Ricci極限空間(Ricci limit space)とは、次元 $n$ と Ricci 曲率の下界 $(n-1)\kappa$ を固定した完備 Riemann 多様体の列の、基点付き Gromov–Hausdorff 極限として得られる距離空間のことである。Bishop–Gromov の体積比較定理から、直径も抑えた閉多様体の族は Gromov–Hausdorff 距離についてプレコンパクトになり、収束する部分列が必ずある。極限は一般に多様体でなく、平坦トーラスの潰れのように次元が下がることもある。Cheeger–Colding の理論により、体積が潰れない極限では接錐が距離錐になり、特異集合の Hausdorff 次元は $n-2$ 以下である。
前提知識: Gromov-Hausdorff距離, Riemann多様体, リッチテンソル, 全有界
Ricci極限空間(Ricci limit space)とは、次元 $n$ と Ricci 曲率の下界を固定した Riemann 多様体の列の Gromov–Hausdorff 極限として得られる距離空間のことである。次元と Ricci 曲率の下界を固定した閉多様体の族は、直径を抑えれば Gromov–Hausdorff 距離についてプレコンパクトであり(Gromov のプレコンパクト性定理)、列は必ず収束する部分列をもつ。その極限は一般に多様体ではなく、次元が下がる「潰れ」も起こる。
Ricci 極限空間の研究は、極限に現れうる特異点を調べることで、もとの多様体の族について一様な情報を得ることを目指す。Cheeger と Colding は、極限の各点での「接錐」が、体積が潰れない場合には距離錐になること、特異点の集合が小さいことなどを示した。
この記事では、Ricci 極限空間を定義し、Bishop–Gromov の体積比較定理から Gromov のプレコンパクト性定理を導き、潰れの例と、仮定を一つずつ外すとプレコンパクト性が破れる例を証明つきで示す。そのうえで、極限空間の構造について知られている主な結果を、出典を付けて紹介する。
$\kappa\in\mathbb{R}$、$n\ge2$ とする。連結な Riemann 多様体 $(M,g)$ の Ricci 曲率が $(n-1)\kappa$ 以上であるとは、すべての単位接ベクトル $v$ について $\operatorname{Ric}(v,v)\ge(n-1)\kappa$ となることをいい、$\operatorname{Ric}_M\ge(n-1)\kappa$ と書く(リッチテンソル)。$M$ の Riemann 距離による開球を $B_r(p)$、その体積を $\operatorname{Vol}B_r(p)$ と書く。断面曲率が一定値 $\kappa$ の単連結な完備 $n$ 次元 Riemann 多様体(球面・Euclid 空間・双曲空間)の半径 $r$ の球の体積を $V_\kappa(r)$ と書く。$\kappa>0$ で $r\ge\pi/\sqrt\kappa$ のときは $V_\kappa(r)$ は球面全体の体積である。
閉じた(コンパクトで境界のない)連結 Riemann 多様体は、Riemann 距離によりコンパクト距離空間になる。そこで Gromov–Hausdorff 距離 $d_{GH}$ とその収束は Gromov-Hausdorff距離 の定義のとおりに使う。コンパクトでない空間には、基点を固定して、各半径の閉球の Gromov–Hausdorff 収束を考える。
閉球がすべてコンパクトな距離空間 $X_i$ とその点 $x_i$ の列 $(X_i,x_i)$ が $(X,x)$ に基点付き Gromov–Hausdorff 収束するとは、すべての $r>0$ について、閉球 $\overline B_r(x_i)$ が $\overline B_r(x)$ に Gromov–Hausdorff 収束することをいう(Col98 p. 300 の定義)。
$n\ge2$ と $\kappa\in\mathbb{R}$ を固定する。完備な連結 $n$ 次元 Riemann 多様体と点の列 $(M_i,p_i)$ で $\operatorname{Ric}_{M_i}\ge(n-1)\kappa$ を満たすものが、距離空間と点 $(X,x)$ に基点付き Gromov–Hausdorff 収束するとき、$X$ を Ricci 極限空間という。ある $v>0$ について $\operatorname{Vol}B_1(p_i)\ge v$ がすべての $i$ で成り立つとき、列は潰れない(non-collapsing)といい、そうでないとき(部分列で $\operatorname{Vol}B_1(p_i)\to0$ となるとき)、列は潰れるという。$M_i$ が閉多様体のときは、$d_{GH}(M_i,X)\to0$ となるコンパクト距離空間 $X$ も Ricci 極限空間と呼ぶ。
