ベクトル(vector)とは、体 $K$ 上のベクトル空間の元のことであり、和とスカラー倍の計算ができることがその本質である。高校数学で扱う平面・空間の矢印のベクトルは、平行移動で重なる有向線分を同一視した同値類として定義でき、矢印をつなぐ和と伸縮による実数倍は代表のとり方によらずに定まり、その全体は $\mathbb{R}^2$・$\mathbb{R}^3$ と同型な実ベクトル空間になる。基底を1組選ぶとベクトルは座標(成分)の列とただ1通りに対応し、基底を行列 $P$ で取り替えると座標は $P^{-1}$ で変換される。数ベクトル・関数・多項式・複素数なども、ベクトル空間の元としてベクトルと呼ばれる。
高校数学では、ベクトルを「大きさと向きをもつ量」として導入し、矢印(有向線分)で表す。始点の位置が違っても、平行移動で重なる矢印は同じベクトルとみなし、和は矢印をつなぐことで、実数倍は矢印を伸び縮みさせることで定める。座標を入れると、ベクトルは成分の組 $(a_1,a_2)$ で表され、和と実数倍は成分ごとの計算になる。大学では、この「足すことと定数倍することができる」という性質だけを取り出して ベクトル空間 を定め、その元をベクトルと呼ぶ。こうすると、平面や空間の矢印だけでなく、数の組・関数・多項式・行列も同じ枠組みで扱える。
この記事では、ベクトル空間の元としてのベクトルの定義を述べ、高校の矢印のベクトルが有向線分の同値類として正確に定義でき、それが $\mathbb{R}^2$・$\mathbb{R}^3$ と同型なベクトル空間になることを証明する。さらに、基底を 1 組選ぶとベクトルが座標(成分)で表されること、基底を取り替えたときの座標の変わり方を証明する。
| 高校で学ぶこと | この記事での形 | 箇所 |
|---|---|---|
| 平行移動で重なる有向線分は同じベクトル | 有向線分の同値類 $\overrightarrow{AB}$ | def-vec-geometric |
| 和は矢印をつなぐ:$\overrightarrow{AB}+\overrightarrow{BC}=\overrightarrow{AC}$ | 代表のとり方によらない演算 | thm-vec-geometric |
| 成分表示 $\overrightarrow{AB}=(b_1-a_1,\ b_2-a_2)$ | 同型写像 $\overrightarrow{AB}\mapsto B-A$ | thm-vec-geometric |
| 1 次独立な $\vec a,\vec b$ で $\vec p=s\vec a+t\vec b$ とただ 1 通りに表す | 基底に関する座標 | thm-vec-coordinates |
| 位置ベクトル $\overrightarrow{OP}$ | 原点を決めて点とベクトルを対応させる | 節「位置ベクトル」 |
高校数学の計算としては、位置ベクトルと内分点は 位置ベクトルと内分点、内積は ベクトルの内積(高校数学)、空間のベクトルの分解は 空間ベクトルと1次独立 にある。
ベクトル空間の公理(加法の結合法則・交換法則、零ベクトルと逆ベクトルの存在、スカラー倍の分配法則など)は ベクトル空間 の定義「ベクトル空間の公理」にある(ベクトル空間の元をベクトルと呼ぶ用法は Axl24 の 1.20–1.21, p. 12 にもある)。$K=\mathbb{R}$ のときは実ベクトル空間、$K=\mathbb{C}$ のときは複素ベクトル空間という。
最も基本的な例は、$K$ の元を $n$ 個並べた 数ベクトル の全体 $K^n$ である。和とスカラー倍を成分ごとに
$$
(x_1,\dots,x_n)+(y_1,\dots,y_n)=(x_1+y_1,\dots,x_n+y_n),\qquad \lambda(x_1,\dots,x_n)=(\lambda x_1,\dots,\lambda x_n)
$$
と定めると、$K^n$ はベクトル空間になる(ベクトル空間 の例「数ベクトル空間」)。$x_i$ を $x$ の第 $i$ 成分 という。行列の計算では縦に並べた列ベクトルとして扱うことが多い。
