左吸収元(left absorbing element)とは、マグマ(集合と二項演算 $\cdot$ の組)$M$ の元 $z$ であって、任意の $a\in M$ に対して $z\cdot a=z$ を満たすもの、すなわち左からぶつけると相手を無視して自分に戻る元のことである。左零元ともいう。吸収元は左吸収元でもあるが、逆は成り立たない。左吸収元全体は演算が $x\cdot y=x$ となる部分マグマをなし、両側の吸収元と違って一意とは限らない。すべての元が左吸収元になるマグマや、右吸収元だけを持つマグマがある。写像の合成では定値写像がちょうど左吸収元にあたる。
集合 $M$ と二項演算 $\cdot\colon M\times M\to M$ の組 $\langle M,\cdot\rangle$ をマグマ(magma)という。以下、結合律も可換律も仮定しない。
マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $z$ が、任意の $a\in M$ に対して
$$
z\cdot a=z
$$
を満たすとき、$z$ を $M$ の左吸収元(left absorbing element)または左零元(left zero)という。$M$ の左吸収元全体の集合を $Z_L(M)$ と書く。
対称的に、任意の $a\in M$ に対して $a\cdot z=z$ を満たす元 $z$ を $M$ の右吸収元(right absorbing element)または右零元(right zero)といい、左吸収元かつ右吸収元である元、すなわち任意の $a\in M$ に対して $z\cdot a=a\cdot z=z$ を満たす元を $M$ の吸収元(absorbing element)または零元(zero element)という。半群における零元・左零元・右零元の定義は Howie95 §1.1 が同じ式で与えている。
条件の量化は $a$ についての全称であり、$a=z$ の場合も含む。左吸収元は存在するとは限らず、存在しても一つとは限らない。$Z_L(M)=\emptyset$ のとき $M$ は左吸収元を持たないという。演算が可換なマグマでは任意の $a$ に対して $z\cdot a=a\cdot z$ だから、左吸収元・右吸収元・吸収元の三つの条件は一致する。左右の区別が意味を持つのは、可換とは限らないマグマにおいてである。
左吸収元(left absorbing element)は「左からぶつけると相手を無視して自分に戻る元」である。$z$ が左吸収元であることは、左移動 $\lambda_z\colon M\to M$、$\lambda_z(x)=z\cdot x$ が値 $z$ をとる定値写像であることと言い換えられる。単位元(どの元と演算しても相手を変えない元)が相手をそのまま通す元であるのに対し、吸収元は相手を潰して自分に戻す元であり、そのうち左からの条件だけを課したものが左吸収元である。左から潰すことと右から潰すことは独立な条件であって、片側だけに条件を課すと、両側の吸収元が持つ一意性は失われる。
$\langle\mathbb{R},\times\rangle$ の $0$ は、任意の $a\in\mathbb{R}$ に対して $0\times a=0$ を満たすので左吸収元である。一般に、定義から吸収元はつねに左吸収元である。$0$ が右からの条件 $a\times 0=0$ も満たして吸収元になることは 吸収元 で扱う。
二元集合 $M=\{a,b\}$($a\neq b$)に、演算を
$$
x\cdot y:=x\qquad(x,y\in M)
$$
で定める。演算表は次のとおりである。
| $\cdot$ | $a$ | $b$ |
|---|---|---|
| $a$ | $a$ | $a$ |
| $b$ | $b$ | $b$ |
各行が定数になっていること、すなわち $a\cdot a=a\cdot b=a$ と $b\cdot a=b\cdot b=b$ が成り立つことは、$a$ と $b$ がともに左吸収元であることにほかならない。したがって $Z_L(M)=M$ である。この演算は結合的であり(任意の $x,y,w\in M$ に対し $(x\cdot y)\cdot w=x\cdot w=x$ と $x\cdot(y\cdot w)=x$)、$M$ は半群である。同じ構成は任意の空でない集合の上で行える。
