リッチテンソル(Ricci tensor)とは、リーマン多様体のリーマン曲率テンソル $R$ を1回縮約して得られる対称 $(0,2)$ 型テンソル場 $\mathrm{Ric}(Y,Z)=\operatorname{tr}(X\mapsto R(X,Y)Z)$ のことである。単位ベクトル $u$ に対する $\mathrm{Ric}(u,u)$(リッチ曲率)は、$u$ を含む平面の断面曲率の平均の $n-1$ 倍である。定曲率 $c$ の空間では $\mathrm{Ric}=(n-1)c\,g$ であり、$\mathrm{Ric}=\lambda g$($\lambda$ 定数)を満たす多様体を Einstein 多様体という。Bonnet–Myers の定理や体積比較定理、一般相対性理論の Einstein 方程式など、リッチテンソルだけで制御される現象は多い。
前提知識: リーマン多様体, リーマン曲率テンソル, テンソル解析, トレース
以下、$(M,g)$ を $n$ 次元リーマン多様体(擬 Riemann 多様体でも同様)、$\nabla$ をそのリーマン接続、$R$ をリーマン曲率テンソル $R(X,Y)Z=\nabla_X\nabla_YZ-\nabla_Y\nabla_XZ-\nabla_{[X,Y]}Z$ とし、$\mathrm{Rm}(X,Y,Z,W):=g(R(Z,W)Y,X)$、局所座標での成分を $R(\partial_k,\partial_l)\partial_j=R^i{}_{jkl}\partial_i$、$R_{ijkl}:=g_{im}R^m{}_{jkl}$ と書く(記法と符号の流儀は リーマン曲率テンソル に従う)。添字の和は Einstein の総和規約(テンソル解析)による。
$p\in M$ と $Y,Z\in T_pM$ に対し、線形写像 $T_pM\to T_pM$、$X\mapsto R(X,Y)Z$ のトレースを
$$
\mathrm{Ric}(Y,Z):=\operatorname{tr}\bigl(X\mapsto R(X,Y)Z\bigr)
$$
とおく。$\mathrm{Ric}$ は $(0,2)$ 型テンソル場であり(prop-ricci-tensorial)、これを $(M,g)$ のリッチテンソル(Ricci tensor)またはリッチ曲率テンソル(Ricci curvature tensor)という。$T_pM$ の正規直交基底 $e_1,\dots,e_n$ をとれば
$$
\mathrm{Ric}(Y,Z)=\sum_{i=1}^ng(R(e_i,Y)Z,e_i)=\sum_{i=1}^n\mathrm{Rm}(e_i,Z,e_i,Y)
$$
である。局所座標での成分は $R_{ij}:=\mathrm{Ric}(\partial_i,\partial_j)$ と書き($\mathrm{Ric}_{ij}$ とも書く)、
$$
R_{ij}=R^a{}_{jai}=g^{ab}R_{ajbi}
$$
である。すなわちリッチテンソルは曲率テンソルの「上添字と $R(\cdot,\cdot)$ の第1引数」を縮約したものである。単位ベクトル $u\in T_pM$ に対し $\mathrm{Ric}(u,u)$ を $u$ 方向のリッチ曲率(Ricci curvature)という。
リッチテンソルは $(0,2)$ 型テンソル場であるが、計量で添字を上げて $(1,1)$ 型テンソル場、すなわち各点で線形写像 $Q\colon T_pM\to T_pM$ で
$$
g(QX,Y)=\mathrm{Ric}(X,Y)\qquad(X,Y\in T_pM)
$$
を満たすものが定まる。$Q$ をリッチ作用素(Ricci operator)という。成分は $Q^i{}_j=g^{ia}R_{aj}=:R^i{}_j$ である。$\mathrm{Ric}$ が対称なので(prop-ricci-symmetric)$Q$ は $g$ に関して自己随伴であり、各点で実固有値をもち正規直交基底で対角化される。
リッチテンソルが計量の定数倍であるリーマン多様体、すなわちある定数 $\lambda\in\mathbb{R}$ について
$$
\mathrm{Ric}=\lambda g
$$
が成り立つ $(M,g)$ を Einstein 多様体(Einstein manifold)といい、$\lambda$ を Einstein 定数という。$\dim M\ge3$ で $M$ が連結なら、各点ごとに $\mathrm{Ric}_p=\lambda(p)g_p$ が成り立つだけで $\lambda$ は自動的に定数になる(Schur の補題。スカラー曲率)。
