有界逆写像定理(bounded inverse theorem)とは、二つの Banach 空間の間の有界な全単射線形写像は逆写像も有界であると述べる定理である。線形方程式の解がデータに連続に依存することを保証する。逆のノルム評価、関数の乗算と Volterra 型積分方程式、値域が完備でない場合の反例を通じて適用条件を説明する。
線形方程式 $Tx=y$ がどの $y$ に対してもただ一つ解けるなら、代数的な逆写像 $T^{-1}$ が存在する。しかし、$y$ を少し変えたとき解が少しだけ変わるとは、代数的な条件だけからは言えない。有界逆写像定理は、二つの Banach 空間の間で $T$ 自身が有界なら、この安定性も自動的に従うことを述べる。開写像定理 の系であり、逆写像を具体的に計算できない場合にも使える。
有限次元の可逆行列 $A$ については、逆行列 $A^{-1}$ も線形で連続である。無限次元では線形写像が連続とは限らないため、空間の完備性が要点になる。
以下、$X,Y$ は実数体または複素数体上のノルム空間とする。線形写像 $T\colon X\to Y$ が有界であるとは、ある $M\ge0$ があって $\|Tx\|_Y\le M\|x\|_X$ がすべての $x\in X$ について成り立つことをいう。これは連続であることと同値である(ノルム空間)。
$X,Y$ を Banach 空間、$T\colon X\to Y$ を有界な全単射線形写像とする。このとき $T^{-1}\colon Y\to X$ も有界線形写像である。特に、ある $C>0$ があって
$$
\|T^{-1}y\|_X\le C\|y\|_Y\qquad(y\in Y)
$$
となる。
$T^{-1}$ は $T$ の線形性と全単射性から線形である。開写像定理 により $T$ は開写像である。したがって $T^{-1}$ による任意の開集合 $G\subset X$ の逆像は $T(G)$ で、これは $Y$ で開いている。よって $T^{-1}$ は連続であり、線形写像の連続性と有界性の同値性から有界である。$\square$
逆写像の有界性は、$y=Tx$ と置けば次の下からの評価に言い換えられる。
$$
\|Tx\|_Y\ge c\|x\|_X\qquad(x\in X)
$$
ここで $c>0$ である。$X\ne\{0\}$ なら $c=\|T^{-1}\|^{-1}$ と取れる。反対に、全単射な線形写像についてこの下界があれば、$\|T^{-1}y\|_X\le c^{-1}\|y\|_Y$ が直ちに従う。定理の働きは、この下界を連続な全単射という条件から保証するところにある。
$X\ne\{0\}$ のとき、最良の定数は
$$
\inf_{\|x\|_X=1}\|Tx\|_Y=\frac1{\|T^{-1}\|}
$$
である。単位球面の像が原点にどれだけ近づけるかを測っている、と読める。有限次元で行列の最小特異値が担う役割に相当するが、ここでは特異値分解を仮定しない。この下限が $0$ なら、長さ $1$ の元 $x_n$ で $\|Tx_n\|_Y\to0$ となる列が選べる。するとデータは零に近づくのに対応する解は長さ $1$ のままなので、像の上の逆は有界ではない。下限が正かどうかを確かめることは、具体的な作用素で定理の適用範囲を見分ける一つの方法である。
定理の条件のもとで $Tx_i=y_i$($i=1,2$)なら
$$
\|x_1-x_2\|_X\le\|T^{-1}\|\,\|y_1-y_2\|_Y.
$$
さらに $y_1\ne0$ について、相対誤差には
$$
\frac{\|x_1-x_2\|_X}{\|x_1\|_X}
\le \|T\|\,\|T^{-1}\|\,
\frac{\|y_1-y_2\|_Y}{\|y_1\|_Y}
$$
という上界がある。
$x_1-x_2=T^{-1}(y_1-y_2)$ から最初の不等式が従う。また $\|y_1\|_Y=\|Tx_1\|_Y\le\|T\|\|x_1\|_X$ なので $\|x_1\|_X^{-1}\le\|T\|/\|y_1\|_Y$ である。二つを掛け合わせればよい。$\square$
積 $\|T\|\|T^{-1}\|$ は、そのノルムで測った方程式の感度の上界となる。定理はこの値が有限であることを保証するが、小さいことまでは保証しない。
同じベクトル空間に二つのノルムを入れると、どの列が収束するか、どの写像が連続かが変わることがある。有界逆写像定理は、二つとも完備で、一方のノルムが他方で上から押さえられる場合には、そのような違いが起きないと教える。
