量子力学

同義語:Quantum mechanics

概要

量子力学(Quantum mechanics)とは、物理系の状態を複素Hilbert空間の射線または密度作用素で表し、観測量を自己共役作用素、測定確率をスペクトル測度、時間発展をユニタリ作用素で記述する理論である。有限次元系では固有空間への直交射影がBorn則を与え、時間に依存しない自己共役Hamilton作用素はユニタリ群を生成する。位置表示では波動関数はL²空間に属し、非有界作用素には定義域の指定が不可欠である。

$$\newcommand{C}[0]{\mathbb{C}} \newcommand{N}[0]{\mathbb{N}} \newcommand{Q}[0]{\mathbb{Q}} \newcommand{R}[0]{\mathbb{R}} \newcommand{Z}[0]{\mathbb{Z}} $$

前提知識: 複素数, 線形代数, Hilbert空間, 確率測度

状態・観測・時間発展

量子力学は、古典力学の状態を相空間の点で表す代わりに、複素Hilbert空間上の線形代数と作用素論を用いて物理系を記述する理論である。その数学的骨格は、状態、観測量、時間発展という三つの要素からなる。有限次元の場合には行列論だけで大部分を厳密に述べられるが、位置や運動量を扱うと無限次元Hilbert空間と非有界作用素が現れる。

純粋状態

複素Hilbert空間 $\mathcal H$ を系の状態空間とする。純粋状態(pure state)は $\mathcal H$ の1次元部分空間、すなわち非零ベクトル $\psi\in\mathcal H$ の射線
$$ [\psi]=\{c\psi\mid c\in\mathbb C,\ c\ne0\} $$
である。計算では通常、$\lVert\psi\rVert=1$ を満たす規格化代表を用いる。この代表は絶対値1の複素数倍だけ一意でない。

状態を単なるベクトルとせず射線とするのは、$\psi$ と $e^{i\theta}\psi$ がすべての測定確率について区別できないからである。係数 $e^{i\theta}$ を全体位相という。

密度作用素

$\mathcal H$ 上の密度作用素(density operator)とは、正作用素 $\rho$ で
$$ \operatorname{Tr}(\rho)=1 $$
を満たすトレース類作用素をいう。純粋状態 $[\psi]$ は、規格化代表に対する階数1直交射影
$$ \rho_\psi=|\psi\rangle\langle\psi| $$
で表される。一般の密度作用素は混合状態も表す。

観測量

観測量は $\mathcal H$ 上の自己共役作用素 $A$ で表す。$A$ が非有界である場合には、稠密な定義域 $D(A)\subset\mathcal H$ も作用素の一部であり、単に形式的な式だけを指定しても観測量を定めたことにはならない。

対称作用素と自己共役作用素は無限次元では同じではない。自己共役性はスペクトル定理を適用し、実数値の測定結果とユニタリ時間発展を得るための本質的な条件である。以下の一般形は RS80 に、有限次元での具体化は Hal13 に従う。

スペクトル測度によるBorn則

自己共役作用素 $A$ には、実数直線のBorel集合 $B$ に直交射影 $E_A(B)$ を対応させる射影値測度 $E_A$ が存在し、
$$ A=\int_{\mathbb R}\lambda\,dE_A(\lambda) $$
と表される。規格化された純粋状態 $\psi$ において、$A$ の測定値が $B$ に入る確率は
$$ \mathbb P_\psi^A(B)=\langle\psi,E_A(B)\psi\rangle $$
である。密度作用素 $\rho$ に対しては
$$ \mathbb P_\rho^A(B)=\operatorname{Tr}(\rho E_A(B)) $$
である。

スペクトル定理による射影値測度の存在証明は RS80 Chapter VII を参照する。ここでは、それが確率測度を与えることを確かめる。$E_A(B)$ は直交射影なので正作用素であり、従って $\langle\psi,E_A(B)\psi\rangle\ge0$ である。また $E_A(\mathbb R)=I$ だから全確率は $\langle\psi,\psi\rangle=1$ である。互いに素なBorel集合列 $(B_n)$ に対し、射影値測度の強作用素位相での可算加法性から
$$ \langle\psi,E_A(\bigcup_nB_n)\psi\rangle =\sum_n\langle\psi,E_A(B_n)\psi\rangle $$
を得る。密度作用素の場合、$\rho$ のスペクトル分解を
$$ \rho=\sum_k p_k|e_k\rangle\langle e_k|, \qquad p_k\ge0,\quad\sum_kp_k=1 $$
と書けば、$\operatorname{Tr}(\rho E_A(B))=\sum_kp_k\langle e_k,E_A(B)e_k\rangle$ である。各項が非負なので、互いに素な集合列に対する二重級数の和の順序を交換でき、可算加法性を得る。全確率は $\operatorname{Tr}(\rho)=1$ である。

有限次元でのBorn則

有限次元では、自己共役作用素 $A$ の相異なる固有値を $a_1,\ldots,a_r$、対応する固有空間への直交射影を $P_1,\ldots,P_r$ とすると
$$ A=\sum_{j=1}^r a_jP_j, \qquad I=\sum_{j=1}^rP_j $$
である。状態 $\psi$ で値 $a_j$ を得る確率は $\lVert P_j\psi\rVert^2$ になる。固有値が縮退していても、固有ベクトルを一つ選ぶのではなく固有空間全体への射影を使うので定義は基底に依存しない。

