深谷圏(Fukaya category)とは、シンプレクティック多様体の Lagrange 部分多様体を対象とし、交点が生成する Floer 複体を射の空間とし、境界が Lagrange 部分多様体に乗る擬正則な多角形を数える演算 $\mu^k$ を合成とする $A_\infty$ 圏である。合成 $\mu^2$ は $\mu^3$ をホモトピーとして結合的で、コホモロジーに移ると通常の圏になる。深谷賢治が導入し、Kontsevich はミラー対称性を深谷圏と連接層の導来圏の同値として定式化した(ホモロジー的ミラー対称性予想)。
前提知識: Floer理論, Lagrange部分多様体, シンプレクティック多様体, 鎖複体
深谷圏(Fukaya category)は、シンプレクティック多様体 $(M,\omega)$ の Lagrange部分多様体を対象とし、2 つの Lagrange 部分多様体の交点が生成する Floer 複体を射の空間とする圏である。射の合成は、境界が Lagrange 部分多様体に乗る擬正則な多角形(境界に $k+1$ 個の角をもつ円板)を数えて定める演算 $\mu^k$ で与えられ、合成は結合法則をホモトピーを除いてしか満たさない。そのため深谷圏は通常の圏ではなく、高次の演算 $\mu^1,\mu^2,\mu^3,\dots$ の組をもつ $A_\infty$ 圏として定義される。
この構成は深谷賢治(Kenji Fukaya)による(Kon95 pp. 16–17)。Kontsevich は 1994 年に、ミラー対称性を「シンプレクティック多様体の深谷圏から作った導来圏と、ミラーの複素多様体の連接層の導来圏の同値」として定式化するホモロジー的ミラー対称性予想を提出した(Kon95 p. 18)。
この記事は分野の案内である。まず $A_\infty$ 圏を定義し、そのコホモロジーが(単位元を除いて)通常の圏になることを証明する。次に Lagrange Floer コホモロジーと深谷圏の定義を述べ、交点の個数の下界を導く。最後にホモロジー的ミラー対称性と学ぶ順を示す。擬正則円板のモジュライ空間の横断性とコンパクト化は深い問題で、この記事では証明しない。
$K$ を体とし、次数付きベクトル空間の斉次元 $a$ の次数を $\lvert a\rvert$ と書く。
$A_\infty$ 圏 $\mathcal A$ は、対象の集まりと、対象の組 $(X,Y)$ ごとの $\mathbb Z$ 次数付き $K$ ベクトル空間 $\hom(X,Y)$、および $k\ge1$ ごとの次数 $2-k$ の $K$ 多重線形写像
$$
\mu^k\colon\hom(X_{k-1},X_k)\otimes\cdots\otimes\hom(X_0,X_1)\to\hom(X_0,X_k)
$$
の組で、すべての $k\ge1$ と斉次元 $a_1,\dots,a_k$($a_i\in\hom(X_{i-1},X_i)$)について
$$
\sum_{\ell=1}^{k}\sum_{j=0}^{k-\ell}(-1)^{\maltese_j}\mu^{k+1-\ell}\bigl(a_k,\dots,a_{j+\ell+1},\mu^\ell(a_{j+\ell},\dots,a_{j+1}),a_j,\dots,a_1\bigr)=0,\qquad\maltese_j:=\sum_{i=1}^{j}(\lvert a_i\rvert-1)
$$
($A_\infty$ 関係式)を満たすものである。
(Aur13 命題 2.7 の (2.7)、p. 21。そこでの符号 $(-1)^{j+\deg a_1+\dots+\deg a_j}$ は $(-1)^{\maltese_j}$ と同じである。)微分次数付き圏(DG圏)の微分 $d$ と合成 $a_2a_1$ から $\mu^1(a):=(-1)^{\lvert a\rvert}da$、$\mu^2(a_2,a_1):=(-1)^{\lvert a_1\rvert}a_2a_1$、$\mu^k:=0$($k\ge3$)とおくと、$A_\infty$ 圏が得られる($k=1,2,3$ の関係式は Leibniz 則と結合法則から直接確かめられ、$k\ge4$ では全項が $0$)。
$k=1,2,3$ の関係式を書き出しておく。$k=1$ では $\mu^1(\mu^1(a_1))=0$ で、各 $\hom(X,Y)$ は $\mu^1$ を微分とする複体になる。$k=2$ では
$$
\mu^1\mu^2(a_2,a_1)+(-1)^{\lvert a_1\rvert-1}\mu^2(\mu^1a_2,a_1)+\mu^2(a_2,\mu^1a_1)=0
$$
(Leibniz 則)、$k=3$ では、$\mu^1a_i=0$ のとき