Ricci 曲率の下界は、測地線の束が「広がりすぎない」ことを意味し、その結果として球の体積が半径の関数として抑えられる(体積比較定理)。体積が抑えられると、互いに離れた点を詰め込める個数が多様体によらずに抑えられる。これが Gromov–Hausdorff 距離についての一様な全有界性であり、極限の存在を保証する。
しかし距離だけを見ると、細い方向が縮んで消える(潰れる)ことや、円錐の頂点のような尖りができることを防げない。Ricci 極限空間の理論は、Ricci 曲率の下界という比較的弱い仮定の下で、極限の特異点がどの程度に制御されるかを明らかにする。断面曲率の下界を仮定すると、極限は Alexandrov空間 になり、三角形の比較による幾何がそのまま使える。Ricci 曲率の下界だけではそのような比較はなく、体積と調和関数を使った解析的な議論が中心になる。
$(M,g)$ を完備な連結 $n$ 次元 Riemann 多様体とし、$\operatorname{Ric}_M\ge(n-1)\kappa$ とする。各点 $p\in M$ について、関数 $r\mapsto\operatorname{Vol}B_r(p)/V_\kappa(r)$ は $r>0$ で単調非増加であり、$r\to0$ で $1$ に近づく(Lee18 Theorem 11.19、p. 340。この記事では証明しない)。
$M$ を閉じた連結 $n$ 次元 Riemann 多様体とし、$\operatorname{Ric}_M\ge(n-1)\kappa$、$\operatorname{diam}M\le D$($D>0$)とする。$0<\varepsilon\le D$ について、$M$ の点で互いの距離が $\varepsilon$ 以上のものは高々
$$
N(n,\kappa,D,\varepsilon):=\frac{V_\kappa(2D)}{V_\kappa(\varepsilon/2)}
$$
個である。したがって $M$ は高々 $N(n,\kappa,D,\varepsilon)$ 個の点からなる $\varepsilon$-ネットをもつ。
$x_1,\dots,x_N$ を互いの距離が $\varepsilon$ 以上の点とする。三角不等式により開球 $B_{\varepsilon/2}(x_j)$ は互いに交わらない。$\operatorname{diam}M\le D< 2D$ なので $B_{2D}(x_j)=M$ であり、thm-rls-bishop-gromov を半径 $\varepsilon/2\le2D$ に当てると
$$
\operatorname{Vol}B_{\varepsilon/2}(x_j)\ge\frac{V_\kappa(\varepsilon/2)}{V_\kappa(2D)}\operatorname{Vol}B_{2D}(x_j)=\frac{V_\kappa(\varepsilon/2)}{V_\kappa(2D)}\operatorname{Vol}M
$$
である。$j$ について和をとると、交わらない球の体積の和は $\operatorname{Vol}M$ 以下なので、$N\cdot V_\kappa(\varepsilon/2)/V_\kappa(2D)\le1$ を得る。
後半:互いの距離が $\varepsilon$ 以上の点の集合で、点の個数が最大のものをとる(個数は上の評価で有界)。$M$ の任意の点 $y$ について、$y$ を加えると性質が崩れるので、$y$ から距離 $\varepsilon$ 未満にこの集合の点がある。よってこの集合は $\varepsilon$-ネットである。$\square$
$n\ge2$、$\kappa\in\mathbb{R}$、$D>0$ を固定し、$\operatorname{Ric}\ge(n-1)\kappa$ と $\operatorname{diam}\le D$ を満たす閉じた連結 $n$ 次元 Riemann 多様体の等長類の全体を $\mathfrak{M}(n,\kappa,D)$ とする。$\mathfrak{M}(n,\kappa,D)$ はコンパクト距離空間の等長類の空間 $(\mathcal{M},d_{GH})$ でプレコンパクトである。特に、$\mathfrak{M}(n,\kappa,D)$ の任意の列は、あるコンパクト距離空間に Gromov–Hausdorff 収束する部分列をもち、その極限はコンパクトな Ricci 極限空間である。
