ベクトル空間(vector space)とは、体 $K$ の上で、加法とスカラー倍が定められ、加法が可換群をなすこと、分配律、スカラー倍の結合律、$1x=x$ の 8 条件を満たす集合のことであり、線形空間ともいう。数ベクトルの空間 $K^n$ のほか、関数・数列・多項式・行列の全体や、体の拡大 $L/K$ の $L$ もベクトル空間であり、線形独立・基底・次元・線形写像の理論を一度に扱う枠組みを与える。零ベクトルと逆ベクトルは一意であり、$0x=0$、$(-1)x=-x$、「$ax=0$ ならば $a=0$ または $x=0$」が公理から従う。加法とスカラー倍について閉じた $0$ を含む部分集合が部分空間であり、部分空間の共通部分と和は部分空間だが和集合は一般に部分空間でない。
$K$ を体(たとえば実数全体 $\mathbb{R}$、複素数全体 $\mathbb{C}$、有理数全体 $\mathbb{Q}$)とする。集合 $V$ に、加法と呼ばれる写像 $V\times V\to V$、$(x,y)\mapsto x+y$ と、スカラー倍と呼ばれる写像 $K\times V\to V$、$(a,x)\mapsto ax$ が与えられ、次の 8 条件を満たすとき、$V$(正確には組 $(V,+,\cdot)$)を $K$ 上のベクトル空間(vector space)または $K$ 上の線形空間(linear space)という。$V$ の元をベクトル、$K$ の元をスカラー、$K$ を $V$ の係数体(基礎体)という。
条件 1 から 4 は「$V$ が加法についてAbel群である」ことを述べ、条件 5 から 8 は「$K$ の元がそのAbel群に、体の演算と両立する仕方で作用する」ことを述べる。係数体 $K$ は定義の一部であり、同じ集合 $V$ が異なる体の上のベクトル空間になることがある(ex-vector-space-field-extension)。係数体を明示して「$K$-ベクトル空間」ということもある。$K=\mathbb{R}$ のとき実ベクトル空間、$K=\mathbb{C}$ のとき複素ベクトル空間という。
$V$ を $K$ 上のベクトル空間とする。部分集合 $W\subset V$ が次の 3 条件を満たすとき、$W$ を $V$ の部分空間(線形部分空間、subspace)という。
$V$ を $K$ 上のベクトル空間とする。有限個のベクトル $v_1,\ldots,v_n\in V$ とスカラー $a_1,\ldots,a_n\in K$ から作られるベクトル
$$
a_1v_1+\cdots+a_nv_n
$$
を $v_1,\ldots,v_n$ の線形結合といい、$a_i$ をその係数という。部分集合 $S\subset V$ に対し、$S$ の有限個の元の線形結合全体の集合を $S$ の線形包(生成する部分空間)といい $\operatorname{span}(S)$ と書く。ただし $\operatorname{span}(\emptyset):=\{0\}$ と約束する(空和は零ベクトルとする)。$\operatorname{span}(S)=V$ のとき、$S$ は $V$ を生成するという。
ベクトル空間とは「足すことと定数倍することができ、その計算が数の計算と同じ規則に従う」対象の集まりである。高校で学ぶ平面や空間の矢印ベクトルは代表的な例だが、8 条件は矢印であることを何も要求していない。多項式、関数、数列、行列はいずれも足し算と定数倍ができ、同じ規則に従うので、すべてベクトルである。公理的に定義する利点は、これらに共通する議論(線形独立、基底、次元(ベクトル空間)、線形写像の理論)を一度に済ませられることにある。
8 条件は互いに独立な役割をもつ。条件 1 から 4 は加法だけに関する条件で、条件 5 から 8 は加法とスカラー倍の相互作用を定める。とくに条件 8 は落とせない。加法を通常どおりとし、スカラー倍を $ax:=0$(すべての $a$、$x$)と定めると条件 1 から 7 は満たされるが、$1x=0\ne x$ となり条件 8 だけが破れる。逆に、$0x=0$ や $(-1)x=-x$ のような「当然に見える」等式は公理に含まれておらず、公理から証明される(prop-vector-space-scalar-rules)。
正の整数 $n$ に対し、$K$ の元を $n$ 個並べた組全体
$$
K^n:=\{(x_1,\ldots,x_n)\mid x_1,\ldots,x_n\in K\}
$$
は、成分ごとの加法 $(x_i)+(y_i):=(x_i+y_i)$ とスカラー倍 $a(x_i):=(ax_i)$ によって $K$ 上のベクトル空間である。8 条件はいずれも各成分についての体 $K$ の等式に帰着する。たとえば条件 5 は $(a+b)x_i=ax_i+bx_i$ が $K$ で成り立つことから従う。零ベクトルは $(0,\ldots,0)$、$(x_i)$ の逆ベクトルは $(-x_i)$ である。$\mathbb{R}^2$、$\mathbb{R}^3$ は平面・空間の座標ベクトルの空間であり、$K^1=K$ は $K$ 自身を $K$ 上のベクトル空間とみたものである。Axl15