曲率テンソルは $n^2(n^2-1)/12$ 個の独立な成分をもつが、リッチテンソルは対称 $(0,2)$ 型テンソルなので $n(n+1)/2$ 個しかない。リッチテンソルは曲率テンソルの「トレース部分」であり、情報は減るが扱いやすい。その幾何学的な意味は prop-ricci-sectional が与える:単位ベクトル $u$ 方向のリッチ曲率 $\mathrm{Ric}(u,u)$ は、$u$ を含む $n-1$ 個の互いに直交する平面の断面曲率の和であり、「$u$ 方向の断面曲率の平均の $n-1$ 倍」である。したがってリッチ曲率が正であることは、$u$ 方向に出発する測地線の束が Euclid 空間より平均的に速く収束すること(体積が小さくなること)を意味し、Bonnet–Myers の定理や体積比較定理のように、断面曲率の代わりにリッチ曲率だけを仮定して大域的な結論を導く定理が多数ある(Lee18 Ch. 12、Pet16 Ch. 7)。一般相対性理論では、リッチテンソルは Einstein 方程式を通じて物質のエネルギー・運動量と結びつく(Wald84 Ch. 4)。
prop-ricci-product より、$(M_1\times M_2,g_1\oplus g_2)$ のリッチテンソルは $\mathrm{Ric}=\mathrm{pr}_1^*\mathrm{Ric}_1+\mathrm{pr}_2^*\mathrm{Ric}_2$ である。$S^2\times S^2$(各因子は半径 $1$)では $\mathrm{Ric}_1=g_1$、$\mathrm{Ric}_2=g_2$ なので $\mathrm{Ric}=g$ であり、$S^2\times S^2$ は Einstein 定数 $1$ の Einstein 多様体である。一方、混合した平面の断面曲率は $0$、因子に接する平面の断面曲率は $1$ なので定曲率ではない(断面曲率)。これは「Einstein 多様体ならば定曲率空間」という含意の反例である:Einstein 条件 $\mathrm{Ric}=\lambda g$ を満たすが、定曲率という条件を満たさない。また $S^2\times\mathbb{R}$ では $\mathrm{Ric}(u,u)=1$($u$ が $S^2$ に接する単位ベクトル)、$\mathrm{Ric}(v,v)=0$($v$ が $\mathbb{R}$ 方向)なので Einstein でない。
$\dim M=2$ のとき、prop-ricci-sectional より、各点で $\mathrm{Ric}=K\,g$ が成り立つ($K$ はGauss曲率、すなわち唯一の接平面の断面曲率)。実際、正規直交基底 $e_1,e_2$ に対し $\mathrm{Ric}(e_1,e_1)=K(e_1,e_2)=K$、$\mathrm{Ric}(e_2,e_2)=K$、$\mathrm{Ric}(e_1,e_2)=g(R(e_2,e_1)e_2,e_2)+g(R(e_1,e_1)e_2,e_1)=0$ である。しかし $K$ は一般に定数でない。例えば局所座標で $g=dr^2+f(r)^2d\theta^2$、$f(r)=r+r^3$ とすると $K=-f''/f=-6/(1+r^2)$(断面曲率)であり、$\mathrm{Ric}=K g$ の係数 $K$ は定数でない。これは Schur の補題($\dim M\ge3$ で $\mathrm{Ric}=\lambda g$ なら $\lambda$ は定数、スカラー曲率)の仮定 $\dim M\ge3$ が落とせないことを示す反例である。
$\mathrm{Ric}=0$ であるリーマン多様体を Ricci 平坦という。$\dim M\le3$ では、曲率テンソルはリッチテンソルから決まり(rem-ricci-low-dimension)、Ricci 平坦なら平坦($R=0$)である。しかし $\dim M\ge4$ ではそうでない。例えば リーマン接続の記事で接続係数を計算した Schwarzschild 計量(4 次元Lorentz 計量)は $\mathrm{Ric}=0$(真空の Einstein 方程式の解)であるが $R\neq0$ である(Wald84 Ch. 6)。正定値計量の例としては 4 次元の Eguchi–Hanson 計量やK3 曲面上の Ricci 平坦計量が知られている(Bes87)。すなわち $\mathrm{Ric}=0$ は $R=0$ を含意しない。