次に、高校の矢印のベクトルを定義する。点の集まりとして座標空間 $E=\mathbb{R}^n$(平面なら $n=2$、空間なら $n=3$)をとり、その元を 点 と呼ぶ。点 $A,B$ の中点は $\frac12(A+B)$ である。
点の順序対 $(A,B)$ を、$A$ を始点、$B$ を終点とする 有向線分 という。有向線分 $(A,B)$ と $(C,D)$ について、線分 $AD$ の中点と線分 $BC$ の中点が一致するとき、$(A,B)\sim(C,D)$ と書く。$\sim$ は同値関係であり(thm-vec-geometric)、$(A,B)$ の同値類を $\overrightarrow{AB}$ と書いて 幾何ベクトル という。幾何ベクトル全体の集合を $\vec V(E)$ と書く。
4 点 $A,B,D,C$ のどの 3 点も一直線上にないとき、「対角線 $AD$ と $BC$ が互いの中点で交わる」ことは、四角形 $ABDC$ が平行四辺形であることと同値である(平行四辺形の条件 の命題「平行四辺形のベクトルによる言いかえ」。空間 $n=3$ でも、2 本の対角線が中点で交われば 4 点は同じ平面上にあるので、その平面で考えればよい)。したがって $(A,B)\sim(C,D)$ は、高校の「$AB$ と $CD$ は平行で長さが等しく向きが同じ」、言いかえれば「平行移動で重なる」ことを、一直線上にある場合まで含めて 1 つの条件で書いたものである。
ベクトルの本質は「足せること」と「定数倍できること」であり、矢印はその 1 つの見え方にすぎない。矢印のベクトルでは、始点をどこに置いてもよいので、矢印をつないで足すことができる。この自由さを正確に言うのが同値類による定義で、つなげ方によらず和が決まることが thm-vec-geometric の内容である。一方、基底を選んで座標を入れると、どのベクトル空間の計算も数ベクトルの計算になる。ただし座標は基底の選び方に依存し、ベクトルそのものは依存しない。
$E=\mathbb{R}^n$ とする。
1:$AD$ の中点と $BC$ の中点が一致することは $\frac12(A+D)=\frac12(B+C)$、すなわち $B-A=D-C$ と同値である。「差が等しい」という関係は反射律・対称律・推移律を満たすので、$\sim$ は同値関係である。
このことから、$\Phi(\overrightarrow{AB}):=B-A$ は代表 $(A,B)$ のとり方によらずに定まり(well-defined)、$\Phi$ は単射である($\Phi(\overrightarrow{AB})=\Phi(\overrightarrow{CD})$ なら $(A,B)\sim(C,D)$)。$v\in\mathbb{R}^n$ に対して $\Phi(\overrightarrow{0v})=v$($0$ は原点)なので、$\Phi$ は全射でもある。
2:$\Phi(\overrightarrow{PQ})=Q-P$ なので、$\overrightarrow{PQ}=u$ は $Q-P=\Phi(u)$、すなわち $Q=P+\Phi(u)$ と同値である。よって $Q$ はただ 1 つある。
3:$u$ の代表 $(A,B)$ を任意にとれば、2 により $\overrightarrow{BC}=w$ となる $C$ がとれるので、3 点はいつもとれる。そのとき
$$
\Phi(\overrightarrow{AC})=C-A=(C-B)+(B-A)=\Phi(w)+\Phi(u)
$$
であり、右辺は $u,w$ だけで決まる。$\Phi$ は単射なので、$\overrightarrow{AC}$ は $A,B,C$ のとり方によらない。スカラー倍についても $\Phi(\overrightarrow{AB_\lambda})=B_\lambda-A=\lambda(B-A)=\lambda\Phi(u)$ が $u$ と $\lambda$ だけで決まるので、同じ理由でとり方によらない。