$S$ を任意の集合とし、$S$ から $K$ への写像全体を $K^S$ と書く。$f,g\in K^S$、$a\in K$ に対して
$$
(f+g)(s):=f(s)+g(s),\qquad (af)(s):=a\,f(s)\qquad(s\in S)
$$
と定めると、$K^S$ は $K$ 上のベクトル空間である(値ごとの計算で 8 条件が確かめられる。零ベクトルは定数関数 $0$)。$S=\{1,\ldots,n\}$ のときは $K^n$ にほかならず、$S=\mathbb{N}$ のときは $K$ の元の数列全体の空間である。$K=\mathbb{R}$、$S=[a,b]$ のとき、連続関数全体 $C([a,b])$ は $\mathbb{R}^{[a,b]}$ の部分空間である(連続関数の和と定数倍は連続で、定数関数 $0$ は連続)。Axl15
$K$ 係数の 1 変数多項式全体 $K[x]$ は、多項式の加法と定数倍によって $K$ 上のベクトル空間である(多項式環としての加法と、定数多項式の乗法をスカラー倍とみる)。自然数 $n$ に対し、次数が $n$ 以下の多項式全体
$$
K[x]_{\le n}:=\{a_0+a_1x+\cdots+a_nx^n\mid a_0,\ldots,a_n\in K\}
$$
は $K[x]$ の部分空間である。実際、零多項式は次数 $n$ 以下であり、次数 $n$ 以下の多項式の和と定数倍は次数 $n$ 以下である。一方、次数がちょうど $n$ の多項式全体は部分空間でない(rem-vector-space-counterexamples)。
体 $L$ が体 $K$ を部分体として含むとき(体の拡大 $L/K$)、$L$ は自身の加法と、$K$ の元による乗法をスカラー倍として、$K$ 上のベクトル空間である。8 条件は体 $L$ の公理の一部である。たとえば $\mathbb{C}$ は $\mathbb{R}$ 上のベクトル空間であり、$\mathbb{R}$ は $\mathbb{Q}$ 上のベクトル空間である。同じ集合 $\mathbb{C}$ は $\mathbb{C}$ 上のベクトル空間でもあるが、$\mathbb{R}$ 上と $\mathbb{C}$ 上では部分空間や次元が異なる($\mathbb{R}\subset\mathbb{C}$ は $\mathbb{R}$ 上の部分空間だが $\mathbb{C}$ 上の部分空間ではない。$i\cdot1=i\notin\mathbb{R}$ だからである)。Lan02
正の実数全体 $\mathbb{R}_{>0}$ に、加法を $x\oplus y:=xy$(通常の積)、スカラー倍を $a\odot x:=x^a$($a\in\mathbb{R}$)で定めると、$\mathbb{R}_{>0}$ は $\mathbb{R}$ 上のベクトル空間である。零ベクトルは $1$、$x$ の逆ベクトルは $1/x$ であり、条件 5 は $x^{a+b}=x^ax^b$、条件 6 は $(xy)^a=x^ay^a$、条件 7 は $x^{ab}=(x^b)^a$、条件 8 は $x^1=x$ という指数法則である。この例は、ベクトル空間の構造が集合の元の「見た目」ではなく演算の規則だけで決まることを示す。
$V$ を $K$ 上のベクトル空間とする。
1 を示す。$0$ と $0'$ がともに条件 3 を満たすとする。$0'$ について条件 3 を $x=0$ に使うと $0+0'=0$ であり、$0$ について条件 3 を $x=0'$ に使うと $0'+0=0'$ である。条件 2 により $0+0'=0'+0$ であるから $0=0'$ である。
3 を示す。$x+z=y+z$ とし、$z$ の逆ベクトル $z'$(条件 4)をとる。両辺に右から $z'$ を加えると、条件 1、条件 4、条件 3 により
$$
x=x+0=x+(z+z')=(x+z)+z'=(y+z)+z'=y+(z+z')=y+0=y
$$
となる。
2 を示す。$x'$ と $x''$ がともに $x+x'=0$、$x+x''=0$ を満たすとする。条件 2 により $x'+x=x''+x$ であるから、3 により $x'=x''$ である。$\square$
$V$ を $K$ 上のベクトル空間、$a\in K$、$x\in V$ とする。
1 を示す。体 $K$ で $0+0=0$ であるから、条件 5 により $0x=(0+0)x=0x+0x$ である。一方、条件 3 により $0x=0x+0$ である。よって $0x+0x=0x+0$ であり、条件 2 とprop-vector-space-uniquenessの 3(簡約律)により $0x=0$ である。
