Engelの定理(Engel's theorem)とは、体 $K$ 上の $0$ でない有限次元ベクトル空間 $V$ について、冪零な線形変換だけからなる $\mathfrak{gl}(V)$ の部分 Lie 環には、すべての元が $0$ に写す $0$ でないベクトルがあるという定理である。したがって 1 つの基底ですべての元を同時に狭義上三角行列にでき、その Lie 環は冪零 Lie 環になる。随伴表現に当てると、有限次元の Lie 環が冪零であることは、各元の随伴写像が冪零であることと同値になる。Lie の定理と違い、標数や代数閉性を仮定せずに成り立つ。
1 つの冪零行列は、基底をうまくとると狭義上三角行列(対角成分も $0$ の上三角行列)になる。Engel の定理(Engel's theorem)は、これを行列の族に広げる。冪零行列だけからなる行列の Lie 環(交換子で閉じた部分空間)は、1 つの基底でいっせいに狭義上三角行列にでき、とくにすべての元が同時に $0$ に写すベクトルがある。これを随伴表現に当てると、有限次元の Lie 環が 冪零Lie環 であることは、各元 $x$ の随伴写像 $\operatorname{ad}x$ が冪零であることと同値になる。
同じ形の Lieの定理 が標数 $0$ と代数閉体を仮定するのに対し、Engel の定理は任意の体の上で成り立つ。この記事では、冪零な変換の随伴作用が冪零であるという補題から主定理を証明し、同時の狭義上三角化と、随伴写像による冪零性の判定を導く。最後に、仮定の「すべての元が冪零」「交換子で閉じている」「有限次元」をそれぞれ外すと結論が崩れることを反例で確かめる。
以下、$K$ を任意の体とする。$V$ を $K$ 上のベクトル空間とし、$V$ の線形変換の全体 $\mathfrak{gl}(V)$ を交換子 $[a,b]=ab-ba$ で Lie 環とみる。線形変換 $x$ は、ある $m\ge1$ で $x^m=0$ となるとき冪零であるという(冪零行列 の定義「冪零行列と冪零指数」)。$x\in\mathfrak{gl}(V)$ に対し、$\mathfrak{gl}(V)$ の線形変換 $L_x(y):=xy$、$R_x(y):=yx$ を考えると、$\operatorname{ad}x=L_x-R_x$ である。Lie 環の言葉は Lie環 の定義「準同型・部分 Lie 環・イデアル」に従う。
$x\in\mathfrak{gl}(V)$ が $x^m=0$ を満たすなら、$\mathfrak{gl}(V)$ の線形変換として $(\operatorname{ad}x)^{2m-1}=0$ である。
積の結合法則 $x(yx)=(xy)x$ から $L_xR_x=R_xL_x$ である。可換な 2 つの線形変換の差なので、2 項展開
$$
(\operatorname{ad}x)^{2m-1}=(L_x-R_x)^{2m-1}=\sum_{j=0}^{2m-1}(-1)^j\binom{2m-1}{j}L_x^{\,2m-1-j}R_x^{\,j}
$$
が成り立つ(2 項係数は整数を $K$ の元とみたもの)。$L_x^{\,a}=L_{x^a}$、$R_x^{\,b}=R_{x^b}$ であり、各項で $a+b=2m-1$ だから $a\ge m$ か $b\ge m$ のどちらかが成り立ち、その項は $0$ である。$\square$
この補題は $V$ の次元を使わない。
$V\neq0$ を $K$ 上の有限次元ベクトル空間とし、$\mathfrak{g}\subset\mathfrak{gl}(V)$ を部分 Lie 環で、すべての元が冪零な線形変換であるものとする。このとき $0$ でないベクトル $v\in V$ で、すべての $x\in\mathfrak{g}$ について $xv=0$ となるものがある。
$\mathfrak{g}$ は有限次元の $\mathfrak{gl}(V)$ の部分空間なので有限次元である。$\dim\mathfrak{g}$ についての帰納法で、すべての $V$ について同時に示す。$\mathfrak{g}=0$ なら $V$ の $0$ でない任意のベクトルでよい。
段 1(余次元 1 のイデアル):$\mathfrak{g}\neq0$ とする。$\mathfrak{g}$ の真の部分 Lie 環($0$ はその 1 つ)のうち次元が最大のもの $\mathfrak{h}$ をとる。$a\in\mathfrak{h}$ について、$\operatorname{ad}a$ は $\mathfrak{g}$ を保ち($\mathfrak{g}$ は部分 Lie 環)、$\mathfrak{h}$ も保つので、商空間 $\mathfrak{g}/\mathfrak{h}$ の線形変換 $\bar a\colon y+\mathfrak{h}\mapsto[a,y]+\mathfrak{h}$ を引き起こす。