ex-left-absorbing-element-projection のマグマ $M=\{a,b\}$ を考える。$M$ は性質 $P$「左吸収元を持つ」を満たす。しかし相異なる $a$ と $b$ がともに左吸収元なので、$M$ は性質 $Q$「左吸収元をちょうど一つ持つ」を満たさない。したがって含意 $P\Rightarrow Q$、すなわち「マグマが左吸収元を持つならば、それはただ一つである」は偽である。両側の吸収元が高々一つしかないことの証明は左右両方の条件を使うのであって(吸収元)、片側だけでは一意性は成り立たない。上で見たようにこの演算は結合的だから、結合律を課しても一意性は回復しない。同じ構成が任意の空でない集合の上でできるので、左吸収元全体の集合は任意の空でない濃度を持ちうる。
同じ演算 $x\cdot y=x$ は 吸収元 にも現れるが、そこで否定されている含意は「左吸収元であれば吸収元である」であって、この演算のマグマに右吸収元がないことがその根拠である。ここで否定しているのはそれとは別の含意、すなわち左吸収元の個数についての $P\Rightarrow Q$ であり、根拠は相異なる二つの左吸収元が同時に存在することである。
二元集合 $N=\{a,b\}$($a\neq b$)に、こんどは演算を
$$
x\cdot y:=y\qquad(x,y\in N)
$$
で定める。このマグマが性質 $P$「右吸収元を持つ」を満たし、性質 $Q$「左吸収元を持つ」を満たさないことは、右吸収元 が所有する命題から従う。そこでは、空でない集合の上で $x\cdot y:=y$ と定めると、すべての元が右吸収元になり、元が二つ以上あれば左吸収元は一つも存在しないことが示されている。本記事はこの主張を所有せず、証明も再掲しない。ここから含意 $P\Rightarrow Q$、すなわち「マグマが右吸収元を持つならば左吸収元も持つ」が偽であることが従う。逆向きの含意「左吸収元を持つならば右吸収元も持つ」が偽であることは、ex-left-absorbing-element-projection のマグマを用いて 吸収元 で示されている。したがって、左からの条件と右からの条件はどちらも他方を導かない。
マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の左吸収元全体 $Z_L(M)$ について、$z,z'\in Z_L(M)$ ならば $z\cdot z'=z\in Z_L(M)$ である。とくに $Z_L(M)$ は演算 $\cdot$ について閉じており、$Z_L(M)\neq\emptyset$ のとき $Z_L(M)$ は $M$ の部分マグマである。その上での演算は ex-left-absorbing-element-projection と同じ「左の元を返す演算」$x\cdot y=x$ に一致する。また各左吸収元 $z$ は $z\cdot z=z$ を満たす。
$z,z'\in Z_L(M)$ とする。$z$ が左吸収元であることの条件 $z\cdot a=z$ を $a:=z'$ に適用して $z\cdot z'=z$ を得る。右辺の $z$ は仮定より $Z_L(M)$ の元だから、$Z_L(M)$ は演算で閉じている。閉じた空でない部分集合は部分マグマである。三つ目の主張は、いま示した等式 $z\cdot z'=z$ が $Z_L(M)$ のすべての元の対について成り立つことにほかならない。最後の主張は、$z$ が左吸収元であることの条件を $a:=z$ に適用したものである。$\square$
$X$ を空でない集合とし、$X$ からそれ自身への写像全体 $X^X$ に合成 $f\cdot g:=f\circ g$ を入れたマグマを考える。$f\in X^X$ がこのマグマの左吸収元であることと、$f$ が定値写像であること、すなわちある $p\in X$ が存在して任意の $x\in X$ に対し $f(x)=p$ となることは同値である。したがって $X$ が二点以上を持てば、このマグマの左吸収元は二つ以上ある。
$p\in X$ に対し、定値写像 $c_p\colon X\to X$ を $c_p(x)=p$ で定める。任意の $g\in X^X$ と $x\in X$ に対して $(c_p\circ g)(x)=c_p(g(x))=p=c_p(x)$ であるから $c_p\circ g=c_p$ であり、$c_p$ は左吸収元である。
