吸収元

同義語:零元

概要

吸収元(absorbing element)とは、マグマ(集合と二項演算の組)$M$ の元 $0$ であって、任意の元 $a$ に対して $0\cdot a=a\cdot 0=0$ を満たすもの、すなわちどの元と演算しても自分自身に戻る元のことである。零元(zero element)とも呼ばれ、片側の式だけを満たすものを左吸収元・右吸収元という。実数の乗法における $0$、冪集合の共通部分における空集合、論理積における偽が典型例である。左吸収元と右吸収元がともに存在すれば一致し、吸収元は存在すれば一意である。吸収元かつ単位元となる元があればマグマは一点集合に限られるので、二元以上のマグマでは吸収元と単位元は必ず別の元である。環では加法単位元 $0$ が乗法の吸収元になる。

$$\newcommand{C}[0]{\mathbb{C}} \newcommand{N}[0]{\mathbb{N}} \newcommand{Q}[0]{\mathbb{Q}} \newcommand{R}[0]{\mathbb{R}} \newcommand{Z}[0]{\mathbb{Z}} $$

前提知識: 集合と写像, 二項演算, マグマ

定義

集合 $M$ と二項演算 $\cdot\colon M\times M\to M$ の組 $\langle M,\cdot\rangle$マグマ(magma)という。結合律や単位元の存在は仮定しない。本記事では、マグマの中で「どの元と演算しても自分自身に戻る」元を扱う。

左吸収元・右吸収元

マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $0_L$ が、任意の $a\in M$ に対して
$$ 0_L\cdot a=0_L $$
を満たすとき、$0_L$$M$左吸収元(left absorbing element)または左零元(left zero)という。
同様に、元 $0_R$ が任意の $a\in M$ に対して
$$ a\cdot 0_R=0_R $$
を満たすとき、$0_R$$M$右吸収元(right absorbing element)または右零元(right zero)という。

吸収元

マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $0$ が左吸収元かつ右吸収元であるとき、すなわち任意の $a\in M$ に対して
$$ 0\cdot a=a\cdot 0=0 $$
が成り立つとき、$0$$M$吸収元(absorbing element)または零元(zero element)という。半群の零元については Howie95 §1.1 が同じ定義式を用いている。

比較のために単位元の定義も述べておく。マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $e$ が任意の $a\in M$ に対して $e\cdot a=a$ を満たすとき $e$左単位元$a\cdot e=a$ を満たすとき右単位元、両方を満たすとき単位元という。

直感

吸収元は、演算の「ブラックホール」である。どんな元をぶつけても結果は吸収元自身に戻り、相手の情報はすべて失われる。実数の掛け算における $0$ が典型で、$0\cdot a=0$ はどの $a$ についても成り立つ。単位元が「相手を変えない」元であるのに対し、吸収元は「相手を潰す」元であり、二つは正反対の役割を持つ。

例と反例

実数の乗法における $0$

マグマ $\langle\mathbb{R},\times\rangle$ において $0$ は吸収元である。実際、任意の $a\in\mathbb{R}$ に対して $0\times a=a\times 0=0$ が成り立つ。同じ集合 $\mathbb{R}$ でも、演算を加法に変えると事情が変わる(後述の反例を参照)。

冪集合における空集合と全体集合

集合 $X$ の冪集合 $\mathcal{P}(X)$ に共通部分 $\cap$ を演算として入れたマグマ $\langle\mathcal{P}(X),\cap\rangle$ において、空集合 $\emptyset$ は吸収元である。実際、任意の $A\subset X$ に対して $\emptyset\cap A=A\cap\emptyset=\emptyset$ である。一方、和集合 $\cup$ を演算とするマグマ $\langle\mathcal{P}(X),\cup\rangle$ では、全体集合 $X$ が吸収元である($X\cup A=A\cup X=X$)。吸収元は集合だけでなく演算によって決まる。

真理値の論理積と論理和

真理値の集合 $\{\mathrm{T},\mathrm{F}\}$ に論理積 $\wedge$ を入れたマグマでは $\mathrm{F}$ が吸収元である($\mathrm{F}\wedge a=a\wedge\mathrm{F}=\mathrm{F}$)。論理和 $\vee$ を入れたマグマでは $\mathrm{T}$ が吸収元である($\mathrm{T}\vee a=a\vee\mathrm{T}=\mathrm{T}$)。