ベクトル空間 $E$ のノルム $\|\cdot\|_a,\|\cdot\|_b$ がいずれも $E$ を Banach 空間にするとする。ある $K>0$ に対して $\|x\|_b\le K\|x\|_a$ が全 $x\in E$ で成り立つなら、ある $L>0$ に対して $\|x\|_a\le L\|x\|_b$ も成り立つ。したがって両ノルムは同値である。
恒等写像 $I\colon(E,\|\cdot\|_a)\to(E,\|\cdot\|_b)$ は $\|Ix\|_b\le K\|x\|_a$ を満たす有界な全単射である。両空間は Banach 空間だから、有界逆写像定理により逆の恒等写像も有界となる。これが $\|x\|_a\le L\|x\|_b$ を意味する。$\square$
この系は、あるノルムでは収束するが別のノルムでは発散する列を探して、後者のノルムが完備でないことを示すときにも使える。ただし定理の適用には、双方の完備性を先に確かめる必要がある。後述の積分と微分の例では、上限ノルムと導関数も測るノルムの違いがまさにこの点に現れる。
「同値」は単に集合として同じ空間を記述するという意味ではない。二つのノルムで収束列が一致し、開集合も一致し、連続な線形写像という性質も一致する。片側の不等式だけからこれらを結論するのは誤りで、両方が完備という条件が不可欠である。実際、後に使う $Y=\{u\in C^1([0,1]):u(0)=0\}$ では、導関数を測るノルムの方が上限ノルムより大きいにもかかわらず、その逆向きの評価はできない。
有界逆写像定理は、逆が存在すると分かった後の小さな摂動にも役立つ。行列の近似や積分方程式の係数を変えるときには、逆写像のノルムが許される誤差の大きさを決める。
$X,Y$ を Banach 空間、$T\colon X\to Y$ を有界な全単射、$E\colon X\to Y$ を有界線形写像とする。$\|T^{-1}\|\|E\|<1$ なら $T+E$ も有界な全単射であり、
$$
\|(T+E)^{-1}\|
\le \frac{\|T^{-1}\|}{1-\|T^{-1}\|\|E\|}.
$$
$A:=T^{-1}E\colon X\to X$ とおくと $\|A\|<1$ で、$T+E=T(I+A)$ である。$X$ の完備性から作用素ノルムで $\sum_{n=0}^{\infty}(-A)^n$ が収束し、その和 $R$ は有限和の等式
$$
(I+A)\sum_{n=0}^{N}(-A)^n
=I-(-A)^{N+1}
$$
の極限によって $(I+A)R=I$ を満たす。同じ計算で $R(I+A)=I$ でもある。したがって $(T+E)^{-1}=RT^{-1}$ であり、
$$
\|(T+E)^{-1}\|
\le\sum_{n=0}^{\infty}\|A\|^n\|T^{-1}\|
=\frac{\|T^{-1}\|}{1-\|A\|}
\le\frac{\|T^{-1}\|}{1-\|T^{-1}\|\|E\|}.
$$
$T+E$ の有界性は $T,E$ の有界性から従う。$\square$
この条件は十分条件であって必要条件ではない。逆に、$\|T^{-1}\|$ が大きい方程式では、定理から可逆性を保証できる摂動の範囲が狭くなる。例えば実数の掛け算 $T(x)=\varepsilon x$($0<\varepsilon\ll1$)は可逆だが $\|T^{-1}\|=1/\varepsilon$ であり、摂動 $E(x)=-\varepsilon x$ によって $T+E=0$ になる。この例は、代数的に解けることだけでは安定した解法を意味しないことを端的に表す。
また、$T$ と $T+E$ の逆で同じデータ $y$ を解くとき、解の差は
$$
(T+E)^{-1}y-T^{-1}y=-(T+E)^{-1}ET^{-1}y
$$
と表せる。上のノルム評価を代入すれば、作用素の誤差 $\|E\|$ が解に与える影響も明示できる。入力データの誤差と作用素そのものの誤差は別の問題だが、どちらにも逆写像のノルムが現れる。
$X=Y=C([0,1])$ に上限ノルムを入れ、連続関数 $a$ で $a(t)\ne0$($0\le t\le1$)とする。
$$
(M_af)(t):=a(t)f(t)
$$
は有界な全単射で、逆は $M_a^{-1}g=g/a$ である。$a$ はコンパクトな区間で消えないので $m:=\min_{t\in[0,1]}|a(t)|>0$ であり、
$$
\|M_a^{-1}g\|_\infty\le m^{-1}\|g\|_\infty.