Jacobi 恒等式から $\operatorname{ad}[a,b]=[\operatorname{ad}a,\operatorname{ad}b]$ なので(Lie環 の系「随伴表現と内部導分」)、$a\mapsto\bar a$ は Lie 環の準同型 $\mathfrak{h}\to\mathfrak{gl}(\mathfrak{g}/\mathfrak{h})$ であり、その像 $\bar{\mathfrak{h}}$ は部分 Lie 環で $\dim\bar{\mathfrak{h}}\le\dim\mathfrak{h}< \dim\mathfrak{g}$ である。$a$ は冪零なので lem-engel-ad-nilpotent により $\operatorname{ad}a$ は $\mathfrak{gl}(V)$ 上で冪零であり、その $\mathfrak{g}$ への制限も、さらに商 $\mathfrak{g}/\mathfrak{h}$ に引き起こす $\bar a$ も冪零である。$\mathfrak{g}/\mathfrak{h}\neq0$ なので、帰納法の仮定を $\bar{\mathfrak{h}}\subset\mathfrak{gl}(\mathfrak{g}/\mathfrak{h})$ に当てると、$y\in\mathfrak{g}\setminus\mathfrak{h}$ で、すべての $a\in\mathfrak{h}$ について $[a,y]\in\mathfrak{h}$ となるものがある。すると
$$
[\mathfrak{h}+Ky,\ \mathfrak{h}+Ky]\subset[\mathfrak{h},\mathfrak{h}]+[\mathfrak{h},y]\subset\mathfrak{h}
$$
なので $\mathfrak{h}+Ky$ は $\mathfrak{h}$ より大きい部分 Lie 環であり、$\mathfrak{h}$ の選び方から $\mathfrak{g}=\mathfrak{h}\oplus Ky$ である。上の式から $[\mathfrak{g},\mathfrak{h}]\subset\mathfrak{h}$ なので、$\mathfrak{h}$ は余次元 $1$ のイデアルである。
段 2($\mathfrak{h}$ の共通の零ベクトル):$\mathfrak{h}$ の元はすべて冪零で $\dim\mathfrak{h}< \dim\mathfrak{g}$ なので、帰納法の仮定から
$$
W:=\{v\in V\mid\text{すべての }a\in\mathfrak{h}\text{ について }av=0\}
$$
は $0$ でない。
段 3($y$ は $W$ を保つ):$w\in W$、$a\in\mathfrak{h}$ について、$[a,y]\in\mathfrak{h}$ なので
$$
a(yw)=y(aw)+[a,y]w=0
$$
である。よって $yW\subset W$ である。$y$ の $W$ への制限は冪零なので、$0\neq w\in W$ をとり $y^kw=0$ となる最小の $k\ge1$ をとると、$v:=y^{k-1}w$ は $0$ でなく $yv=0$ を満たす。$v\in W$ なので $\mathfrak{h}v=0$ でもあり、$\mathfrak{g}=\mathfrak{h}\oplus Ky$ のすべての元が $v$ を $0$ に写す。$\square$
証明のどこでも体の性質(標数・代数閉性)を使っていない。Lieの定理 の証明も同じく余次元 1 のイデアルについての帰納法だが、そこでは固有値 $\lambda$ が $0$ とは限らないので、イデアルの固有空間が保たれることを示すために跡の比較と標数 $0$ が要る。Engel の定理では固有値がいつも $0$ なので、段 3 の 1 行の計算で済む。
thm-engel-main の仮定のもとで、$n=\dim V$ とする。
1:$n$ についての帰納法で示す。thm-engel-main の $v$ をとり $V_1:=Kv$ とおく。$n=1$ なら $0\subset V_1=V$ でよい。$n\ge2$ のとき、$\mathfrak{g}V_1=0$ なので $\mathfrak{g}$ は商 $\bar V:=V/V_1$ に作用し、$x\mapsto\bar x$ は Lie 環の準同型 $\mathfrak{g}\to\mathfrak{gl}(\bar V)$ である。その像は部分 Lie 環で、$x^m=0$ なら $\bar x^m=0$ なので元はすべて冪零である。帰納法の仮定から $\bar V$ の列 $0=\bar V_0\subset\cdots\subset\bar V_{n-1}=\bar V$ で $\bar x\bar V_j\subset\bar V_{j-1}$ となるものがある。$V_{j+1}$ を $\bar V_j$ の $V$ での逆像とすると $\dim V_{j+1}=j+1$ であり、$j\ge1$ について $xV_{j+1}\subset V_j$($\bar V_{j-1}$ の逆像)、さらに $xV_1=0=V_0$ である。基底は $v_i\in V_i\setminus V_{i-1}$ を順にとればよい:$xv_i\in V_{i-1}$ は $v_1,\dots,v_{i-1}$ の 1 次結合なので、$x$ の行列は狭義上三角行列である。
