び方によらず、
$$
\{g\text{ 次元の主偏極複素トーラス}\}/\cong\ \xrightarrow{\ \sim\ }\ \mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})\backslash\mathfrak{H}_g
$$
は全単射である。
段 1($\mu$ は $\mathbb{C}$ 上の基底). $W$ を $\mu_1,\dots,\mu_g$ の $\mathbb{R}$ 上の張る空間とすると、$E$ は $W$ 上で $0$ である。$w\in W\cap iW$ を $w=iw'$($w'\in W$)と書くと、$H(w',w')=E(iw',w')=E(w,w')=0$ なので、$H$ の正定値性から $w'=0$ である。$\dim_{\mathbb{R}}W=g$ なので $V=W\oplus iW$ であり、$\mu_1,\dots,\mu_g$ は $V$ の $\mathbb{C}$ 上の基底である。
段 2($\tau\in\mathfrak{H}_g$ と $H=H_\tau$). 基底 $\mu$ で $V=\mathbb{C}^g$($\mu_j=e_j$)とし、$\tau=R+iY$($R,Y$ は実行列)とおく。$S_{jk}:=E(ie_j,e_k)$ とおくと、$H(e_j,e_k)=E(ie_j,e_k)+iE(e_j,e_k)=S_{jk}$ なので、$S$ は実対称正定値で、$H$ は $H(v,w)=v^{\mathsf T}S\bar w$ と書ける。$\lambda_j=\sum_a(R_{aj}e_a+Y_{aj}\,ie_a)$ と $E(e_a,e_k)=0$ から
$$
\delta_{jk}=E(\lambda_j,e_k)=\sum_aY_{aj}S_{ak}=(Y^{\mathsf T}S)_{jk}
$$
であり、$Y=S^{-1}$ は実対称正定値である。さらに $E(ie_a,ie_b)=E(e_a,e_b)=0$、$E(e_a,ie_b)=-S_{ab}$ を使うと
$$
0=E(\lambda_j,\lambda_k)=(Y^{\mathsf T}SR)_{jk}-(R^{\mathsf T}SY)_{jk}=R_{jk}-R_{kj}
$$
となり、$R$ も対称である。よって $\tau\in\mathfrak{H}_g$、$\Lambda=\tau\mathbb{Z}^g+\mathbb{Z}^g=\Lambda_\tau$、$H=H_\tau$ である。
段 3(基底の取り替え). 別のシンプレクティック基底は $(\lambda'\ \mu')=(\lambda\ \mu)M$、$M=\begin{pmatrix}A'&B'\\C'&D'\end{pmatrix}\in\mathrm{GL}_{2g}(\mathbb{Z})$ と書け、$E$ の行列が両方の基底で $\Omega $ なので $M^{\mathsf T}\Omega M=\Omega $、すなわち $M\in\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})$ である。座標では $(\lambda'\ \mu')=(\tau A'+C'\ \ \tau B'+D')$ で、段 1 により $Q':=\tau B'+D'$ は正則であり、新しい行列は $\tau'=Q'^{-1}(\tau A'+C')$ である。段 2 により $\tau'$ は対称なので、転置して
$$
\tau'=(A'^{\mathsf T}\tau+C'^{\mathsf T})(B'^{\mathsf T}\tau+D'^{\mathsf T})^{-1}=M^{\mathsf T}\tau
$$
であり、$M^{\mathsf T}\in\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})$ である。同型 $f\colon(X,H)\to(X',H')$ はシンプレクティック基底をシンプレクティック基底に写し、$f$ で写した基底からは同じ $\tau$ が得られる。よって軌道は基底と同型類の代表によらない。
段 4(全単射). 全射:$(X_\tau,H_\tau)$ のシンプレクティック基底 $\tau e_j, e_j$ からは $\tau$ 自身が得られる。単射:$\tau'=\gamma\tau$($\gamma\in\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})$)とし、$M:=\gamma^{\mathsf T}$ で $\Lambda_\tau$ のシンプレクティック基底 $(\lambda'\ \mu'):=(\tau\ I)M$ を作る。段 3 の計算から、$\mathbb{C}$ 線形写像 $f(v):=Q'^{-1}v$ は $\mu'_j$ を $e_j$ に、$\lambda'_j$ を $\tau'e_j$ に写す。よって $f(\Lambda_\tau)=\Lambda_{\tau'}$ で、$f$ はシンプレクティック基底どうしを写すので $E_{\tau'}(fv,fw)=E_\tau(v,w)$ である。$H$ は $H(v,w)=E(iv,w)+iE(v,w)$ で $E$ から決まり、$f$ は $\mathbb{C}$ 線形なので $H_{\tau'}(fv,fw)=H_\tau(v,w)$ である。したがって $(X_\tau,H_\tau)\cong(X_{\tau'},H_{\tau'})$ である。$\square$
主偏極複素トーラスは射影的で、アーベル多様体の複素点であり、逆にアーベル多様体の主偏極はこの形の $H$ で与えられる(Mil17 Theorem 6.7・6.8、pp. 72–73、Deb99 VI.6、pp. 76–77。この記事では証明しない)。したがって thm-shimura-ppav-classification は、$\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})\backslash\mathfrak{H}_g$ の点が複素数体上の $g$ 次元主偏極アーベル多様体の同型類と一対一に対応することを示している。偏極の型が $(d_1,\dots,d_g)$ の場合は、$\mathrm{Sp}_{2g}(\mathbb{Z})$ を別の算術部分群に替えて同様の全単射が成り立つ(Deb99 VII.1、pp. 89–91)。$g=1$ では $\mathrm{Sp}_2=\mathrm{SL}_2$ で、$\mathrm{SL}_2(\mathbb{Z})\backslash\mathbb{H}$ が楕円曲線の同型類を並べる古典的な事実に戻る。
thm-shimura-siegel-action と thm-shimura-ppav-classification の仮定を 1 つずつ外す。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| $\gamma$ がシンプレクティック | $g=1$、$\gamma=\begin{pmatrix}1&0\\0&-1\end{pmatrix}\in\mathrm{GL}_2(\mathbb{R})$ | $\gamma\tau=-\tau$ は下半平面に入り、$\mathfrak{H}_1$ を保たない |
| $H$ が正定値 | $g=1$、$X=\mathbb{C}/\Lambda_\tau$ と $-H_\tau$($E$ の行列式は $1$) | シンプレクティック基底 $\lambda=1$、$\mu=\tau$ の周期 $\lambda/\mu=1/\tau$ は $\operatorname{Im}(1/\tau)<0$ で、$\mathfrak{H}_1$ の点にならない |
| $E$ の行列式が $1$ | $g=1$、$X=\mathbb{C}/\Lambda_\tau$ と $2H_\tau$(行列式 $4$) | シンプレクティック基底の存在($E$ の値はすべて偶数で、$E(\lambda,\mu)=1$ となる $\lambda,\mu$ がない) |
2 行目で $-H_\tau$ を使うと、$E=-E_\tau$ について $E(1,\tau)=E_\tau(\tau,1)=1$ なので $(1,\tau)$ がシンプレクティック基底になり、段 1 の「$\mu$ が張る空間と $i$ 倍の交わりが $0$」は成り立つが、段 2 の虚部の正定値性が崩れる。
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