$\mathrm{Ric}(Y,Z)$ は $Y,Z$ について双線形であり、各点で基底の取り方によらず定まる。特に $\mathrm{Ric}$ は $(0,2)$ 型テンソル場であり、正規直交基底 $e_1,\dots,e_n$ に対し $\mathrm{Ric}(Y,Z)=\sum_ig(R(e_i,Y)Z,e_i)$、局所座標で $R_{ij}=R^a{}_{jai}$ である。
$R$ が $(1,3)$ 型テンソル場なので(リーマン曲率テンソル)、各点で $X\mapsto R(X,Y)Z$ は $T_pM$ の線形自己準同型であり、そのトレースは基底によらない(トレース。テンソルの縮約が基底によらないことは テンソル解析)。$Y,Z$ についての双線形性は $R$ の多重線形性から従う。正規直交基底に関する線形写像 $A$ のトレースは $\sum_ig(Ae_i,e_i)$ であり、座標基底 $\partial_a$ に関しては $A\partial_a$ の $\partial_a$ 成分の和なので、$R(\partial_a,\partial_i)\partial_j=R^m{}_{jai}\partial_m$ より $R_{ij}=R^a{}_{jai}$ である。$\square$
$\mathrm{Ric}(Y,Z)=\mathrm{Ric}(Z,Y)$、すなわち $R_{ij}=R_{ji}$ である。
正規直交基底を用いると、$g(R(e_i,Y)Z,e_i)=\mathrm{Rm}(e_i,Z,e_i,Y)$ であり、曲率テンソルの対の入れ替えの対称性 $\mathrm{Rm}(X,Y,Z,W)=\mathrm{Rm}(Z,W,X,Y)$(リーマン曲率テンソル)から $\mathrm{Rm}(e_i,Z,e_i,Y)=\mathrm{Rm}(e_i,Y,e_i,Z)=g(R(e_i,Z)Y,e_i)$ である。$i$ について和をとれば $\mathrm{Ric}(Y,Z)=\mathrm{Ric}(Z,Y)$ を得る。$\square$
成分で書いた第1 Bianchi 恒等式 $R^i{}_{jkl}+R^i{}_{klj}+R^i{}_{ljk}=0$ で $i$ と $k$ を縮約すると $R^i{}_{jil}+R^i{}_{ilj}+R^i{}_{lji}=0$ となる。ここで $R^i{}_{jil}=R_{lj}$、$R^i{}_{lji}=-R^i{}_{lij}=-R_{jl}$ であり、中央の項 $R^i{}_{ilj}$ は線形写像 $R(\partial_l,\partial_j)$ のトレースであるが、$g(R(\partial_l,\partial_j)e_i,e_i)=0$($\mathrm{Rm}$ の前の2引数の反対称性)よりこれは $0$ である。よって $R_{lj}=R_{jl}$ を得る。第1 Bianchi 恒等式は捩れのない任意の接続で成り立つが、$\operatorname{tr}R(X,Y)=0$ は計量条件から導いたものなので、この証明も計量条件を用いている。
$u\in T_pM$ を単位ベクトルとし、$e_1=u,e_2,\dots,e_n$ を $T_pM$ の正規直交基底とする。このとき
$$
\mathrm{Ric}(u,u)=\sum_{i=2}^nK(u,e_i)
$$
である。ここで $K(u,e_i)$ は $u,e_i$ の張る平面の断面曲率である。
$\mathrm{Ric}(u,u)=\sum_{i=1}^ng(R(e_i,u)u,e_i)$ であり、$i=1$ の項は $R(u,u)=0$ より $0$ である。$i\ge2$ では $e_i,u$ が正規直交なので $g(R(e_i,u)u,e_i)=K(e_i,u)=K(u,e_i)$ である(断面曲率の定義で分母が $1$ になる)。$\square$
点 $p$ で $T_pM$ のすべての平面の断面曲率が $c$ に等しいなら $\mathrm{Ric}_p=(n-1)c\,g_p$ である。特に定曲率 $c$ の空間は Einstein 定数 $(n-1)c$ の Einstein 多様体である。
定曲率の特徴づけ(断面曲率)より $R(X,Y)Z=c\bigl(g(Y,Z)X-g(X,Z)Y\bigr)$ である。$X\mapsto g(Y,Z)X$ のトレースは $n\,g(Y,Z)$、$X\mapsto g(X,Z)Y$ のトレースは $g(Y,Z)$(正規直交基底で $\sum_ig(e_i,Z)g(Y,e_i)=g(Y,Z)$)なので、$\mathrm{Ric}(Y,Z)=c(n-1)g(Y,Z)$ である。$\square$