4:3 の計算は $\Phi(u+w)=\Phi(u)+\Phi(w)$、$\Phi(\lambda u)=\lambda\Phi(u)$ を示している。$\mathbb{R}^n$ はベクトル空間であり、$\Phi$ は演算を保つ全単射なので、ベクトル空間の各公理は $\Phi$ で $\mathbb{R}^n$ の対応する等式に移して確かめられる。たとえば $\Phi\bigl((u+w)+z\bigr)=\Phi(u)+\Phi(w)+\Phi(z)=\Phi\bigl(u+(w+z)\bigr)$ と $\Phi$ の単射性から結合法則が従う。零ベクトルは $\overrightarrow{AA}$($\Phi$ の値が $0$)、$\overrightarrow{AB}$ の逆ベクトルは $\overrightarrow{BA}$ である。よって $\vec V(E)$ は実ベクトル空間で、$\Phi$ は線形な全単射である。$\square$
この定理により、高校で学ぶベクトルの性質はすべて $\mathbb{R}^n$ の計算に移して確かめられる。たとえば成分表示 $\overrightarrow{AB}=(b_1-a_1,\ b_2-a_2)$ は $\Phi$ そのものであり、$\overrightarrow{AB}+\overrightarrow{BC}=\overrightarrow{AC}$ は加法の定義である。ベクトル $u=\overrightarrow{AB}$ の 大きさ $|u|$ は線分 $AB$ の長さ $\|B-A\|$ で、これも代表によらない。$\overrightarrow{AB}=\overrightarrow{CD}$ なら、平行四辺形の性質($AB$ と $CD$ が平行で長さが等しい)が成り立つ。
点 $O$ を 1 つ決めると、2 により、点 $P$ に幾何ベクトル $\overrightarrow{OP}$ を対応させる写像は $E$ から $\vec V(E)$ への全単射になる。$\overrightarrow{OP}$ を、$O$ を基準とする $P$ の 位置ベクトル という。加法の定義から $\overrightarrow{OA}+\overrightarrow{AB}=\overrightarrow{OB}$ なので
$$
\overrightarrow{AB}=\overrightarrow{OB}-\overrightarrow{OA}
$$
である(位置ベクトルと内分点 の補題「2 点を結ぶベクトル」)。$O$ を原点にとれば、$\Phi(\overrightarrow{OP})$ は $P$ の座標そのものである。位置ベクトルの 1 次結合 $\sum_i\lambda_i\overrightarrow{OP_i}$ は一般には $O$ のとり方で変わるが、係数の和が $1$ なら $O$ によらない点を表す(位置ベクトルと内分点 の定理「係数の和が 1 なら原点によらない」)。内分点や重心の公式がこの形をしているのはそのためである。原点を特別扱いしないこの見方は、アフィン部分空間 と アフィン変換 で一般化される。
ベクトル空間 $V$ の有限個のベクトルの列 $(e_1,\dots,e_n)$ が 基底 であるとは、1 次独立で $V$ を生成すること、すなわち、$\sum_i\lambda_ie_i=0$ なら $\lambda_1=\dots=\lambda_n=0$ であり、$V$ のどのベクトルも $\sum_i x_ie_i$ の形に書けることである(基底)。
$(e_1,\dots,e_n)$ を $K$ 上のベクトル空間 $V$ の基底とする。
1:生成することから $v=\sum_ix_ie_i$ と書ける。$v=\sum_iy_ie_i$ とも書けたとすると、引いて $\sum_i(x_i-y_i)e_i=0$ であり、1 次独立性から $x_i=y_i$ である。$\varphi$ が線形であることは $\sum_i(x_i+y_i)e_i=\sum_ix_ie_i+\sum_iy_ie_i$、$\sum_i\lambda x_ie_i=\lambda\sum_ix_ie_i$ から分かり、全射であることは書けることから、単射であることは書き方の一意性から分かる。
