行列環(matrix ring)とは、環 $A$ の元を成分とする $n$ 次正方行列の全体 $M_n(A)$ に、成分ごとの和と $(XY)_{ij}=\sum_k x_{ik}y_{kj}$ で定まる積を入れた環である。単位元は単位行列で、$A$ が零環でなく $n\geq2$ なら $A$ が可換でも $M_n(A)$ は可換でなく、行列単位 $E_{11}$、$E_{12}$ のような $0$ でない零因子・冪零元・冪等元をもつ。両側イデアルは $A$ の両側イデアル $I$ による $M_n(I)$ の形に限られ、とくに体や可除環の上の行列環は単純環である。中心は $Z(A)$ の元によるスカラー行列からなり、単元群は一般線形群 $\mathrm{GL}_n(A)$ である。Artin–Wedderburn の定理により、半単純環は可除環上の行列環の有限個の直積になる。
前提知識: 環, 行列, イデアル, 可換環
行列環は、環 $A$ の元を成分とする $n$ 次正方行列の全体に、行列の和と積を入れた環 $M_n(A)$ である。$A$ が零環でなく $n\geq2$ なら、$A$ が可換環であっても可換でなく、$0$ でない零因子や冪零元をもつので、非可換環の最も基本的な例になる。一方、両側イデアルは $A$ のイデアル $\mathfrak{a}$ による $M_n(\mathfrak{a})$ の形のものに限られ、「両側イデアルの見え方」は $A$ とまったく同じである。とくに体上の行列環は、零因子を多くもちながら自明でない両側イデアルをもたない単純環である。
本記事では、環は乗法の単位元 $1$ をもつものとし、乗法の可換性は仮定しない(環 の記事の流儀)。$n\geq1$ は整数とする。
$A$ を環とする。$A$ の元 $x_{ij}$($1\leq i,j\leq n$)を成分とする $n\times n$ 行列 $X=(x_{ij})$ の全体を $M_n(A)$ と書き、和と積を
$$
(X+Y)_{ij}:=x_{ij}+y_{ij},\qquad (XY)_{ij}:=\sum_{k=1}^{n}x_{ik}\,y_{kj}
$$
で定める。零行列(すべての成分が $0$ の行列)を $0$、単位行列 $I=I_n$(対角成分が $1$、他の成分が $0$ の行列)を $1$ とする。この $(M_n(A),+,\cdot)$ を $A$ 上の $n$ 次 行列環(matrix ring)または 全行列環(full matrix ring)という。
積の成分 $\sum_k x_{ik}y_{kj}$ では、$X$ の成分を左に、$Y$ の成分を右に置く。$A$ が可換でないとき、この順序は変えられない。$M_n(A)$ が実際に環であることは prop-matrix-ring-is-ring で示す。行列環の定義と基本的な例は DF04 §7.1〜§7.2 にある。
以下の計算で使う記号を定めておく。
$1\leq i,j\leq n$ に対し、$(i,j)$ 成分だけが $1$ で他の成分が $0$ の行列を $E_{ij}$ と書き、行列単位(matrix unit)という。$a\in A$ に対し、対角成分がすべて $a$ で他の成分が $0$ の行列を $aI$ と書き、スカラー行列という。
積の定義から、Kroneckerのデルタ $\delta_{jk}$($j=k$ なら $1$、$j\neq k$ なら $0$)を用いて
$$
E_{ij}E_{kl}=\delta_{jk}E_{il},\qquad (aI)E_{ij}=E_{ij}(aI)=aE_{ij}
$$
が成り立つ。ここで $aE_{ij}$ は $(i,j)$ 成分だけが $a$ で他が $0$ の行列である。任意の $X=(x_{ij})$ は $X=\sum_{i,j}x_{ij}E_{ij}$ と一意に書ける。成分の計算でよく使うのは次の式である。$X=(x_{st})$ と添字 $i,p,q,j$ に対し
$$
E_{ip}\,X\,E_{qj}=x_{pq}E_{ij}
$$
である。