$$
実際には定数関数 $g=1$ を使うと $\|M_a^{-1}\|=1/m$ が分かる。$a$ の値が零に近づくほど、解 $f=g/a$ はデータ $g$ の誤差に敏感になる。
この例では逆を明示できた。一方、定理の利点は、逆の式が得られなくても有界性を保証できる点にある。次の例では、積分方程式についてそれ以上の定量的な評価も導ける。
$X=C([0,1])$ に上限ノルムを入れ、Volterra 作用素
$$
(Vf)(t):=\int_0^t f(s)\,ds
$$
を考える。$\|Vf\|_\infty\le\|f\|_\infty$ なので $V$ は有界である。積分方程式
$$
f(t)-\int_0^t f(s)\,ds=g(t)
$$
は $(I-V)f=g$ と書ける。
$I-V\colon X\to X$ は有界な全単射で、逆写像について $\|(I-V)^{-1}\|\le e$ が成り立つ。
反復積分により、すべての $n\ge0$ について
$$
|(V^nf)(t)|\le\frac{t^n}{n!}\|f\|_\infty\qquad(0\le t\le1)
$$
が帰納的に従う。したがって $\sum_{n=0}^{\infty}V^ng$ は上限ノルムで収束し、その和を $Sg$ とすると $\|Sg\|_\infty\le\sum_{n=0}^{\infty}1/n!\,\|g\|_\infty=e\|g\|_\infty$ である。有限和に対して $(I-V)\sum_{n=0}^{N}V^n=I-V^{N+1}$ であり、$\|V^{N+1}\|\le1/(N+1)!\to0$ なので $(I-V)S=I$ である。同じ恒等式の右から $(I-V)$ を掛ければ $S(I-V)=I$ も得る。よって $S=(I-V)^{-1}$ である。$\square$
この場合は逆を級数で構成でき、定理の結論に具体的な定数 $e$ を付けられる。$g$ の誤差が $\varepsilon$ 以下なら、解の誤差は $e\varepsilon$ 以下となる。
両方の空間の完備性、$T$ の有界性、全単射性を区別する必要がある。単射でも全射でなければ、像の上の逆写像が非有界なことがある(開写像定理 の対角作用素の例)。ここでは、$T$ が有界な全単射でも値域が完備でないと逆が非有界になりうる例を見る。
$X=C([0,1])$ に上限ノルムを入れる。$Y:=\{u\in C^1([0,1]):u(0)=0\}$ にも上限ノルム $\|u\|_\infty$ を入れ、
$$
(Tf)(t):=\int_0^t f(s)\,ds
$$
とする。微積分学の基本定理から $T\colon X\to Y$ は全単射であり、$\|Tf\|_\infty\le\|f\|_\infty$ だから有界である。逆は $T^{-1}u=u'$ である。
$u_n(t):=\sin(nt)/n$ と置けば $u_n\in Y$、$\|u_n\|_\infty\le1/n\to0$ だが、$\|T^{-1}u_n\|_\infty=\|\cos(nt)\|_\infty=1$ である。したがって $T^{-1}$ は連続でない。
$Y$ は完備でない。直接見るには、$u(t)=|t-\tfrac12|-\tfrac12$ を滑らかな関数 $u_k\in Y$ で一様近似できるが、$u\notin Y$ である。例えば
$$
u_k(t)=\sqrt{(t-\tfrac12)^2+k^{-2}}-\sqrt{\tfrac14+k^{-2}}
$$
とすれば $u_k(0)=0$ かつ $u_k\to u$ が一様に成り立つ。
小さな関数 $u_n$ の導関数は小さくならない。入力データを上限ノルムだけで測ると、微分による復元は不安定なのである。$Y$ を $\|u\|_\infty+\|u'\|_\infty$ というノルムで測れば完備になり、$T^{-1}u=u'$ は有界になる。ただし、これは別のノルム空間として問題を設定し直した結果である。
この反例では $X$ は Banach 空間で、$T$ は線形・有界・全単射という他の条件をすべて満たす。したがって、値域の完備性を定理の仮定から取り去ることはできない。一方、同じ関数集合 $Y$ に導関数も測るノルムを入れると、積分 $T$ と微分 $T^{-1}$ の双方が有界になる。どの量を誤差として許すか、すなわちデータにどのノルムを入れるかが、安定性の結論を左右している。
定理は全単射を仮定する。全射性を落としても、単射なら像 $T(X)$ の上に逆写像は定義できる。しかし、その像に $Y$ から受け継いだノルムを入れたとき完備かどうかが重要である。
$X,Y$ を Banach 空間とし、$T\colon X\to Y$ を有界な単射線形写像とする。次は同値である。
1 なら $T(X)$ は $Y$ の閉部分空間なので Banach 空間である。$T\colon X\to T(X)$ は有界な全単射だから、有界逆写像定理で 2 が従う。2 から 3 への言い換えは、$T^{-1}$ の有界性の定義そのものである。3 を仮定し、$Tx_n\to y$ とする。不等式を $x_n-x_m$ に適用すると $(x_n)$ は Cauchy 列である。$X$ は完備なので $x_n\to x$ となり、$T$ の連続性から $y=Tx$ である。よって像は閉じている。$\square$
この命題で「閉」は $Y$ の中で閉じている意味であり、単に像の元だけで極限を考えたときの性質ではない。全射の場合には $T(X)=Y$ が自動的に閉じているので、上の定理に戻る。
逆に、下からの評価があっても全射性は出てこない。$\ell^2$ 上の右シフト
$$
S(x_1,x_2,\ldots):=(0,x_1,x_2,\ldots)
$$
は $\|Sx\|_2=\|x\|_2$ を満たす有界な単射で、像は第 1 成分が $0$ の閉部分空間である。しかし $(1,0,0,\ldots)$ は像に入らず、$S^{-1}$ を $\ell^2$ 全体に定義することはできない。このように「像の上で逆が安定」と「すべての右辺で方程式が解ける」は別の条件である。
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