反例:吸収元でない元、片側だけの吸収元、吸収元を持たないマグマ

次の三つの例は、それぞれ「単位元 ⇒ 吸収元」「左吸収元 ⇒ 吸収元」「任意のマグマは吸収元を持つ」がいずれも成り立たないことを示す。

  • $\langle\mathbb{R},+\rangle$ において $0$ は単位元であるが吸収元ではない。実際 $0+1=1\neq 0$ である。さらに $\langle\mathbb{R},+\rangle$ には吸収元がそもそも存在しない。任意の $x\in\mathbb{R}$ に対して $x+1\neq x$ なので、どの $x$ も左吸収元にならないからである。同じ記号 $0$ が、乗法では吸収元、加法では単位元という別の役割を持つ。
  • 二元以上の集合 $M$ に演算 $x\cdot y:=x$ を入れたマグマ(左零半群)では、任意の元 $x$ が左吸収元である($x\cdot a=x$)。しかし右吸収元は存在しない。実際、$0_R$ が右吸収元だとすると $a\neq 0_R$ なる $a$ に対して $a\cdot 0_R=a\neq 0_R$ となり矛盾する。したがって左吸収元は存在しても吸収元は存在せず、また左吸収元は一意でない(cor-absorbing-element-unique の一意性は両側の吸収元についてのみ成り立つ)。
  • $\langle\mathbb{N},+\rangle$ は吸収元を持たない。実際、どの $n\in\mathbb{N}$ に対しても $n+1\neq n$ であるから、$n$ は左吸収元にならない。

性質

左吸収元と右吸収元の一致

マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ が左吸収元 $0_L$ と右吸収元 $0_R$ をともに持つならば、$0_L=0_R$ である。

$0_L$ が左吸収元であることを $a=0_R$ に適用すると $0_L\cdot 0_R=0_L$ を得る。$0_R$ が右吸収元であることを $a=0_L$ に適用すると $0_L\cdot 0_R=0_R$ を得る。左辺が同じ元であるから $0_L=0_R$ である。$\square$

吸収元の一意性

マグマは高々一つの吸収元しか持たない。

$0_1,0_2$ を吸収元とする。$0_1$ は特に左吸収元、$0_2$ は特に右吸収元であるから、prop-absorbing-element-left-right により $0_1=0_2$ である。$\square$

吸収元かつ単位元ならば一点マグマ

マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $0$ について次が成り立つ。

  1. $0$ が左吸収元かつ左単位元ならば $M=\{0\}$ である。
  2. $0$ が右吸収元かつ右単位元ならば $M=\{0\}$ である。
    特に、二元以上のマグマでは吸収元と単位元は常に異なる元である。
  1. $a\in M$ を任意にとる。左吸収元の性質から $0\cdot a=0$、左単位元の性質から $0\cdot a=a$ であるから $a=0$ である。$a$ は任意だったので $M=\{0\}$ である。
  2. $a\in M$ を任意にとる。右吸収元の性質から $a\cdot 0=0$、右単位元の性質から $a\cdot 0=a$ であるから $a=0$ であり、$M=\{0\}$ である。
    最後の主張を示す。$M$ が二元以上で、$0$ が吸収元、$e$ が単位元であるとする。もし $0=e$ ならば $0$ は左吸収元かつ左単位元となり、(1) により $M=\{0\}$ となって二元以上であることに反する。よって $0\neq e$ である。$\square$

補足:単位元との対比と環における零元

吸収元と単位元は定義の形が似ているため混同されやすい。次の表に違いをまとめる。

観点単位元 $e$吸収元 $0$
定義式$e\cdot a=a\cdot e=a$$0\cdot a=a\cdot 0=0$
相手の元への作用変えない潰して自分に戻す
左右の一致左単位元と右単位元があれば一致する左吸収元と右吸収元があれば一致する(prop-absorbing-element-left-right
一意性両側の単位元は高々一つ両側の吸収元は高々一つ(cor-absorbing-element-unique
$\langle\mathbb{R},\times\rangle$ での例$1$$0$
$\langle\mathbb{R},+\rangle$ での例$0$存在しない(rem-absorbing-element-counterexample

単位元側の二つの主張は次のように確かめられる。左単位元 $e_L$ と右単位元 $e_R$ があれば $e_L=e_L\cdot e_R=e_R$ である(最初の等号は $e_R$ が右単位元であること、次の等号は $e_L$ が左単位元であることによる)。特に両側の単位元 $e_1,e_2$ があれば $e_1=e_1\cdot e_2=e_2$ で一致する。吸収元側の証明と形が同じであることに注意する。
「零元」という語は、環の加法単位元 $0$ を指すことも多い。両者は次の意味で整合している。

環の加法単位元は乗法の吸収元である

$R$ を環(加法について可換群、乗法について結合的、両側分配法則を満たすもの。乗法単位元の存在は不要)とし、加法単位元を $0$ とする。このとき $0$ は乗法のマグマ $\langle R,\cdot\rangle$ の吸収元である。

$a\in R$ を任意にとる。$0=0+0$ と左分配法則から $0\cdot a=(0+0)\cdot a=0\cdot a+0\cdot a$ である。両辺に $0\cdot a$ の加法逆元を加えると $0=0\cdot a$ を得る。右分配法則を用いて同様に $a\cdot 0=a\cdot(0+0)=a\cdot 0+a\cdot 0$ から $a\cdot 0=0$ を得る。$\square$

関連項目

参考文献

[1]
John M. Howie, Fundamentals of Semigroup Theory, London Mathematical Society Monographs, New Series 12, Oxford University Press, 1995, §1.1(半群における零元・左零元・右零元の定義)

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