実際、左辺の $(r,s)$ 成分は $\sum_{t,u}(E_{ip})_{rt}\,x_{tu}\,(E_{qj})_{us}$ であり、$(E_{ip})_{rt}$ は $r=i$ かつ $t=p$ のときだけ $1$、$(E_{qj})_{us}$ は $u=q$ かつ $s=j$ のときだけ $1$ なので、$r=i$、$s=j$ のとき $x_{pq}$、それ以外のとき $0$ である。この計算は $A$ の可換性を使わない。
環の公理(加法がアーベル群をなすこと、乗法の結合律、分配法則、$I$ が単位元であること)は、成分が必ずしも可換でない環の場合に 行列 の記事の命題「行列演算の基本法則」の 1〜4 で示されている。結合律の証明では、各項 $x_{ij}y_{jk}z_{kl}$ の積の順序を保ったまま括弧を付け替えるだけなので、$A$ の可換性は使わない。
$\iota$ について。$(a+b)I=aI+bI$ は明らかであり、$(aI)(bI)$ の $(i,j)$ 成分は $\sum_k(a\delta_{ik})(\delta_{kj}b)=\delta_{ij}ab$ なので $(aI)(bI)=(ab)I$ である。$\iota(1)=I$ であり、$aI=0$ なら $a=0$ なので $\iota$ は単射である。環準同型の像は部分環である(環 の記事の定理「環の準同型定理」の 2)から、$\iota(A)$ は $M_n(A)$ の部分環で、$\iota$ により $A$ と同型である。
体 $k$ 上の行列 $X\in M_n(k)$ は、列ベクトルに左から掛ける写像 $v\mapsto Xv$ として $k^n$ の線形写像を表し、行列の積は写像の合成に対応する(行列 の記事の定理「行列と線形写像の対応」)。したがって $M_n(k)$ は「$k^n$ の線形変換を足したり合成したりする世界」である。平面の回転と、ある直線への射影を続けて行うとき、順序を入れ替えれば結果は変わる。行列環が可換でないのは、この「操作の順序」が効くことの反映である。また、平面を直線に潰す射影を 2 回続けても 1 回と同じである(冪等元)一方、ある方向の成分を別の方向へ送る写像は 2 回続けると $0$ になる(冪零元)。このような元が $0$ でないまま積が $0$ になるので、行列環は零因子を多くもつ。
それにもかかわらず、両側イデアルの側から見ると行列環は係数環 $A$ と区別がつかない。行列単位 $E_{ip}$、$E_{qj}$ を左右から掛ける操作 $X\mapsto E_{ip}XE_{qj}$ は、$X$ の任意の成分を任意の位置へ運ぶことができる。両側イデアルはこの操作で閉じているので、ある行列を含めば、その成分を $A$ の中で左右から掛けたものをどの位置にも含む。これが「両側イデアルは $M_n(\mathfrak{a})$ の形」という定理(thm-matrix-ring-ideals)の中身である。
$n=1$ のとき、$1\times1$ 行列 $(a)$ を $a$ と同一視すれば $M_1(A)=A$ である。したがって $A$ が可換なら $M_1(A)$ も可換であり、$M_1(A)$ の性質は $A$ の性質そのものである。また $A$ が零環 $\{0\}$ なら、$M_n(A)$ も零行列だけからなる零環である(このとき $I=0$)。以下の非可換性・零因子・冪零元についての主張で「$n\geq2$ かつ $A$ が零環でない」を仮定するのは、この 2 つの場合を除くためである。
$A=\mathbb{Z}$(整数環)、$n=2$ とする。
$$
X=\begin{pmatrix}1&1\\0&1\end{pmatrix},\qquad Y=\begin{pmatrix}1&0\\1&1\end{pmatrix}
$$
に対し、積の定義から
$$
XY=\begin{pmatrix}2&1\\1&1\end{pmatrix},\qquad YX=\begin{pmatrix}1&1\\1&2\end{pmatrix}
$$
であり、$XY\neq YX$ である。係数環 $\mathbb{Z}$ は可換であるが、$M_2(\mathbb{Z})$ は可換でない。
