Banach代数(Banach algebra)とは、積がノルムと両立する($\|xy\|\le\|x\|\|y\|$)完備なノルム代数で、連続関数環や有界作用素環が代表例である。単位元をもつとき、$\|x\|<1$ なら Neumann 級数 $\sum_n x^n$ が $1-x$ の逆元を与えるので可逆元の全体は開集合になり、複素 Banach 代数では各元のスペクトルが空でないコンパクト集合になる。可換な場合は、文字(零でない乗法的線形汎関数)が Gelfand 理論の出発点になる。完備性を欠く多項式環では、小さい元の級数が環の中で収束しないことがある。
連続関数は足したり掛けたりでき、関数の一様収束も考えられる。有界線形作用素も足し算と合成による掛け算を持ち、作用素ノルムで極限を取れる。Banach代数(Banach algebra)は、この二つに共通する構造である。環として積と逆元を調べる一方、Banach 空間として収束を使う。その結び付きから、逆元の摂動、スペクトル、作用素の関数計算が生まれる(Con90 Chapter VII)。
この記事では複素数体上の単位的 Banach 代数を中心にする。単位元を持たない Banach 代数や実 Banach 代数もあるが、複素単位的な場合はスペクトルが空でないという基本定理まで素直に述べられる。Banach空間は線形空間の完備性を、スペクトル定理は Hilbert 空間上の特別な作用素の構造を扱う。ここでは、積とノルムが両立することが何を可能にするかを具体的に計算する。
複素数体上の代数 $A$ は、複素ベクトル空間であると同時に結合的な積 $A\times A\to A$ を持ち、積が各変数で線形なものとする。単位元を $1_A$ と書く。ノルムが積に対して劣乗法的であれば、積は連続になる。
複素単位的 Banach 代数とは、単位元を持つ結合的な複素代数 $A$ とノルム $\|\cdot\|$ の組で、$A$ がこのノルムについて完備であり、任意の $a,b\in A$ に対して
$$
\|ab\|\le\|a\|\,\|b\|
$$
を満たすものをいう。ここでは $\|1_A\|=1$ も仮定する。
最後の正規化は多くの教科書の単位的 Banach 代数の約束に合わせた。単位元のノルムを必ず1としない流儀もある。以下の逆元やスペクトルの議論では、単位元があり有限のノルムを持つことが本質で、正規化によって式が見やすくなる。可換性は定義に含めない。したがって連続関数の環は可換な例、有界作用素の環は通常非可換な例である。
$K$ を空でないコンパクト Hausdorff 空間とすると、複素連続関数の集合 $C(K)$ は各点での積と一様ノルム $\|f\|_\infty=\sup_{x\in K}|f(x)|$ により可換な単位的 Banach 代数となる。単位元は定数関数 $1$ である。
$X$ を零でない複素 Banach 空間とすると、$X$ 上の有界線形作用素全体 $B(X)$ は作用素の合成を積とし、作用素ノルムで単位的 Banach 代数となる。単位元は恒等作用素である。$X$ の次元が2以上なら、二つの作用素の合成は一般に交換しない。
$C(K)$ では $|f(x)g(x)|\le\|f\|_\infty\|g\|_\infty$ を全ての $x$ で取れば劣乗法性が出る。一様 Cauchy 列の極限は連続なので完備である。$B(X)$ では $\|STx\|\le\|S\|\|Tx\|\le\|S\|\|T\|\|x\|$ より $\|ST\|\le\|S\|\|T\|$。作用素ノルムで Cauchy な列 $(T_n)$ は、各 $x\in X$ に対して $T_nx$ が $X$ で Cauchy なので、点ごとの極限 $Tx$ を定める。一様なノルム評価から $T$ は有界線形で、$T_n\to T$ は作用素ノルムでも成り立つ。したがって完備である。$\square$
有限次元の行列環 $M_n(\mathbb C)$ も作用素ノルムでこの例に含まれる。無限次元では行列式に頼れないため、Banach 代数の逆元とスペクトルの議論が特に有用になる。別の例として、絶対可和列 $\ell^1(\mathbb Z)$ は畳み込み
$$
(a*b)_n=\sum_{k\in\mathbb Z}a_kb_{n-k}
$$
を積として可換な単位的 Banach 代数になる。単位元は $0$ 番目が1で他が0の列であり、$\|a*b\|_1\le\|a\|_1\|b\|_1$ は絶対値の三角不等式と和の順序交換から従う。この例は解析での Fourier 級数と代数的な逆元の問題を結ぶ。