$\mathfrak{M}(n,\kappa,D)$ のどの元も直径が $D$ 以下で、lem-rls-packing により、各 $\varepsilon\in(0,D]$ について高々 $N(n,\kappa,D,\varepsilon)$ 個の点からなる $\varepsilon$-ネットをもつ($\varepsilon>D$ なら 1 点が $\varepsilon$-ネットである)。この個数は多様体によらないので、族は一様に全有界である。Gromov-Hausdorff距離 の定理「Gromov のプレコンパクト性定理」により、族は $(\mathcal{M},d_{GH})$ でプレコンパクト、すなわち閉包がコンパクトである。コンパクト距離空間では任意の列が収束する部分列をもつので、後半の主張が従う。極限が Ricci 極限空間であることは定義そのものである。$\square$
直径の上界を外し、完備な $n$ 次元 Riemann 多様体と点の任意の列 $(M_i,p_i)$ で $\operatorname{Ric}_{M_i}\ge(n-1)\kappa$ を満たすものを考えると、基点付き Gromov–Hausdorff 収束する部分列があり、極限は長さ空間(長さ空間)である(Col98 p. 301。この記事では証明しない)。証明の骨格は上と同じで、thm-rls-bishop-gromov から各半径の閉球の族が一様に全有界になることを示し、閉球ごとの収束を対角線論法でまとめる(Gro81 §6 の「コンパクト性の判定法」、pp. 64–65)。
$0<\varepsilon\le1$ について平坦トーラス $T_\varepsilon:=\mathbb{R}^2/(\mathbb{Z}\times\varepsilon\mathbb{Z})$ に $\mathbb{R}^2$ の Euclid 計量から誘導される計量を入れる。$T_\varepsilon$ の Ricci 曲率は $0$ で、直径は $\frac12\sqrt{1+\varepsilon^2}\le1$ なので $T_\varepsilon\in\mathfrak{M}(2,0,1)$ である。$\varepsilon\to0$ のとき $T_\varepsilon$ は長さ $1$ の円周 $C:=\mathbb{R}/\mathbb{Z}$ に Gromov–Hausdorff 収束し、$d_{GH}(T_\varepsilon,C)\le\varepsilon/4$ である。直径が $1$ 未満なので半径 $1$ の球は $T_\varepsilon$ 全体であり、その面積 $\varepsilon$ は $0$ に近づくので、この列は潰れる。
$T_\varepsilon$ の 2 点 $(a,b)$、$(a',b')$ の距離は、Euclid 距離 $|(a-a'-k,\ b-b'-\varepsilon l)|$ の $(k,l)\in\mathbb{Z}^2$ にわたる最小値であり、二つの座標の最小化は独立にできるので
$$
d\bigl((a,b),(a',b')\bigr)=\sqrt{d_C(a,a')^2+d_{C_\varepsilon}(b,b')^2}
$$
である。ここで $C_\varepsilon:=\mathbb{R}/\varepsilon\mathbb{Z}$ は長さ $\varepsilon$ の円周、$d_C,d_{C_\varepsilon}$ はそれぞれの距離で、$\operatorname{diam}C_\varepsilon=\varepsilon/2$ である。すなわち $T_\varepsilon$ は $C\times C_\varepsilon$ に積の距離を入れたものであり、Gromov-Hausdorff距離 の例「有限集合による近似と潰れる方向」の 2 により $d_{GH}(T_\varepsilon,C)\le\frac12\operatorname{diam}C_\varepsilon=\varepsilon/4$ となる。直径は $d_C\le1/2$、$d_{C_\varepsilon}\le\varepsilon/2$ から従う。$\square$
同じ議論で、Ricci 曲率が $0$ 以上の積 $S^2\times C_\varepsilon$($S^2$ は単位球面)は、$\varepsilon\to0$ で $S^2$ に Gromov–Hausdorff 収束する(距離 $\varepsilon/4$ 以下)。3 次元の多様体の列の極限が 2 次元の多様体になる。潰れる極限では、極限の次元はもとの次元より下がりうる。
$k\ge1$ について、$\mathbb{R}^3$ の単位球に、互いに離れた $k$ 個の方向へ、半径の小さい長さ $1$ の円柱(指)を付けて角を滑らかにした立体の境界を $\Sigma_k$ とし、$\mathbb{R}^3$ から誘導される Riemann 計量を入れる。$\Sigma_k$ は閉じた連結な 2 次元 Riemann 多様体で、指を細くとれば直径は $k$ によらない定数 $D$ 以下にできる。しかし族 $\{\Sigma_k\}$ は $(\mathcal{M},d_{GH})$ でプレコンパクトでない。