$M_2(\mathbb{Z})$ の両側イデアルは、thm-matrix-ring-ideals と $\mathbb{Z}$ のイデアルが $m\mathbb{Z}$($m\geq0$)の形であることから、すべての成分が $m$ の倍数である行列の全体 $M_2(m\mathbb{Z})$ に限る。剰余環は $M_2(\mathbb{Z})/M_2(m\mathbb{Z})\cong M_2(\mathbb{Z}/m\mathbb{Z})$ である。たとえば $m=2$ では $M_2(\mathbb{F}_2)$($\mathbb{F}_2=\mathbb{Z}/2\mathbb{Z}$)が得られ、これは $2^4=16$ 個の元からなる環である。その単元群は一般線形群 $\mathrm{GL}_2(\mathbb{F}_2)$ で位数 $6$ であり(一般線形群 の記事の例「最小の非可換な例」)、体上の行列環では単元でない元は零因子なので(零因子 の記事の命題「体上の行列環の零因子」)、残りの $10$ 個($0$ を含む)はすべて零因子である。
$A$ を零環でない環、$n\geq2$ とする。行列単位について
$$
E_{11}E_{22}=0,\qquad E_{12}^2=0,\qquad E_{11}^2=E_{11}
$$
が成り立つ($E_{ij}E_{kl}=\delta_{jk}E_{il}$ による)。したがって $E_{11}$ と $E_{22}$ は $0$ でない零因子であり、$E_{12}$ は $0$ でない冪零元、$E_{11}$ は $0$ でも $I$ でもない冪等元である。$E_{11}+E_{22}+\cdots+E_{nn}=I$ は、単位元が互いに積が $0$ になる冪等元の和に分かれることを示している。
冪零元の和や積は冪零とは限らない。$E_{12}$ と $E_{21}$ はどちらも冪零だが、$E_{12}E_{21}=E_{11}$ は冪等で $0$ でないので冪零でなく、$(E_{12}+E_{21})^2=E_{11}+E_{22}$ も($n=2$ なら $I$ に等しく)冪零でない(冪零元 の記事の例「反例:非可換な環での冪零元の和と積」)。したがって $M_n(A)$ の冪零元全体はイデアルをなさない。
体 $k$ 上の $M_n(k)$ では、元は単元(可逆行列)であるか零因子であるかのどちらか一方であり、零因子であることは行列式が $0$ であることと同値である(零因子 の記事の命題「体上の行列環の零因子」)。冪零元の冪零指数は $n$ 以下である(冪零元 の記事の命題「行列の冪零指数の上限」)。
$A$ を環とし、$i>j$ のとき $x_{ij}=0$ となる行列(上三角行列)の全体を $T_n(A)$ とする。$X,Y\in T_n(A)$ なら $(XY)_{ij}=\sum_kx_{ik}y_{kj}$ の各項は $i\leq k\leq j$ のときしか $0$ でないので、$i>j$ なら $(XY)_{ij}=0$ である。$I\in T_n(A)$ であり差でも閉じているので、$T_n(A)$ は $M_n(A)$ の部分環である。同じ計算により、$i\geq j$ のとき $x_{ij}=0$ となる行列(狭義上三角行列)の全体 $N_n(A)$ は $T_n(A)$ の両側イデアルである。実際、$X\in T_n(A)$、$Y\in N_n(A)$ なら $(XY)_{ij}$ の各項は $i\leq k< j$ のときしか $0$ でないので $i\geq j$ で $0$ になり、$YX$ についても同様である。
体 $k$ と $n\geq2$ について、$M_n(k)$ は単純環である(cor-matrix-ring-simple)。その部分環 $T_n(k)$(ex-matrix-ring-triangular)は、$E_{1n}$ を含むので $0$ でなく、$I$ を含まないので $T_n(k)$ 全体でもない両側イデアル $N_n(k)$ をもつ。したがって $T_n(k)$ は単純環でない。この例は「単純環の部分環は単純環である」という含意を破る。満たす性質は「$M_n(k)$ の部分環である」、満たさない性質は「両側イデアルが自明なものに限る」である。なお $N_n(k)$ は $M_n(k)$ の両側イデアルではない($E_{21}E_{12}=E_{22}\notin N_n(k)$)。