$(M_1\times M_2,g_1\oplus g_2)$ のリッチテンソルは $\mathrm{Ric}=\mathrm{pr}_1^*\mathrm{Ric}_1+\mathrm{pr}_2^*\mathrm{Ric}_2$ である。すなわち $Y_1,Z_1\in T_pM_1$、$Y_2,Z_2\in T_qM_2$ に対し $\mathrm{Ric}(Y_1+Y_2,Z_1+Z_2)=\mathrm{Ric}_1(Y_1,Z_1)+\mathrm{Ric}_2(Y_2,Z_2)$ である。
$T_pM_1$ の正規直交基底 $e_1,\dots,e_m$ と $T_qM_2$ の正規直交基底 $f_1,\dots,f_k$ を合わせたものは $T_{(p,q)}(M_1\times M_2)$ の正規直交基底である。積多様体の曲率(リーマン曲率テンソル)により、$R(e_i,Y_1+Y_2)(Z_1+Z_2)=R_1(e_i,Y_1)Z_1$($M_1$ 方向)、$R(f_\alpha,Y_1+Y_2)(Z_1+Z_2)=R_2(f_\alpha,Y_2)Z_2$($M_2$ 方向)であり、混合した項はすべて $0$ である。よって
$$
\mathrm{Ric}(Y_1+Y_2,Z_1+Z_2)=\sum_ig_1(R_1(e_i,Y_1)Z_1,e_i)+\sum_\alpha g_2(R_2(f_\alpha,Y_2)Z_2,f_\alpha)=\mathrm{Ric}_1(Y_1,Z_1)+\mathrm{Ric}_2(Y_2,Z_2)
$$
である。$\square$
局所座標に関して
$$
\nabla_aR^a{}_{ijk}=\nabla_jR_{ki}-\nabla_kR_{ji}
$$
が成り立つ。すなわち曲率テンソルの発散はリッチテンソルの共変微分で表される。
第2 Bianchi 恒等式(リーマン曲率テンソル)$\nabla_aR^m{}_{ijk}+\nabla_jR^m{}_{ika}+\nabla_kR^m{}_{iaj}=0$ で $m$ と $a$ を縮約する。共変微分は縮約と可換なので(テンソル解析)
$$
\nabla_aR^a{}_{ijk}+\nabla_j\bigl(R^a{}_{ika}\bigr)+\nabla_k\bigl(R^a{}_{iaj}\bigr)=0
$$
である。定義 $R_{ij}=R^a{}_{jai}$ より $R^a{}_{iaj}=R_{ji}$、$R^a{}_{ika}=-R^a{}_{iak}=-R_{ki}$ であるから、$\nabla_aR^a{}_{ijk}-\nabla_jR_{ki}+\nabla_kR_{ji}=0$ を得る。$\square$
$\dim M=2$ では $\mathrm{Ric}=Kg$ であり(ex-ricci-dim-two)、曲率テンソルは $K$ で決まる(リーマン曲率テンソル)。$\dim M=3$ では曲率テンソルの独立成分は $6$ 個でリッチテンソルの成分数と一致し、実際に
$$
R_{ijkl}=R_{ik}g_{jl}-R_{il}g_{jk}+g_{ik}R_{jl}-g_{il}R_{jk}-\frac S2\bigl(g_{ik}g_{jl}-g_{il}g_{jk}\bigr)
$$
($S$ はスカラー曲率)が成り立つので、3 次元では Einstein 多様体は定曲率空間に他ならない(Lee18 Ch. 7、Pet16 Ch. 3)。$\dim M\ge4$ では曲率テンソルはリッチテンソルとWeyl テンソル(曲率テンソルのトレースなしの部分)に分解し、Weyl テンソルはリッチテンソルからは決まらない(Bes87 Ch. 1)。
リッチテンソルをどの添字で縮約するかは文献により異なるが、曲率テンソルの対称性により、$R(\cdot,Y)Z$ の縮約と $R(Y,\cdot)Z$ の縮約は符号が異なるだけであり、どの文献も球面のリッチテンソルが正定値になる向きに定義している。doCarmo92 は $\frac1{n-1}\mathrm{Ric}$ を Ricci 曲率と呼ぶ(断面曲率の平均に正規化)。一般相対性理論では、Lorentz 計量に対して同じ定義でリッチテンソルを作り、Einstein 方程式 $R_{\mu\nu}-\frac12Sg_{\mu\nu}=8\pi T_{\mu\nu}$($T_{\mu\nu}$ はエネルギー・運動量テンソル)が時空の計量を定める(Wald84 Ch. 4)。その左辺のEinstein テンソル $G:=\mathrm{Ric}-\frac S2g$ は、縮約された第2 Bianchi 恒等式により発散が $0$ になる(スカラー曲率)。
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