$$
\mu^2\bigl(a_3,\mu^2(a_2,a_1)\bigr)-(-1)^{\lvert a_1\rvert}\mu^2\bigl(\mu^2(a_3,a_2),a_1\bigr)=-\mu^1\mu^3(a_3,a_2,a_1)
$$
である($\mu^1$ を含む他の項は消える)。後者は「$\mu^2$ は $\mu^3$ をホモトピーとして結合的である」ことを表すので、ホモトピー結合法則と呼んでおく。
$A_\infty$ 圏 $\mathcal A$ について、対象は $\mathcal A$ と同じで、射の空間を $\mu^1$ のコホモロジー $H(\hom(X,Y))$ とし、合成を
$$
[a_2]\circ[a_1]:=(-1)^{\lvert a_1\rvert}\bigl[\mu^2(a_2,a_1)\bigr]
$$
で定めると、これは代表元によらず定まり、結合的で次数を保つ。こうして得られる(恒等射をもつとは限らない)次数付き圏を $H(\mathcal A)$ と書き、コホモロジー圏という。
定まること。 $a_1,a_2$ が $\mu^1$ の余輪体なら、Leibniz 則より $\mu^1\mu^2(a_2,a_1)=0$ で、$\mu^2(a_2,a_1)$ も余輪体である。$a_1=\mu^1b$ なら、Leibniz 則を $(a_2,b)$ に使うと $\mu^1a_2=0$ から $\mu^2(a_2,\mu^1b)=-\mu^1\mu^2(a_2,b)$ で、これは余境界である。$a_2=\mu^1c$ で $a_1$ が余輪体なら、Leibniz 則を $(c,a_1)$ に使うと $\mu^2(\mu^1c,a_1)=(-1)^{\lvert a_1\rvert}\mu^1\mu^2(c,a_1)$ で、これも余境界である。$\mu^2$ は双線形なので、余境界の差を加えても類は変わらない。$\mu^2$ の次数は $0$ なので、$\lvert\mu^2(a_2,a_1)\rvert=\lvert a_1\rvert+\lvert a_2\rvert$ で、合成は次数を保つ。
結合法則。 余輪体 $a_1,a_2,a_3$ について、定義から
$$
([a_3]\circ[a_2])\circ[a_1]=(-1)^{\lvert a_1\rvert+\lvert a_2\rvert}\bigl[\mu^2(\mu^2(a_3,a_2),a_1)\bigr],
$$
$$
[a_3]\circ([a_2]\circ[a_1])=(-1)^{\lvert a_1\rvert}(-1)^{\lvert a_1\rvert+\lvert a_2\rvert}\bigl[\mu^2(a_3,\mu^2(a_2,a_1))\bigr]=(-1)^{\lvert a_2\rvert}\bigl[\mu^2(a_3,\mu^2(a_2,a_1))\bigr].
$$
ホモトピー結合法則の右辺は余境界なので $[\mu^2(a_3,\mu^2(a_2,a_1))]=(-1)^{\lvert a_1\rvert}[\mu^2(\mu^2(a_3,a_2),a_1)]$。これを代入すると 2 つの式は一致する。$\square$
$H(\mathcal A)$ が各対象に恒等射をもつとき、$\mathcal A$ はコホモロジー的に単位的(c-unital)であるという。深谷圏はこの意味で単位的だが、鎖の段階では一般に単位元をもたない(Aur13 p. 22)。$A_\infty$ 圏の情報は $H(\mathcal A)$ だけでは失われ、写像錐や生成元を扱うには鎖の段階の $A_\infty$ 構造が必要になる(同 注意 2.10、p. 23 と §3)。
$(M,\omega)$ を、コンパクトであるか無限遠で適当に振る舞うシンプレクティック多様体とし、$L_0,L_1$ を横断的に交わるコンパクトな Lagrange 部分多様体とする。係数には、体 $K$ 上の Novikov 体
$$
\Lambda:=\Bigl\{\sum_{i=0}^\infty a_iT^{\lambda_i}\Bigm| a_i\in K,\ \lambda_i\in\mathbb R,\ \lambda_i\to+\infty\Bigr\}
$$
を使う。Floer 複体 $CF(L_0,L_1)$ は交点 $p\in L_0\cap L_1$ を基底とする $\Lambda$ ベクトル空間で、微分 $\mu^1$ は、$p$ と $q$ を結び境界が $L_0$、$L_1$ に乗る擬正則な帯 $u\colon\mathbb R\times[0,1]\to M$ のうち指数 $1$ のものを、面積 $\omega(u)$ の重み $T^{\omega(u)}$ を付けて数える:
$$
\mu^1(p)=\sum_q\sum_{[u]:\,\mathrm{ind}[u]=1}\#\mathcal M(p,q;[u],J)\,T^{\omega([u])}\,q
$$
(Aur13 定義 1.3–1.4、pp. 3–5)。これは Floer理論 の Lagrange Floer の行にあたり、作用汎関数の勾配流線が擬正則な帯であることに対応する。
$[\omega]$ が $\pi_2(M,L_0)$ と $\pi_2(M,L_1)$ の上で $0$ であるとする($\operatorname{char}K\ne2$ なら $L_0,L_1$ に向きとスピン構造も課す)。このとき $\mu^1$ は定まり、$\mu^1\circ\mu^1=0$ を満たす。そのコホモロジー $HF(L_0,L_1)$ は、同型を除いて概複素構造によらず、$L_0$ や $L_1$ の Hamilton イソトピーで変わらない。さらに $[\omega]$ が $\pi_2(M,L)$ の上で $0$ なら $HF(L,L)\cong H^*(L;\Lambda)$ である。
前半は Aur13 定理 1.5(p. 5)で、$K=\mathbb Z/2$ の場合は Floer による。後半は同 命題 1.13(p. 14)で、完全な場合で $K=\mathbb Z/2$ のときは Floer による。この記事では証明しない。仮定は、境界が $L_i$ に乗る擬正則円板の泡立ちを防ぐためのもので、外すと $\mu^1\circ\mu^1=0$ が崩れる(下の反例の表)。後半の証明は、$L$ を小さな Morse 関数のグラフへ Hamilton 変形すると、帯の数え上げが Morse 複体の勾配流線の数え上げに一致することによる(同 例 1.12、pp. 13–14)。
$K=\mathbb Z/2$ とする。コンパクトな Lagrange 部分多様体 $L$ について $[\omega]$ が $\pi_2(M,L)$ の上で $0$ であり、Hamilton 同相写像 $\phi$ について $\phi(L)$ と $L$ が横断的に交わるならば
$$
\#\bigl(L\cap\phi(L)\bigr)\ge\sum_i\dim_{\mathbb Z/2}H^i(L;\mathbb Z/2).
$$
$C:=CF(L,\phi(L))$ の $\Lambda$ 上の次元は交点の個数である。有限次元の複体では $\dim H(C)=\dim\ker\mu^1-\dim\operatorname{im}\mu^1\le\dim\ker\mu^1\le\dim C$ である(Floer理論 の補題「鎖複体の次元とホモロジーの次元」の、次数を考えない形)。thm-fk-floer より $H(C)=HF(L,\phi(L))\cong HF(L,L)\cong H^*(L;\Lambda)$ で、体の拡大 $\mathbb Z/2\subset\Lambda$ について普遍係数定理から $H^*(L;\Lambda)\cong H^*(L;\mathbb Z/2)\otimes\Lambda$ なので、その $\Lambda$ 上の次元は右辺に等しい。$\square$
(Aur13 定理 1.1、p. 2。)$\phi$ が Hamilton 同相写像であることと、$L$ が正の面積の円板を張らないことは、どちらも外せない(同 例 1.2、p. 2)。
$M=\mathbb R\times S^1=T^*S^1$、$L$ を零切断とし、$S^1$ 上の Morse 関数 $f$(最大点 $p$、最小点 $q$)の微分の小さな定数倍のグラフを $\phi(L)$ とする。$L\cap\phi(L)=\{p,q\}$ で、$p$ から $q$ への指数 1 の帯は面積の等しい 2 本であり、その寄与は打ち消し合う($K=\mathbb Z/2$ では明らか)。よって $\mu^1=0$、$HF(L,\phi(L))\cong\Lambda^2\cong H^*(S^1;\Lambda)$ で、cor-fk-arnold の下界 $2$ が等号で実現される(Aur13 例 1.14、p. 14)。
$k\ge1$ と Lagrange 部分多様体 $L_0,\dots,L_k$、交点 $p_i\in L_{i-1}\cap L_i$、$q\in L_0\cap L_k$ について、境界に $k+1$ 個の角をもつ円板からの擬正則写像で、角が $p_1,\dots,p_k,q$ に写り、角の間の境界の弧が順に $L_0,\dots,L_k$ に乗るものを考える。その指数 $2-k$ のものを面積の重みつきで数えて
$$