2:1 の列について $x_nV=x_nV_n\subset V_{n-1}$、$x_{n-1}V_{n-1}\subset V_{n-2}$、…と順に当てると、$x_1\cdots x_nV\subset V_0=0$ である。
3:1 の基底で $\mathfrak{g}$ は狭義上三角行列の Lie 環 $\mathfrak{n}_n$ の部分 Lie 環とみなせる。$\mathfrak{n}_n$ は冪零であり(冪零Lie環 の命題「狭義上三角行列の Lie 環の下降中心列」。$n=1$ なら $\mathfrak{n}_1=0$)、冪零 Lie 環の部分 Lie 環は冪零である(同じ記事の命題「冪零 Lie 環の基本性質」の 1)。$\square$
2 は、$\mathfrak{g}$ の元の(交換子ではなく)通常の積についての主張である。$\mathfrak{g}$ の元の積の 1 次結合(単位元は含めない)は、$n$ 個掛けると $0$ になる。
$\mathfrak{g}$ を体 $K$ 上の $n$ 次元の Lie 環とする。$\mathfrak{g}$ が冪零 Lie 環であるための必要十分条件は、すべての $x\in\mathfrak{g}$ について $\operatorname{ad}x\colon\mathfrak{g}\to\mathfrak{g}$ が冪零であることである。このとき、$\mathfrak{g}$ のイデアルの列 $0=\mathfrak{a}_0\subset\mathfrak{a}_1\subset\cdots\subset\mathfrak{a}_n=\mathfrak{g}$($\dim\mathfrak{a}_i=i$)で、$[\mathfrak{g},\mathfrak{a}_i]\subset\mathfrak{a}_{i-1}$ となるものがある。
必要性は 冪零Lie環 の命題「冪零 Lie 環の基本性質」の 6 である。
十分性と後半を示す。$\mathfrak{g}=0$ なら明らかなので $n\ge1$ とする。$\operatorname{ad}\colon\mathfrak{g}\to\mathfrak{gl}(\mathfrak{g})$ は Lie 環の準同型なので(Lie環 の系「随伴表現と内部導分」)、像 $\operatorname{ad}\mathfrak{g}$ は $\mathfrak{gl}(\mathfrak{g})$ の部分 Lie 環であり、仮定からその元はすべて冪零である。cor-engel-flag の 1 を $V=\mathfrak{g}$ と $\operatorname{ad}\mathfrak{g}$ に当てると、部分空間の列 $0=\mathfrak{a}_0\subset\cdots\subset\mathfrak{a}_n=\mathfrak{g}$($\dim\mathfrak{a}_i=i$)で、すべての $x$ について $[x,\mathfrak{a}_i]=\operatorname{ad}x(\mathfrak{a}_i)\subset\mathfrak{a}_{i-1}$ となるものがある。$[\mathfrak{g},\mathfrak{a}_i]\subset\mathfrak{a}_{i-1}\subset\mathfrak{a}_i$ なので各 $\mathfrak{a}_i$ はイデアルであり、この列は長さ $n$ の中心列(冪零Lie環 の定義「中心列と冪零 Lie 環」)である。よって $\mathfrak{g}$ は冪零である。$\square$
冪零Lie環 の定理「冪零性の言い換え」の 4 は、異なる元の随伴写像の合成がすべて消えることを要求する。thm-engel-ad は、有限次元なら各元ごとの冪零性だけでそれが従うことを述べている。
$\mathfrak{gl}_3(K)$ の狭義下三角行列の全体 $\mathfrak{g}$($E_{21},E_{31},E_{32}$ が張る)は部分 Lie 環で、元はすべて冪零である。prf-engel-main の段 1 の $\mathfrak{h}$ として $E_{31},E_{32}$ の張る 2 次元の部分 Lie 環がとれ($[E_{21},E_{32}]=-E_{31}$、$[E_{21},E_{31}]=0$ から $\mathfrak{h}$ はイデアル)、段 2 の $W=\{v\mid E_{31}v=E_{32}v=0\}$ は第 1・第 2 成分が $0$ のベクトルの全体、すなわち $Ke_3$ である($E_{31}v=v_1e_3$、$E_{32}v=v_2e_3$)。$y=E_{21}$ は $e_3$ を $0$ に写すので、$v=e_3$ が共通の零ベクトルである。基底を $e_3,e_2,e_1$ の順に並べると、すべての元が狭義上三角行列になる。