行列環が非可換であることは二つの射影でも見える。$\mathbb C^2$ の標準基底への射影 $P=\begin{pmatrix}1&0\\0&0\end{pmatrix}$ と、二つの座標を交換する行列 $S=\begin{pmatrix}0&1\\1&0\end{pmatrix}$ では $PS\ne SP$ である。どちらも有限ノルムを持つので同じ Banach 代数 $M_2(\mathbb C)$ に入る。完備性と劣乗法性は積の可換性を含まないことが、この最も小さい行列の例で確かめられる。
ノルムが小さい $a$ に対して形式的には $(1-a)^{-1}=1+a+a^2+\cdots$ と書ける。Banach 代数では、この級数がノルム収束し、本当に逆元になる。有限の多項式恒等式と完備性を組み合わせる基本的な手順である(Con90 Chapter VII §1)。
$A$ を単位的 Banach 代数、$a\in A$ とする。$\|a\|<1$ なら $1-a$ は可逆で、
$$
(1-a)^{-1}=\sum_{n=0}^{\infty}a^n,\qquad
\|(1-a)^{-1}\|\le\frac1{1-\|a\|}
$$
が成り立つ。
劣乗法性から $\|a^n\|\le\|a\|^n$。右辺の数列は総和が有限なので、$\sum a^n$ は $A$ で絶対収束し、完備性によって和 $s$ を持つ。有限部分和 $s_N=\sum_{n=0}^{N}a^n$ について
$$
(1-a)s_N=s_N(1-a)=1-a^{N+1}.
$$
$a^{N+1}\to0$ であり、積は連続なので極限を取って $(1-a)s=s(1-a)=1$。両側の逆元が $s$ である。ノルム評価は級数の三角不等式と幾何級数の和から従う。$\square$
ノルム条件 $\|a\|<1$ は十分条件にすぎず($A=\mathbb C$、$a=2$ なら $1-a=-1$ は可逆)、級数が収束するための必要十分条件($a^n\to0$、あるいはある $m$ で $\|a^m\|<1$)は Neumann級数 の定理「Neumann 級数の収束の判定」にある。
可逆元全体 $A^\times$ は $A$ の開集合である。さらに逆元を取る写像 $A^\times\to A^\times,\ b\mapsto b^{-1}$ は連続である。
$b\in A^\times$ とし、$\|h\|<\|b^{-1}\|^{-1}$ とする。$b+h=b(1+b^{-1}h)$ で $\|b^{-1}h\|<1$ だから、前の命題より $1+b^{-1}h$ は可逆である。ゆえに $b+h$ も可逆で、$b$ のまわりに可逆元だけからなる開球がある。
さらに $(b+h)^{-1}=(1+b^{-1}h)^{-1}b^{-1}$。Neumann 級数の評価を $-b^{-1}h$ に適用すれば、$\|(1+b^{-1}h)^{-1}-1\|\le\|b^{-1}h\|/(1-\|b^{-1}h\|)$ となり、$h\to0$ で右辺は零へ行く。したがって $(b+h)^{-1}\to b^{-1}$。$\square$
この命題は、作用素 $T$ に小さい誤差 $H$ を加えても、$T$ が可逆なら十分小さい範囲で可逆性が保たれることを意味する。逆元の連続性は近似計算の誤差を評価するときに使う。ただし誤差が「小さい」の尺度は $\|T^{-1}\|^{-1}$ であり、$\|T\|$ だけでは決まらない。
$a\in A$ と複素数 $\lambda$ に対し、$\lambda1_A-a$ が可逆かを調べる。可逆でない $\lambda$ の集合をスペクトルと呼び、$\sigma_A(a)$ と書く。可逆な領域で $(\lambda1_A-a)^{-1}$ をレゾルベントという。作用素では $\lambda I-T$ の逆作用素であり、行列では行列式の根がスペクトルを与える。
複素単位的 Banach 代数 $A$ の元 $a$ のスペクトルは
$$
\sigma_A(a)=\{\lambda\in\mathbb C:\lambda1_A-a\notin A^\times\}
$$
である。補集合 $\rho_A(a)=\mathbb C\setminus\sigma_A(a)$ をレゾルベント集合という。
可逆元は開なので、$\lambda\mapsto\lambda1_A-a$ の連続性から $\rho_A(a)$ は開、$\sigma_A(a)$ は閉である。さらに $|\lambda|>\|a\|$ なら
$$
\lambda1_A-a=\lambda(1_A-\lambda^{-1}a)
$$
で $\|\lambda^{-1}a\|<1$。Neumann 級数によって可逆なので、$\sigma_A(a)\subseteq\{\lambda:|\lambda|\le\|a\|\}$ である。従ってスペクトルはコンパクトである。残る「空ではない」という性質には複素解析を使う。
複素単位的 Banach 代数の任意の元 $a$ について、$\sigma_A(a)$ は空でないコンパクトな部分集合であり、