\mu^k(p_k,\dots,p_1):=\sum_q\sum_{[u]:\,\mathrm{ind}[u]=2-k}\#\mathcal M(p_1,\dots,p_k,q;[u],J)\,T^{\omega([u])}\,q
$$
と定める(Aur13 定義 2.4 と (2.5)–(2.6)、p. 19)。$k=1$ は Floer の微分、$k=2$ は三角形を数える積である。
$2c_1(TM)=0$ のシンプレクティック多様体 $(M,\omega)$ の(コンパクトな)深谷圏 $\mathcal F(M,\omega)$ は、次の $A_\infty$ 圏である。
(Aur13 定義 2.9、p. 22。)$A_\infty$ 関係式は、指数 $3-k$ の 1 次元のモジュライ空間の境界が「帯が分かれる」か「円板が 2 つに分かれる」かのどちらかであることから従う(同 命題 2.7、p. 21)。こうして $\mathcal F(M,\omega)$ は $\Lambda$ 上の $\mathbb Z$ 次数付き $A_\infty$ 圏で、コホモロジー的に単位的である。摂動のデータを替えても、得られる圏はコホモロジーで同値になる関手で結ばれる(同 p. 22)。thm-fk-cohomology-category のコホモロジー圏 $H(\mathcal F(M,\omega))$ は、射が $HF(L,L')$、合成が三角形を数える積の圏で、Donaldson–深谷圏と呼ばれることがある(同 注意 2.10、p. 23)。
$2c_1(TM)=0$ や Maslov 類の仮定を外せば $\mathbb Z/2$ 次数で、$\operatorname{char}K=2$ ならスピン構造なしで、完全シンプレクティック多様体の完全 Lagrange 部分多様体なら Novikov 体なしで、同様の圏が作れる(同 p. 22)。非コンパクトな多様体には、無限遠で Lagrange 部分多様体を回して交わらせる巻きつき深谷圏(wrapped Fukaya category)がある(同 §4)。円板の泡立ちを許すと $\mu^0$ をもつ曲がった $A_\infty$ 圏になる(同 注意 2.12、pp. 23–24)。
$(V,\omega)$ を $c_1(V)=0$ の $2n$ 次元シンプレクティック多様体、$W$ をそのミラーにあたる $n$ 次元の複素代数多様体とする。このとき、深谷圏 $\mathcal F(V)$(またはその適当な拡大)から作った導来圏は、$W$ の連接層の有界導来圏 $D^b(\mathrm{Coh}(W))$ と同値である。より控えめには、前者は後者の充満三角部分圏として埋め込まれる。
(Kon95 p. 18。導来圏は $A_\infty$ 圏のねじれ複体から作る、同 p. 16。)根拠として Kontsevich は、$V\times V$ の対角線の Floer コホモロジーの積が量子コホモロジーの積になると期待されること(Gromov–Witten理論)を挙げた。2 次元トーラスでは、互いに異なるホモロジー類の 3 本の閉測地線の間の $\mu^2$ が、普遍被覆の平面の三角形の面積についての Gauss 型の和、すなわちテータ関数で書け、$\mu^2$ の結合法則がテータ関数の双線形な恒等式になる(同 p. 19)。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| $[\omega]$ が $\pi_2(M,L_1)$ の上で $0$ | 円柱 $\mathbb R\times S^1$ の、一周する円 $L_0$ と、2 点 $p,q$ で $L_0$ と交わる可縮な円 $L_1$ | $\mu^1\circ\mu^1=0$ |
| $\phi$ が Hamilton 同相写像 | 円柱の一周する円 $L$ と、縦方向の大きな平行移動 $\phi$ | cor-fk-arnold の下界(交点がなくなる) |
| 話題 | 内容 | 記事 |
|---|---|---|
| 代数 | $A_\infty$ 圏、コホモロジー圏、ねじれ複体と導来圏 | DG圏, 三角圏, 導来圏, ホモロジー代数 |
| 幾何 | Lagrange 部分多様体、擬正則円板、Floer コホモロジー | Lagrange部分多様体, Floer理論, 概複素構造 |
| 閉じた弦の側 | 擬正則球面、量子コホモロジー | Gromov–Witten理論 |
| ミラー | 連接層の導来圏、Calabi–Yau 多様体、楕円曲線 | 連接層, Calabi–Yau多様体, 楕円曲線 |
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