体 $k$ と $n\geq2$ について、$L:=M_n(k)E_{11}$ は第 1 列以外の成分がすべて $0$ の行列の全体であり、$M_n(k)$ の左イデアルである(イデアル の記事の例「行列環の両側イデアル」)。$k$ のイデアルは $(0)$ と $k$ だけなので、$M_n(\mathfrak{a})$ の形の部分集合は $0$ と $M_n(k)$ しかないが、$L$ は $E_{11}$ を含むので $0$ でなく、$E_{12}$ を含まないので $M_n(k)$ でもない。したがって $L$ は $M_n(\mathfrak{a})$ の形でない。この例は、thm-matrix-ring-ideals が両側イデアルについての主張であり、「左イデアルも $M_n(\mathfrak{a})$ の形である」という含意は成り立たないことを示す。
可換環では、零環でなく両側イデアルが自明なものに限る環はちょうど体である(イデアル の記事の例「体のイデアル」)。非可換環ではこの対応が崩れる。体 $k$ と $n\geq2$ について、$M_n(k)$ は単純環である(cor-matrix-ring-simple)が、$0$ でない零因子 $E_{11}$ をもつので $E_{11}$ は単元でなく、$M_n(k)$ は可除環($0$ 以外の元がすべて単元である零環でない環)ではない。この例は「単純環は可除環である」という含意を破る。満たす性質は「両側イデアルが自明」、満たさない性質は「$0$ でない元がすべて可逆」であり、両者の差は、自明でない左イデアル(ex-matrix-ring-left-ideal)が存在することに現れている。
$A$ を環とする。$M_n(A)$ が可換であることは、「$A$ が零環である」か「$n=1$ かつ $A$ が可換である」ことと同値である。とくに $A$ が零環でなく $n\geq2$ なら、$M_n(A)$ は可換でなく、$0$ でない零因子と $0$ でない冪零元をもつ。
$A$ が零環なら $M_n(A)$ は零環で可換である。$n=1$ なら $M_1(A)=A$(ex-matrix-ring-degenerate)なので、$M_1(A)$ が可換であることと $A$ が可換であることは同値である。
残りは、$A$ が零環でなく $n\geq2$ のとき $M_n(A)$ が可換でないことである。$A$ は零環でないので $1\neq0$(環 の記事の命題「環の基本計算規則」の 4)であり、$E_{12}\neq0$ である。$E_{ij}E_{kl}=\delta_{jk}E_{il}$ から
$$
E_{11}E_{12}=E_{12}\neq0=E_{12}E_{11}
$$
なので $E_{11}$ と $E_{12}$ は交換しない。さらに $E_{11}E_{22}=0$ で $E_{11}\neq0$、$E_{22}\neq0$ なので $E_{11}$ は $0$ でない零因子であり、$E_{12}^2=0$ なので $E_{12}$ は $0$ でない冪零元である。
環 $R$ の 中心(中心(環論))とは、すべての元と交換する元の全体 $Z(R):=\{z\in R\mid \text{任意の }x\in R\text{ に対し }zx=xz\}$ のことである。$R$ が可換であることは $Z(R)=R$ と同値である。
$A$ を環とすると
$$
Z(M_n(A))=\{aI\mid a\in Z(A)\}
$$
である。とくに $A$ が可換なら、$M_n(A)$ の中心はスカラー行列の全体であり、$a\mapsto aI$ により $A$ と同型である。