$$
\sigma_A(a)\subseteq\{\lambda\in\mathbb C:|\lambda|\le\|a\|\}
$$
を満たす。
閉性とノルムによる上界は直前に示した。非空性を背理法で示す。$\sigma_A(a)=\emptyset$ と仮定し、$R(\lambda)=(\lambda1_A-a)^{-1}$ を全ての $\lambda\in\mathbb C$ で定義する。逆元の開性と Neumann 級数から、任意の $\lambda_0$ の近くでは
$$
R(\lambda)=
\left(1_A+(\lambda-\lambda_0)R(\lambda_0)\right)^{-1}R(\lambda_0)
$$
と局所的な冪級数で書ける。従って $R$ は $A$ 値の整関数である。
$|\lambda|>\|a\|$ では $R(\lambda)=\lambda^{-1}(1_A-\lambda^{-1}a)^{-1}$ なので、Neumann 級数から $\|R(\lambda)\|\le(|\lambda|-\|a\|)^{-1}$。無限遠で零に収束し、残りのコンパクトな円板上でも連続なので有界である。任意の連続線形汎関数 $\varphi\in A^*$ に対して $\varphi(R(\lambda))$ は有界な整関数だから、Liouville の定理で定数であり、無限遠の極限から零である。連続線形汎関数は $A$ の点を分離するため $R(\lambda)=0$ となるが、これは $R(\lambda)(\lambda1_A-a)=1_A$ に矛盾する。$\square$
最後の証明で複素数体と完備性が重要である。実数体上で同じ「スペクトル」を実数 $\lambda$ だけで定義すると非空とは限らない。例えば実平面の90度回転行列には実固有値がなく、$\lambda I-T$ は全ての実数 $\lambda$ について可逆である。複素化して考えるか、複素 Banach 代数の定理として使う必要がある。
thm-banach-algebra-spectrum により、$r(a):=\max\{|\lambda|:\lambda\in\sigma_A(a)\}$ が定まって $r(a)\le\|a\|$ を満たす。これを $a$ のスペクトル半径といい、冪のノルムによって $r(a)=\lim_{n\to\infty}\|a^n\|^{1/n}$ と表せる(同記事の定理「Gelfand のスペクトル半径公式」)。
連続関数環 $C(K)$ では $f\in C(K)$ のスペクトルは値域 $f(K)$ に一致する。もし $\lambda\notin f(K)$ なら $x\mapsto1/(\lambda-f(x))$ は連続で、$\lambda1-f$ の逆元である。逆に $f(x_0)=\lambda$ なら、どんな連続関数を掛けても $x_0$ で積は零のままなので逆元はない。これはスペクトルを具体的な値の集合として見られる例である。
一方 $B(X)$ では、$\lambda I-T$ が可逆であるとは、単に線形写像として一対一かつ全射というだけでなく、逆写像が有界であることを含む。ただし $X$ が Banach 空間なら有界逆写像定理によって、全単射な有界作用素の逆は自動的に有界である。有限次元ではスペクトルと固有値集合は一致するが、無限次元では一致しない場合がある。
$X=L^2([0,1])$ とし、$(Tf)(x)=xf(x)$ と置く。$T$ は有界作用素で $\|T\|=1$。$\lambda\notin[0,1]$ では $(\lambda I-T)^{-1}$ が $f(x)\mapsto f(x)/(\lambda-x)$ と書け、そのノルムは有限である。$\lambda\in[0,1]$ では分母が零に近い区間へ集中した単位ノルムの関数を取れるため、$\lambda I-T$ は下から有界でなく、可逆でない。従って $\sigma_{B(X)}(T)=[0,1]$ である。一方 $Tf=\lambda f$ を満たす $L^2$ 関数は、測度零の一点集合 $\{x=\lambda\}$ の外で零なので、$f=0$。この作用素は固有値を持たない。
この例は、スペクトルが「固有値の集合」より広い理由を示す。連続関数環での値域と、作用素環での可逆性の失敗は同じ定義で統一されるが、具体的な読み方は代数によって異なる。さらに非可換な代数では同じ元のスペクトルを部分代数で測ると値が変わる場合がある。添字 $\sigma_A(a)$ は、どの代数の中で逆元を探すかを明示している。
可換な単位的 Banach 代数 $A$ では、積を保つ複素線形写像 $\chi:A\to\mathbb C$ で $\chi(1_A)=1$ を文字(character)という。$C(K)$ では各点 $x\in K$ での評価 $\chi_x(f)=f(x)$ が文字である。文字は元 $a$ の「値」を取り出す一つの方法で、スペクトルと結び付く。
