零対象(zero object)とは、始対象と終対象を兼ねる対象である。すなわちすべての対象へ、かつすべての対象から、それぞれちょうど一つの射が存在する対象をいう。零対象を持つ圏では任意の二対象間に自然な零射が定まり、加法圏・アーベル圏の基礎になる。
前提知識: 圏
圏 $\mathcal C$ の対象 $I$ が始対象(initial object)であるとは、任意の対象 $X$ に対し射 $I\to X$ がちょうど一つ存在することをいう。対象 $T$ が終対象(terminal object)であるとは、任意の対象 $X$ に対し射 $X\to T$ がちょうど一つ存在することをいう。
圏 $\mathcal C$ の対象 $0$ が零対象(zero object, null object)であるとは、$0$ が始対象かつ終対象であることをいう。
圏 $\mathcal C$ が始対象を持てば、それは同型を除いて一意である。終対象についても同様であり、したがって零対象も存在すれば同型を除いて一意である。
$0,0'$ をともに始対象とする。始対象の定義より、射 $f\colon 0\to 0'$ と $g\colon 0'\to 0$ がそれぞれちょうど一つ存在する。合成 $g\circ f\colon 0\to 0$ を考えると、これは $0$ から $0$ への射であり、$0$ が始対象であることから $0$ から $0$ への射は $\operatorname{id}_0$ ただ一つしかない。ゆえに $g\circ f=\operatorname{id}_0$。同様に $f\circ g=\operatorname{id}_{0'}$ が従う。したがって $f,g$ は互いに逆な同型射であり、$0\cong 0'$。終対象の一意性も、すべての矢印を逆にした双対の議論で同じく従う。零対象は始対象かつ終対象なので、その一意性は両者の一意性から直ちに得られる。$\blacksquare$
零対象は「情報を持たない対象」であり、任意の対象との間に迷いなく定まる橋渡し役を提供する。始対象性は「そこから出発する方法が一意」、終対象性は「そこへ到達する方法が一意」という、互いに双対な二つの条件である。零対象はこの両方を同時に満たす特別な対象であり、両方を満たすからこそ、任意の対象 $A,B$ に対して
$$
A\longrightarrow 0\longrightarrow B
$$
という「$0$ を経由する」射が一意に定まる。この構成が零射の起源である。
始対象と終対象が別々に存在しても、それらが一致するとは限らない点に注意する。零対象とは、単に「始対象が存在し、終対象が存在する」ことではなく、「両者が(同型ではなく)同一の対象として実現される」ことを要求する概念である。
$\mathbf{Grp}$ において、自明群 $\{e\}$ は始対象かつ終対象である。任意の群 $G$ に対し、$\{e\}\to G$ は単位元を単位元に送る準同型がただ一つ存在し、$G\to\{e\}$ もすべての元を単位元に送る準同型がただ一つ存在する。ゆえに $\{e\}$ は $\mathbf{Grp}$ の零対象である。
$\mathbf{Ab}$、$R\text{-}\mathbf{Mod}$、$k\text{-}\mathbf{Vect}$ においても、零元のみからなる自明な対象 $\{0\}$ が零対象である。零準同型・零線形写像がそれぞれ一意な入出射を与える。
$\mathbf{Set}$ では、空集合 $\emptyset$ が始対象(空集合からの写像はただ一つ、空写像)であり、一元集合 $\{*\}$(を一つ固定したもの、あるいは任意の一元集合の同型類)が終対象である。しかし $\emptyset\not\cong\{*\}$ なので、始対象と終対象は一致せず、$\mathbf{Set}$ は零対象を持たない。単位的環を対象とし単位元を保つ環準同型を射とする圏 $\mathbf{Ring}$ も同様である:整数環 $\mathbb Z$ が始対象($\mathbb Z\to R$ は一意の環準同型を持つ)、零環 $\{0\}$ が終対象であるが、$\mathbb Z\not\cong\{0\}$ なのでやはり零対象を持たない。始対象・終対象がともに存在することと、それらが一致して零対象を与えることとは別の条件である。
圏 $\mathcal C$ が零対象 $0$ を持つとき、$\operatorname{Hom}_{\mathcal C}(0,0)$ は恒等射 $\operatorname{id}_0$ のみからなる一元集合である。
$0$ は終対象でもあるから、定義より $0$ から $0$ への射はちょうど一つしか存在しない。$\operatorname{id}_0$ はその一つの例であるから、$\operatorname{Hom}_{\mathcal C}(0,0)=\{\operatorname{id}_0\}$ である。$\blacksquare$
零対象を持つ圏では、任意の対象 $A,B$ に対して一意な射 $\pi_A\colon A\to 0$(終対象性)と $\iota_B\colon 0\to B$(始対象性)が定まり、合成 $\iota_B\circ\pi_A\colon A\to B$ を零対象を経由する零射とよぶ。この射の族が任意の合成と両立する(吸収的である)ことの完全な証明は零射に委ねる。
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