$a\in Z(A)$ とし、$X=(x_{ij})\in M_n(A)$ とする。$(aI)X$ の $(i,j)$ 成分は $ax_{ij}$、$X(aI)$ の $(i,j)$ 成分は $x_{ij}a$ であり、$a$ が中心の元なので両者は等しい。よって $aI\in Z(M_n(A))$ である。
逆に $Z=(z_{st})\in Z(M_n(A))$ とする。任意の $i,j$ について $ZE_{ij}=E_{ij}Z$ であり、両辺の $(r,s)$ 成分は
$$
(ZE_{ij})_{rs}=z_{ri}\,\delta_{js},\qquad (E_{ij}Z)_{rs}=\delta_{ri}\,z_{js}
$$
である。$s=j$、$r\neq i$ とおくと $z_{ri}=0$ を得る。$r=i$、$s=j$ とおくと $z_{ii}=z_{jj}$ を得る。$i,j$ は任意なので、$Z$ の対角成分以外の成分はすべて $0$ で、対角成分はすべて等しい($n=1$ ならこの部分は何も主張しない)。よって $a:=z_{11}$ とおけば $Z=aI$ である。さらに任意の $b\in A$ について $Z$ は $bI$ と交換するので、prop-matrix-ring-is-ring の計算 $(aI)(bI)=(ab)I$ により $(ab)I=(ba)I$、すなわち $ab=ba$ である。したがって $a\in Z(A)$ である。
$A$ が可換なら $Z(A)=A$ であり、$a\mapsto aI$ は prop-matrix-ring-is-ring により単射な環準同型で、その像が中心に一致するので、$A$ と中心の同型を与える。
$A$ が可換なら、一般線形群 $\mathrm{GL}_n(A)$ の群の中心は $\{aI\mid a\in A^\times\}$ である(一般線形群 の記事の命題「スカラー行列からなる中心」)。これは環の中心 $\{aI\mid a\in A\}$ と単元群 $\mathrm{GL}_n(A)$ の共通部分に等しいが、群の中心を求めるには単元とだけ交換すればよいので、上の命題とは別に証明が要る。
$A$ の両側イデアル $\mathfrak{a}$ に対し、すべての成分が $\mathfrak{a}$ に属する行列の全体を $M_n(\mathfrak{a})$ と書く。
$A$ を環とする。
環 $R$ が 単純環(simple ring)であるとは、$R$ が零環でなく、$R$ の両側イデアルが $\{0\}$ と $R$ だけであることをいう(単純環)。
$A$ を環とする。$M_n(A)$ が単純環であることと、$A$ が単純環であることは同値である。とくに $A$ が可除環(とくに体)なら、$M_n(A)$ は単純環である。
$M_n(A)$ が零環であることと $A$ が零環であることは同値である($M_n(A)$ が零環になるのは、すべての成分が $0$ になるとき、すなわち $A=\{0\}$ のときに限る)。thm-matrix-ring-ideals の 3 により、$A$ の両側イデアルと $M_n(A)$ の両側イデアルは全単射で対応し、$\{0\}$ は $M_n(\{0\})=\{0\}$ に、$A$ は $M_n(A)$ に対応する。したがって「両側イデアルが自明なものだけである」という条件は、$A$ と $M_n(A)$ で同時に成り立つか同時に成り立たない。可除環の両側イデアルは $\{0\}$ と全体だけであり(環 の記事の命題「イデアルの基本性質」の 3)、可除環は零環でないので単純環である。
体 $k$ の場合の直接の計算は イデアル の記事の例「行列環の両側イデアル」にある。$k$ が可換な体なら、$M_n(k)$ は中心が $k$(prop-matrix-ring-center)の単純環で $k$ 上有限次元なので、中心単純環の最も基本的な例になる(中心単純環 の記事の命題「行列代数は中心単純」)。