逆に $f$ を左吸収元とする。$X$ は空でないので元 $q\in X$ を一つ取り、左吸収元の条件を $g:=c_q$ に適用すると $f\circ c_q=f$ である。左辺は任意の $x\in X$ に対して $(f\circ c_q)(x)=f(c_q(x))=f(q)$ という一定の値をとるから、$f=c_{f(q)}$ であり $f$ は定値写像である。
最後に、$p\neq p'$ ならば $x\in X$ を一つ取って $c_p(x)=p\neq p'=c_{p'}(x)$ となるので $c_p\neq c_{p'}$ である。よって $X$ が相異なる二点を持てば、対応する二つの定値写像は相異なる左吸収元である。$\square$
マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $z$ が、任意の $x,y\in M$ に対して「$z\cdot x=z\cdot y$ ならば $x=y$」という性質を持つとする。このとき $z$ が左吸収元ならば $M=\{z\}$ である。対偶として、二元以上のマグマの左吸収元は、この性質を持たない。
$x,y\in M$ を任意に取る。$z$ は左吸収元だから $z\cdot x=z$ かつ $z\cdot y=z$、したがって $z\cdot x=z\cdot y$ である。仮定した性質により $x=y$ となる。$x,y$ は任意だったので $M$ の元はすべて等しく、$z\in M$ だから $M=\{z\}$ である。$\square$
$z\in G$ とし、$z\cdot x=z\cdot y$ とする。両辺に左から $z$ の逆元 $z^{-1}$ を掛け、結合律と逆元・単位元の性質を使うと $x=y$ を得る。したがって $G$ のどの元も prop-left-absorbing-element-cancellation の仮定を満たすので、$G$ が左吸収元 $z$ を持てば $G=\{z\}$ である。一元集合である群では $z$ が単位元であり、$z\cdot z=z$ だから $z$ は左吸収元である。$\square$
マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ が相異なる二つの左吸収元を持つならば、$M$ は右吸収元を持たない。
$w$ を $M$ の右吸収元とする。左吸収元と右吸収元がともに存在すればそれらは一致するので(吸収元)、$M$ のどの左吸収元も $w$ に等しい。すると左吸収元は高々一つしかなく、相異なる二つを持つという仮定に反する。よって右吸収元は存在しない。$\square$
マグマが左吸収元と右吸収元をともに持つならば、両者は一致し、それがそのマグマのただ一つの吸収元である。この主張と証明は 吸収元 が所有しており、本記事では再掲しない。cor-left-absorbing-element-no-right はその帰結である。左吸収元が左単位元(任意の $a\in M$ に対して $z\cdot a=a$ を満たす元)でもあれば台集合が一点集合になることも、そこで扱われている。
左吸収元と右吸収元を区別する必要が生じるのは、演算が可換でなく、片側だけの条件しか満たさない元があるときである。ex-left-absorbing-element-projection と prop-left-absorbing-element-maps は、そのような元が人工的な演算表だけでなく写像の合成という標準的な演算の中にも現れることを示している。一方 prop-left-absorbing-element-cancellation と cor-left-absorbing-element-group が示すように、左から簡約できる元が左吸収元にもなれるのは台集合が一点集合のときに限るので、群のようにすべての元が左から簡約できる代数系には、その自明な場合を除いて左吸収元がない。
右からの条件 $a\cdot z=z$ で定まる概念が右吸収元である。演算の左右を入れ替える操作(反対マグマをとり、その演算を反対演算とよぶ操作)によって、本記事の主張はそのまま右吸収元についての主張に移る。この操作の定義は 右単位元 が所有しており、それを前提として左吸収元と右吸収元が正確に対応することを述べる命題は 右吸収元 が所有している。本記事はそのどちらについても定義も証明も置かない。定義は 右単位元 を、対応の命題は 右吸収元 を見よ。
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