2 を示す。条件 3 により $0+0=0$(零ベクトル)であるから、条件 6 により $a0=a(0+0)=a0+a0$ である。1 と同様に簡約律により $a0=0$ である。
3 を示す。条件 5、条件 8、1 により
$$
x+(-1)x=1x+(-1)x=(1+(-1))x=0x=0
$$
であるから、$(-1)x$ は $x$ の逆ベクトルの条件を満たし、prop-vector-space-uniquenessの 2 により $(-1)x=-x$ である。次に、条件 5 と 1 により $ax+(-a)x=(a+(-a))x=0x=0$ であるから、同じく一意性により $(-a)x=-(ax)$ である。また条件 6 と 2 により $ax+a(-x)=a(x+(-x))=a0=0$ であるから $a(-x)=-(ax)$ である。
4 を示す。$ax=0$ かつ $a\ne0$ とする。$K$ は体であるから $a$ の逆元 $a^{-1}\in K$ が存在し、条件 8、条件 7、2 により
$$
x=1x=(a^{-1}a)x=a^{-1}(ax)=a^{-1}0=0
$$
である。$\square$
prop-vector-space-scalar-rulesの 1 から 3 は係数が体でなく環であっても同じ証明で成り立つが、4 は非零元が可逆であることを使っており、環上の加群では成り立たない。たとえば $\mathbb{Z}$ 上の加群 $\mathbb{Z}/2\mathbb{Z}$ では $2\cdot\bar1=\bar0$ だが $2\ne0$、$\bar1\ne\bar0$ である。線形代数の多くの定理(基底の存在、線形独立の同値条件など)がこの性質に依存する。
$V$ を $K$ 上のベクトル空間、$W\subset V$ を部分集合とする。次は同値である。
1 ならば 2。$0\in W$ より $W\ne\emptyset$ である。$x,y\in W$、$a,b\in K$ に対し、条件 3 により $ax,by\in W$ であり、条件 2 により $ax+by\in W$ である。
2 ならば 1。$W\ne\emptyset$ であるから $w\in W$ がとれ、$a=b=0$、$x=y=w$ として $0w+0w=0\in W$ である(prop-vector-space-scalar-rulesの 1)。$a=b=1$ とすれば $x+y\in W$、$b=0$ とすれば $ax\in W$ である。
1 ならば 3。条件 2、3 により加法とスカラー倍は $W$ に制限して $W\times W\to W$、$K\times W\to W$ の写像を定める。8 条件のうち、等式だけを主張する条件 1、2、5、6、7、8 は $V$ で成り立つので $W$ の元についても成り立つ。条件 3 は $0\in W$ から、条件 4 は $x\in W$ に対して $-x=(-1)x\in W$(prop-vector-space-scalar-rulesの 3 と条件 3)から従う。
3 ならば 1。仮定により $W$ は加法とスカラー倍について閉じている。$W$ の零ベクトル $0_W$ は $0_W+0_W=0_W$ を満たし、これは $V$ の等式でもあるから、$V$ で簡約律を使って $0_W=0$ である。よって $0\in W$ であり、$W$ は部分空間である。$\square$
$V$ を $K$ 上のベクトル空間とする。
1 を示す。すべての $i$ について $0\in W_i$ であるから $0\in\bigcap W_i$ である。$x,y\in\bigcap W_i$、$a\in K$ なら、各 $i$ について $x,y\in W_i$ であるから $x+y,ax\in W_i$ であり、したがって $x+y,ax\in\bigcap W_i$ である。
2 を示す。$0=0+0\in W_1+W_2$ である。$x_1+x_2,y_1+y_2\in W_1+W_2$($x_i,y_i\in W_i$)と $a\in K$ に対し、
$$
(x_1+x_2)+(y_1+y_2)=(x_1+y_1)+(x_2+y_2),\qquad a(x_1+x_2)=ax_1+ax_2
$$
であり(条件 1、2、6)、$x_i+y_i,ax_i\in W_i$ であるから、いずれも $W_1+W_2$ に属する。よって $W_1+W_2$ は部分空間である。$x_1=x_1+0$、$x_2=0+x_2$ により $W_1\cup W_2\subset W_1+W_2$ である。$W_1\cup W_2$ を含む部分空間 $U$ は加法について閉じているから、$x_1\in W_1\subset U$、$x_2\in W_2\subset U$ に対し $x_1+x_2\in U$ であり、$W_1+W_2\subset U$ である。