$M_n(A)$ の単元群 $M_n(A)^\times$ は、定義により $A$ 上の一般線形群 $\mathrm{GL}_n(A)$ である。$A$ が可換なら、$X\in M_n(A)$ が単元であることは $\det X$ が $A$ の単元であることと同値であり、片側の逆行列があれば両側の逆行列になる(一般線形群 の記事の命題「行列式による可逆性の判定」)。とくに体 $k$ 上では $M_n(k)^\times=\{X\mid\det X\neq0\}$ である。$A$ が零環でなく $n\geq2$ なら、$A$ が可換でなくても $\mathrm{GL}_n(A)$ は可換群でない。実際、$E_{12}^2=0$ から $(I+E_{12})(I-E_{12})=(I-E_{12})(I+E_{12})=I$ なので $I+E_{12}$ は単元であり、同様に $I+E_{21}$ も単元である。そして
$$
(I+E_{12})(I+E_{21})-(I+E_{21})(I+E_{12})=E_{12}E_{21}-E_{21}E_{12}=E_{11}-E_{22}\neq0
$$
である($A$ が可換な場合の同じ計算は 一般線形群 の記事の系「非可換性」にある)。$A$ が可換でないときは行列式が使えず、単元の判定は一般に難しくなる。
$A$ が可換なら、行列 $X$ に $A^n$(列ベクトルの全体)の $A$ 線形写像 $v\mapsto Xv$ を対応させる写像は、環の同型
$$
M_n(A)\cong\operatorname{End}_A(A^n)
$$
を与える(Lan02 Chapter XIII)。ここで右辺は $A$ 線形写像 $A^n\to A^n$ の全体に、和と写像の合成を入れた自己準同型環である。逆写像は、線形写像 $f$ に、標準基底の像 $f(e_1),\dots,f(e_n)$ を列に並べた行列を対応させる写像である。$A$ が可換でないときも同様の議論が成り立つ。$A^n$ を右から $A$ の元を掛ける右加群とみなせば、左からの行列の積 $v\mapsto Xv$ は右からのスカラー倍と交換し、同じ対応で $M_n(A)$ が右加群 $A^n$ の自己準同型環と同型になる(証明は可換な場合とまったく同じ計算による)。行列環は、$n$ 次元のベクトル空間(あるいは階数 $n$ の自由加群)の線形変換の環を、基底を 1 つ選んで座標で書いたものである。
係数環が可換でないときは、可換な場合の公式の一部がそのまま成り立たない。たとえば四元数環 $\mathbb{H}$ 上の $1\times1$ 行列 $X=(i)$、$Y=(j)$ について、転置行列 $X^{\top}$ をとると $(XY)^{\top}=(ij)=(k)$ であるが $Y^{\top}X^{\top}=(ji)=(-k)$ であり、公式 $(XY)^{\top}=Y^{\top}X^{\top}$ は成り立たない。成り立つのは、積の順序を逆にした環 $A^{\mathrm{op}}$ を用いた同型 $M_n(A)^{\mathrm{op}}\cong M_n(A^{\mathrm{op}})$($X\mapsto X^{\top}$)である。
行列環は非可換環論の中心にある。次の定理は、ある意味で「よい」非可換環がすべて可除環上の行列環から組み立てられることを述べる。
左Artin環であってJacobson根基が $0$ である環(半単純環)$R$ は、有限個の可除環 $D_1,\dots,D_r$ と正の整数 $n_1,\dots,n_r$ によって
$$
R\cong M_{n_1}(D_1)\times\cdots\times M_{n_r}(D_r)
$$
と環の直積に分解する。組 $(n_i,D_i)$ は、順序と $D_i$ の同型を除いて $R$ から一意に定まる。
証明は本記事では扱わず、Lan02 Chapter XVII、Lam01 Chapter 1 に譲る。cor-matrix-ring-simple により右辺の各因子は単純環であり、定理は「半単純環は単純な行列環の有限個の直積である」と言い換えられる。有限次元の単純代数の場合は 中心単純環 の記事の定理「斜体上の行列代数としての表示」にもある。
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