指 $j$ の先端の点を $q_j$ とする。指 $j$ の円柱の部分で、滑らかにした箇所より先端側にある断面の円を付け根の円とすると、付け根の円は $\Sigma_k$ を二つに分け、先端を含む側は指 $j$ の中にあるので、$q_i$ から $q_j$($i\neq j$)への曲線は指 $i$ の付け根の円と指 $j$ の付け根の円を通る。$\Sigma_k$ 上の曲線の長さは $\mathbb{R}^3$ での長さ以上で、先端から付け根の円までの $\mathbb{R}^3$ での距離は(滑らかにする分を小さくとれば)$1/2$ 以上なので、$d(q_i,q_j)\ge1$ である。$\Sigma_k$ の $1/3$-ネットの点は、高々一つの $q_j$ から距離 $1/3$ 以下にしかない(二つあれば $d(q_i,q_j)\le 2/3$)。よって $1/3$-ネットは $k$ 個以上の点を要し、族は一様に全有界でない。Gromov-Hausdorff距離 の定理「Gromov のプレコンパクト性定理」の同値性により、族はプレコンパクトでない。$\square$
thm-rls-precompact の仮定(次元 $n$ の固定・Ricci 曲率の下界・直径の上界)を一つずつ外すと、結論が成り立たなくなる。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| 直径の上界 $D$ | 半径 $k$ の球面 $kS^2$($\operatorname{Ric}\ge0$) | 直径 $k\pi\to\infty$ なので収束する部分列がない |
| Ricci 曲率の下界 | 指を $k$ 本付けた曲面 $\Sigma_k$(ex-rls-no-ricci) | 直径は有界だが一様に全有界でなく、プレコンパクトでない |
| 次元 $n$ の固定 | 単位球面 $S^n$($n=2,3,\dots$。$\operatorname{Ric}=n-1\ge0$、直径 $\pi$) | 一様に全有界でなく、収束する部分列がない |
1 行目:$|\operatorname{diam}X-\operatorname{diam}Y|\le2d_{GH}(X,Y)$(Gromov-Hausdorff距離 の命題「直径の評価」)なので、Gromov–Hausdorff 収束する列の直径は有界である。
3 行目:$S^n\subset\mathbb{R}^{n+1}$ の $2n+2$ 個の点 $\pm e_1,\dots,\pm e_{n+1}$ は、球面上の距離で互いに $\pi/2$ 以上離れている。$\pi/5$-ネットの各点から距離 $\pi/5$ 以下にあるのは高々一つの $\pm e_i$ なので、ネットは $2n+2$ 個以上の点を要する。どの部分列も一様に全有界でないので、Gromov–Hausdorff 距離について収束しない(収束列の集合はプレコンパクトだから)。$\square$
ここからは、極限空間の構造について知られている主な結果を、言葉の定義とともに述べる。証明はどれも長く、この記事では証明しない。
$X$ を Ricci 極限空間、$x\in X$ とする。
接錐は、rem-rls-pointed-compactness の基点付きプレコンパクト性により、すべての点に存在する(Col98 p. 303)。
$X$ を、$\operatorname{Ric}\ge(n-1)\kappa$ を満たす完備な $n$ 次元 Riemann 多様体の列 $(M_i,p_i)$ の基点付き Gromov–Hausdorff 極限とする。
thm-rls-bishop-gromov により $\operatorname{Vol}B_r(y_i)/\operatorname{Vol}B_1(p_i)$ は $i$ によらない正の数で下から抑えられるので、$\nu$ はどの球にも正の値をとる。したがって 5 から正則点は $X$ で稠密である。さらに Colding と Naber は、潰れる場合も含めて、ただ一つの $k$ があって $\nu$ について $X$ のほとんどすべての点が $k$-正則点であること、すなわち極限空間の「次元」が場所によらずに定まることと、$X$ の等長変換群が Lie 群であることを示した(CN12 Theorem 1.12(p. 9)・Theorem 1.14(p. 11)。この記事では証明しない)。ex-rls-collapse-torus の極限 $C$ ではこの $k$ は $1$ であり、もとの次元 $2$ より小さい。
Mathpediaは寄付と、参考文献の書籍リンク(Amazonアソシエイト)の紹介料で運営されています。 支援について / 寄付する