3 を示す。$W_1\subset W_2$ なら $W_1\cup W_2=W_2$ は部分空間であり、$W_2\subset W_1$ の場合も同様である。逆に $W_1\cup W_2$ が部分空間で、$W_1\not\subset W_2$ かつ $W_2\not\subset W_1$ と仮定する。$x_1\in W_1\setminus W_2$、$x_2\in W_2\setminus W_1$ をとると $x_1+x_2\in W_1\cup W_2$ である。もし $x_1+x_2\in W_1$ なら $x_2=(x_1+x_2)-x_1\in W_1$ となり矛盾し、$x_1+x_2\in W_2$ なら $x_1=(x_1+x_2)-x_2\in W_2$ となり矛盾する。よって $W_1\subset W_2$ または $W_2\subset W_1$ である。$\square$
$V$ を $K$ 上のベクトル空間、$S\subset V$ を部分集合とする。$\operatorname{span}(S)$ は $S$ を含む $V$ の部分空間であり、$S$ を含む任意の部分空間 $U$ について $\operatorname{span}(S)\subset U$ が成り立つ。すなわち $\operatorname{span}(S)$ は $S$ を含む部分空間すべての共通部分に等しい。Axl15
$S=\emptyset$ のときは $\operatorname{span}(S)=\{0\}$ であり主張は明らかである。$S\ne\emptyset$ とする。$s\in S$ に対し $s=1s\in\operatorname{span}(S)$ であるから $S\subset\operatorname{span}(S)$ であり、とくに $\operatorname{span}(S)\ne\emptyset$ である。$x=\sum_{i=1}^{m}a_is_i$、$y=\sum_{j=1}^{n}b_jt_j$($s_i,t_j\in S$)と $a,b\in K$ に対し、
$$
ax+by=\sum_{i=1}^{m}(aa_i)s_i+\sum_{j=1}^{n}(bb_j)t_j
$$
は $S$ の有限個の元の線形結合であるから $\operatorname{span}(S)$ に属する(条件 6、7 と、必要なら同じベクトルの係数をまとめる条件 5 を使う)。prop-vector-space-subspace-criterionの 2 により $\operatorname{span}(S)$ は部分空間である。
$U$ を $S$ を含む部分空間とする。$s_1,\ldots,s_n\in S\subset U$ と $a_1,\ldots,a_n\in K$ に対し、$U$ はスカラー倍と加法について閉じているから、$n$ についての帰納法により $a_1s_1+\cdots+a_ns_n\in U$ である。よって $\operatorname{span}(S)\subset U$ である。最後の主張は、$\operatorname{span}(S)$ 自身が $S$ を含む部分空間の 1 つであることと、prop-vector-space-intersection-sumの 1 から従う。$\square$
ベクトル空間の理論の次の段階は、生成系の中の冗長さを測る線形独立、冗長でない生成系である基底とその元の個数である次元(ベクトル空間)、および構造を保つ写像である線形写像である。基底の存在(有限生成の場合の証明と、一般の場合のZornの補題への帰着)と次元が基底の取り方によらないことは 基底と次元 の記事が、部分空間の基底の延長・次元定理・表現行列は 線形代数学 の記事が扱う。2 つの部分空間 $W_1,W_2$ が $W_1\cap W_2=\{0\}$ を満たすときの和 $W_1+W_2$ を直和 $W_1\oplus W_2$ といい、このとき各元の分解 $x=x_1+x_2$ は一意である。
線形代数学では linear の訳語として「線形」と「線型」がともに使われるが、本サイトでは「線形」に統一する。「ベクトル空間」と「線形空間」は同じ概念の 2 つの呼び名である。係数を体から環 $R$ に広げたものが $R$ 上の加群であり、体上の加群がベクトル空間にほかならない。加群では非零スカラーが可逆でないため、rem-vector-space-field-roleで述べたように基底の存在などが失われ、その差を調べることが加群の理論とホモロジー代数の出発点になる。無限次元のベクトル空間にノルムや内積による位相を加えて調べる分野が関数解析であり、Banach空間・Hilbert空間がその中心的な対象である。ベクトル空間の公理的な扱いは Axl15 第 1 章、Lan02 第 III 章 §5 による。
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