thm-engel-main の仮定を 1 つずつ外す。最後の行は thm-engel-ad の「有限次元」を外す。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| すべての元が冪零(冪零な元で張られることに弱める) | $\mathfrak{sl}_2(K)$ と、冪零な元からなる基底 $e,\ f,\ h+e-f$ | 共通の零ベクトルがない |
| 部分 Lie 環(交換子で閉じない部分空間に替える) | $\mathfrak{gl}_3(K)$ の部分空間 $Kx+Ky$、$x=E_{12}+E_{23}$、$y=E_{21}-E_{32}$ | すべての元が冪零なのに、共通の零ベクトルがない |
| $V$ が有限次元 | 基底 $e_1,e_2,\dots$ をもつ $V$ と、狭義下三角の有限和 $\sum_{i>j}c_{ij}E_{ij}$ の全体 $\mathfrak{n}^-_\infty$ | すべての元が冪零なのに、共通の零ベクトルがない |
| thm-engel-ad の「有限次元」 | 同じ $\mathfrak{n}^-_\infty$ を抽象的な Lie 環とみる | すべての $\operatorname{ad}x$ が冪零なのに、冪零 Lie 環でない |
1 行目:$e^2=f^2=0$ であり、$(h+e-f)^2=\begin{pmatrix}1&1\\-1&-1\end{pmatrix}^2=0$ である。3 つは 1 次独立なので $\mathfrak{sl}_2(K)$ を張る(標数によらない)。$ev=0$ なら $v\in Ke_1$ だが、$fe_1=e_2\neq0$ なので共通の零ベクトルはない。$\mathfrak{sl}_2(K)$ は $h$ という冪零でない元を含むので、thm-engel-main の仮定は満たされていない。
2 行目:$sx+ty=\begin{pmatrix}0&s&0\\t&0&s\\0&-t&0\end{pmatrix}$ の固有多項式を計算する。跡は $0$、2 次の主小行列式の和は $-st+0+st=0$、行列式は $0$ なので、固有多項式は $\lambda^3$ であり、Cayley–Hamilton の定理により $(sx+ty)^3=0$ である。$\ker x=Ke_1$ で $ye_1=e_2\neq0$ なので共通の零ベクトルはない。実際 $[x,y]=E_{11}-2E_{22}+E_{33}$ は冪零でなく($e_1$ を固定する)、$Kx+Ky$ に入らない。
3 行目と 4 行目は、$V$ の基底ベクトルの番号の大きい方へ送る行列を有限個ずつ考えればよい。
$E_{ij}e_k=\delta_{jk}e_i$ とする。$i>j$、$k>l$ について $[E_{ij},E_{kl}]=\delta_{jk}E_{il}-\delta_{li}E_{kj}$ で、$\delta_{jk}\neq0$ なら $i>j=k>l$、$\delta_{li}\neq0$ なら $k>l=i>j$ なので、右辺は再び狭義下三角であり、$\mathfrak{n}^-_\infty$ は部分 Lie 環である。元 $u$ に現れる添字がすべて $N$ 以下なら、$u$ は $e_1,\dots,e_N$ の張る空間を狭義下三角に保ち、$k>N$ の $e_k$ を $0$ に写すので、$u^N=0$ である。$0\neq v=\sum_kc_ke_k$ について $c_k\neq0$ となる最大の $k$ をとると、$E_{k+1,k}v=c_ke_{k+1}\neq0$ なので、共通の零ベクトルはない。
4 行目:$u^N=0$ なら lem-engel-ad-nilpotent($V$ の次元を使わない)により $\operatorname{ad}u$ は $\mathfrak{gl}(V)$ 上で冪零で、その $\mathfrak{n}^-_\infty$ への制限も冪零である。一方、$m\ge2$ について $e_1,\dots,e_m$ の上の狭義下三角行列の全体 $\mathfrak{n}^-_m$ は部分 Lie 環であり、$a\mapsto-{}^ta$ は $\mathfrak{n}^-_m$ から $\mathfrak{n}_m$ への Lie 環の同型である($[-{}^ta,-{}^tb]={}^ta\,{}^tb-{}^tb\,{}^ta=-{}^t[a,b]$)。$\mathfrak{n}_m$ の冪零類は $m-1$ なので(冪零Lie環 の命題「狭義上三角行列の Lie 環の下降中心列」)、$C^{m-1}\mathfrak{n}^-_\infty\supset C^{m-1}\mathfrak{n}^-_m\neq0$ である。$m$ は任意なので $\mathfrak{n}^-_\infty$ は冪零でない。
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