$A$ を可換な複素単位的 Banach 代数、$\chi:A\to\mathbb C$ を文字とする。任意の $a\in A$ について $\chi(a)\in\sigma_A(a)$ であり、$\chi$ は連続で $\|\chi\|=1$ である。
$a-\chi(a)1_A$ に $\chi$ を適用すると零になる。もしこの元が可逆なら、逆元 $b$ に対し $1=\chi(1_A)=\chi(b)\chi(a-\chi(a)1_A)=0$ となり矛盾する。よって $\chi(a)\in\sigma_A(a)$。前のスペクトルの上界により $|\chi(a)|\le\|a\|$ なので、$\chi$ は連続で $\|\chi\|\le1$。一方 $\chi(1_A)=1$ と $\|1_A\|=1$ から $\|\chi\|\ge1$。従って $\|\chi\|=1$。$\square$
文字全体を使う Gelfand 変換は、可換 Banach 代数を関数の代数として調べる方法である。ただし、任意の可換 Banach 代数がその文字空間上の連続関数環とそのまま同型になるわけではない。例えば非零の冪零元を持つ Banach 代数では、全ての文字がその冪零元を零に送る。$C(K)$ では非零の冪零関数がないため、単純な同一視はできない。どの仮定で Gelfand 変換が十分な情報を保つかは別途調べる必要がある。
畳み込み代数 $\ell^1(\mathbb Z)$ では、単位円上の各 $z$ に対して
$$
\chi_z(a)=\sum_{n\in\mathbb Z}a_nz^n
$$
と置ける。$|z|=1$ なので級数は絶対収束し、$|\chi_z(a)|\le\|a\|_1$。畳み込みの定義に代入し、絶対収束する二重級数の順番を入れ替えると $\chi_z(a*b)=\chi_z(a)\chi_z(b)$ となる。したがって $\chi_z$ は文字であり、前の命題から $\chi_z(a)\in\sigma_{\ell^1(\mathbb Z)}(a)$ が分かる。列の Fourier 級数が、畳み込みの積を複素数の積へ変える仕組みである。
例えば $a$ が $a_0=2,\ a_1=-1$、ほかは零の列なら、$\chi_z(a)=2-z$ である。$|z|=1$ の全ての値 $2-z$ は $a$ のスペクトルに入る。この場合は逆元も級数で具体的に作れる。$\delta_n$ を第 $n$ 成分だけ1の列と書くと、$a=2\delta_0-\delta_1=2(\delta_0-\delta_1/2)$ で $\|\delta_1/2\|_1=1/2$ だから、Neumann 級数より
$$
a^{-1}=\frac12\sum_{n=0}^{\infty}2^{-n}\delta_n.
$$
畳み込みすると $a*a^{-1}=\delta_0$ になる。文字による値の計算と Neumann 級数による逆元の構成が、同じ代数の中でつながる。ただし一般の $\ell^1(\mathbb Z)$ の元について、スペクトルが Fourier 級数の値域と等しいと示すには、文字を全て分類する追加の議論が要る。ここで証明したのは値域がスペクトルに含まれるという方向である。
Banach 代数の議論では、環、ノルム、完備性の役割を分けると混乱が減る。$\|ab\|\le\|a\|\|b\|$ は積の連続性と冪の評価を与える。完備性は Neumann 級数の和を環の中に残し、そこから逆元の開性が出る。複素数体と複素解析はスペクトルの非空性に入る。可換性は文字の理論に重要だが、Neumann 級数やスペクトルの非空性には必要ない。
たとえば多項式環 $\mathbb C[z]$ に閉単位円板上の一様ノルムを入れると積の劣乗法性はあるが、完備ではない。$a(z)=z/2$ はノルムが $1/2<1$ なのに、形式上の逆元 $\sum_{n\ge0}(z/2)^n=1/(1-z/2)$ は多項式ではない。したがって多項式環の内部では $1-z/2$ は可逆でない。この反例は Neumann 級数の定理で完備性を省けないことを示す。収束先を含む Banach 代数へ移れば逆元が得られる。
別の注意は、$B(X)$ で積を作用素の合成とする順序である。非可換な積では $ab$ と $ba$ を入れ替えられない。式を使う際には型と順序を確かめ、逆元は左右両方の等式を満たすことを確認する。スペクトルも「可逆でない $\lambda1_A-a$」という定義に戻れば、行列、連続関数、無限次元の作用素を同じ言葉で比較できる。
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