2:$v=\sum_jx'_je'_j$ とすると
$$
v=\sum_jx'_j\sum_ip_{ij}e_i=\sum_i\Bigl(\sum_jp_{ij}x'_j\Bigr)e_i
$$
なので、1 の一意性により $x_i=\sum_jp_{ij}x'_j$、すなわち $x=Px'$ である。役割を入れ替えて $e_i=\sum_kq_{ki}e'_k$ で $Q=(q_{ki})$ を定めると、同じ計算で $x'=Qx$ である。よって $V$ のすべてのベクトルについて $x=PQx$ かつ $x'=QPx'$ である。1 により座標 $x$(および $x'$)は $K^n$ のすべての元をとりうるので、$PQ=QP=I$ であり、$P$ は正則で $Q=P^{-1}$ である。$\square$
1 は 基底 の定理「基底の同値条件」の一部でもあり、Axl24 の 2.28(criterion for basis, p. 39)にもある。1 によって、$n$ 次元のベクトル空間の計算は、基底を 1 つ選べば数ベクトル $K^n$ の計算になる。高校で学ぶ「平面の 1 次独立な 2 つのベクトルで任意のベクトルがただ 1 通りに表せる」は、$V=\vec V(\mathbb{R}^2)$ の基底 $(\vec a,\vec b)$ についての 1 である(位置ベクトルと内分点 の命題「平面のベクトルの分解」、空間ベクトルと1次独立 の定理「空間のベクトルの分解」)。
2 で、基底は $P$ で($e'_j=\sum_ip_{ij}e_i$)、座標は逆行列 $P^{-1}$ で変わる。基底を 2 倍にすると座標は半分になる、ということである。このため、座標の変換規則がこの形になる量をベクトル(反変ベクトル)と呼ぶ流儀もある。
$V=\mathbb{R}^2$、もとの基底を標準基底 $e_1=(1,0)^{\top}$、$e_2=(0,1)^{\top}$、新しい基底を $e'_1=(1,1)^{\top}=e_1+e_2$、$e'_2=(-1,1)^{\top}=-e_1+e_2$ とする。
$$
P=\begin{pmatrix}1&-1\\1&1\end{pmatrix},\qquad P^{-1}=\frac12\begin{pmatrix}1&1\\-1&1\end{pmatrix}
$$
である。$v=(3,1)^{\top}$ の新しい座標は $x'=P^{-1}(3,1)^{\top}=(2,-1)^{\top}$ で、実際 $2e'_1-e'_2=(2,2)^{\top}-(-1,1)^{\top}=(3,1)^{\top}$ である。
高校の説明「ベクトルは大きさと向きをもつ量」は、平面や空間の幾何ベクトルについての説明であり、一般のベクトルの定義にはならない。
thm-vec-geometric の同値関係の条件と、thm-vec-coordinates の基底の条件を 1 つずつ外した反例を表にまとめる。各行の確かめは下の例にある。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| 有向線分を同一視する | 有向線分 $(A,B)$ そのものを足す | 和がどの 2 つにも定義される |
| 向き(始点と終点の順序)を区別する | $(A,B)$ と $(B,A)$ も同一視する | 和が代表のとり方によらない |
| 平行であること | 長さが等しいだけで同一視する | 和が代表のとり方によらない |
| 1 次独立 | $\mathbb{R}^2$ の列 $(e_1,\ e_2,\ e_1+e_2)$ | 座標がただ 1 通りに決まる |
| 生成する | $\mathbb{R}^2$ の列 $(e_1)$ | どのベクトルも座標をもつ |
以下 $E=\mathbb{R}^2$、$O=(0,0)$、$P=(1,0)$、$Q=(2,0)$、$R=(1,1)$ とする。
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