導来圏(derived category)とは、アーベル圏 $\mathcal A$ 上の複体のホモトピー圏 $K(\mathcal A)$ を、擬同型のクラスでVerdier局所化して得られる三角圏 $D(\mathcal A):=K(\mathcal A)[\mathrm{Qis}^{-1}]$ のことをいう。ホモロジーだけを見れば区別できない複体を圏論的に同型と扱う枠組みであり、導来関手・$\operatorname{Ext}$・$\operatorname{Tor}$を統一的に記述する現代ホモロジー代数の中心的な舞台になる。
前提知識: 圏, アーベル圏, 複体とホモロジー, 導来関手, ホモトピー圏, 三角圏, Verdier局所化
アーベル圏 $\mathcal A$ に対し、ホモトピー圏 $K(\mathcal A)$ における擬同型(複体とホモロジー参照)のクラス $\mathrm{Qis}$ によるVerdier局所化
$$
D(\mathcal A):=K(\mathcal A)[\mathrm{Qis}^{-1}]
$$
を、$\mathcal A$ の導来圏(derived category)という。局所化関手を $Q\colon K(\mathcal A)\to D(\mathcal A)$ と書く。
複体 $X_\bullet$ が下に有界(bounded below)であるとは、ある $N$ が存在して $n< N$ ならば $X_n=0$ となることをいう。上に有界(bounded above)・有界(bounded)も同様に定める(それぞれ $n>N$、$|n|>N$ で $X_n=0$)。$K(\mathcal A)$ の下に有界(resp. 上に有界、有界)な複体からなる充満三角部分圏をそれぞれ $K^+(\mathcal A)$、$K^-(\mathcal A)$、$K^b(\mathcal A)$ と書き、これらを $\mathrm{Qis}$ で局所化して得られる三角圏をそれぞれ $D^+(\mathcal A)$、$D^-(\mathcal A)$、$D^b(\mathcal A)$(有界導来圏)と書く。
導来圏は、複体を「ホモロジーが一致していれば同一視する」という最も緩やかな同一視のもとで対象を扱う圏である。ホモトピー圏は鎖ホモトピーという有限的な操作で結ばれた複体を同一視するにとどまるが、導来圏はさらに進んで、擬同型で結ばれた(一般には鎖ホモトピー同値ではない)複体まで同型としてしまう。この結果、$D(\mathcal A)$ の対象は「複体」というよりも「その擬同型類」であるとみなすのが実情に近い。
この圏の射 $\operatorname{Hom}_{D(\mathcal A)}(X_\bullet,Y_\bullet)$ は、Verdier局所化の一般論により「屋根」$X_\bullet\xleftarrow{s}X'_\bullet\xrightarrow{f}Y_\bullet$($s$ は擬同型)の同値類として実現される。$X'_\bullet$ が入射対象・射影対象からなる複体(入射分解・射影分解)である場合には、この屋根は単なる通常の鎖写像 $f\colon X'_\bullet\to Y_\bullet$(あるいはその逆向き)に簡約でき、導来関手の定義で用いた「分解を取ってから関手を適用する」という手続きが、$D(\mathcal A)$ の言葉では「関手を導来圏へ拡張する」という一つの操作として統一的に記述できるようになる。すなわち、導来関手の理論全体が $D(\mathcal A)$ 上の関手の理論として再定式化される——この視点は三角関手と導来関手の再定式化で扱う。
各 $n\in\mathbb Z$ に対し、ホモロジー関手 $H_n\colon K(\mathcal A)\to\mathcal A$(複体とホモロジー参照)は、$H_n=\bar H_n\circ Q$ を満たす関手 $\bar H_n\colon D(\mathcal A)\to\mathcal A$ へ(一意に)分解する。
$f\colon X_\bullet\to Y_\bullet$ が擬同型であるとは、まさに $H_n(f)$ がすべての $n$ で同型射であることをいう(複体とホモロジーの擬同型の定義)。したがって $H_n\colon K(\mathcal A)\to\mathcal A$ は $\mathrm{Qis}$ の元を同型射に送る関手である。$D(\mathcal A)=K(\mathcal A)[\mathrm{Qis}^{-1}]$ が満たす局所化の普遍性(Verdier局所化の定義、性質(2))をこの $H_n$ に適用すると、$H_n=\bar H_n\circ Q$ を満たす関手 $\bar H_n\colon D(\mathcal A)\to\mathcal A$ が一意に(自然同型を除いて)存在する。$\blacksquare$
アーベル圏 $\mathcal A$ の対象 $A$ を、次数 $0$ に集中した複体($n=0$ で $A$、他は $0$)とみなすことで、$\mathcal A$ から $\mathrm{Ch}(\mathcal A)$、ひいては $D(\mathcal A)$ への関手が得られる。この関手は忠実充満であり(証明は本記事では割愛する)、$\mathcal A$ を $D(\mathcal A)$ の充満部分圏とみなすことができる。二つの対象 $A,B\in\mathcal A$(次数 $0$ の複体とみる)に対しては
$$
\operatorname{Hom}_{D(\mathcal A)}(A,B)\cong\operatorname{Hom}_{\mathcal A}(A,B)
$$
であるが、移動した対象どうしの間の射 $\operatorname{Hom}_{D(\mathcal A)}(A,\Sigma^{-n}B)$($n\ge1$)は一般に非自明であり、これがちょうど導来関手 $\operatorname{Ext}^n_{\mathcal A}(A,B)$ に一致する($\operatorname{Ext}^n_{\mathcal A}(A,B)\cong\operatorname{Hom}_{D(\mathcal A)}(A,B[n])$)。このように、導来圏は $\operatorname{Ext}$ 群を単なる射のHom集合として統一的に記述する。
環 $R$ に対し $\mathcal A=R\text{-}\mathbf{Mod}$ ととると、$D^b(R\text{-}\mathbf{Mod})$(コホモロジーが有限個の次数を除いて消える複体全体、より正確には有界な複体を擬同型で局所化した圏)が得られる。これは代数幾何・表現論で最も頻繁に使われる導来圏の実例であり、連接層の有界導来圏 $D^b(\operatorname{Coh}(X))$($X$ はスキーム)などの構成の原型になる。