有限次元Born確率の規格化

$\lVert\psi\rVert=1$ とする。このとき各 $\lVert P_j\psi\rVert^2$ は非負であり、
$$ \sum_{j=1}^r\lVert P_j\psi\rVert^2=1 $$
が成り立つ。

直交射影の像は互いに直交し、$\psi=\sum_jP_j\psi$ である。Pythagorasの定理により
$$ 1=\lVert\psi\rVert^2 =\left\lVert\sum_jP_j\psi\right\rVert^2 =\sum_j\lVert P_j\psi\rVert^2 $$
を得る。各項はノルムの平方なので非負である。

全体位相の不変性

$|c|=1$ なら、$\psi$ と $c\psi$ は任意の観測量について同じBorn確率を与える。

任意のBorel集合 $B$ に対して
$$ \langle c\psi,E_A(B)c\psi\rangle =\overline c c\,\langle\psi,E_A(B)\psi\rangle =\langle\psi,E_A(B)\psi\rangle $$
である。従って測定確率は全体位相に依存しない。

期待値が定義できる状態では
$$ \mathbb E_\psi[A]=\langle\psi,A\psi\rangle, \qquad \mathbb E_\rho[A]=\operatorname{Tr}(\rho A) $$
となる。ただし非有界作用素について前者を書くには $\psi\in D(A)$ が必要であり、後者にも積のトレースが定義できるための条件が要る。

時間発展

Hamilton作用素

閉じた量子系のエネルギーを表す自己共役作用素 $H$ をHamilton作用素という。$H$ が時間に依存しないとき、時間発展は
$$ U(t)=\exp(-itH/\hbar) $$
で与えられ、初期状態 $\psi(0)$ は $\psi(t)=U(t)\psi(0)$ へ移る。

指数関数は有界作用素の冪級数という意味に限らず、自己共役作用素のスペクトル関数計算によって定義される。Stoneの定理は、強連続な1パラメータユニタリ群と自己共役生成作用素の対応を与える。時間に依存するHamilton作用素 $H(t)$ の発展は一般に単一の $\exp(-itH/\hbar)$ では書けず、追加の正則性条件や時間順序を伴う発展作用素が必要になる。

時間発展による規格化の保存

$H$ が自己共役で時間に依存しないなら、$U(t)=\exp(-itH/\hbar)$ はユニタリであり、
$$ \lVert U(t)\psi\rVert=\lVert\psi\rVert $$
である。

スペクトル関数計算により
$$ U(t)^*=\exp(itH/\hbar)=U(-t) $$
であり、$U(-t)U(t)=I$ である。従って
$$ \lVert U(t)\psi\rVert^2 =\langle\psi,U(t)^*U(t)\psi\rangle =\langle\psi,\psi\rangle $$
となる。

$\psi$ が $D(H)$ に属する場合、$\psi(t)$ はSchrödinger方程式
$$ i\hbar\frac{d}{dt}\psi(t)=H\psi(t) $$
を満たす。すべての状態に微分方程式を形式的に適用するのではなく、定義域と微分可能性を確認する必要がある。

位置表示と非有界作用素

1粒子が測度空間 $(X,\mu)$ を配置空間として動く場合、典型的な状態空間は $L^2(X,\mu)$ である。波動関数は点ごとの値ではなく、$\mu$-測度零集合上の違いを同一視した平方可積分関数の同値類である。$\lVert\psi\rVert_2=1$ のとき、位置が可測集合 $B\subset X$ に入る確率は
$$ \int_B|\psi(x)|^2\,d\mu(x) $$
で与えられる。
$X=\mathbb R$ では位置作用素と運動量作用素は形式的に
$$ (Q\psi)(x)=x\psi(x), \qquad (P\psi)(x)=-i\hbar\frac{d\psi}{dx}(x) $$
と書かれるが、どちらも一般に非有界である。特に $P$ の自己共役性は、定義域や境界条件に依存する。同じ微分式でも、区間上で課す境界条件を変えれば異なる作用素になり得る。
位置と運動量の交換関係は適切な共通定義域上で
$$ [Q,P]=QP-PQ=i\hbar I $$
となる。この式をHilbert空間全体の有界作用素の恒等式とみなしてはいけない。

例:無限深井戸

区間上のDirichlet Hamilton作用素

粒子を区間 $[-a,a]$ に閉じ込め、端点で波動関数が0になるDirichlet境界条件を課す。状態空間を $L^2([-a,a])$ とし、
$$ H=-\frac{\hbar^2}{2m}\frac{d^2}{dx^2} $$
を定義域 $H^2([-a,a])\cap H_0^1([-a,a])$ 上で考える。この作用素は自己共役であり、固有値は
$$ E_n=\frac{\pi^2\hbar^2n^2}{8ma^2}, \qquad n=1,2,3,\ldots $$
である。$n=0$ は零関数しか与えず、量子状態ではない。

無限深井戸の固有値

ex-infinite-well の固有値と規格化固有関数は
$$ E_n=\frac{\pi^2\hbar^2n^2}{8ma^2}, \qquad \psi_n(x)=\frac1{\sqrt a}\sin\!\left(\frac{n\pi(x+a)}{2a}\right) $$
($n\ge1$)である。

$H\psi=E\psi$ とおき、$k^2=2mE/\hbar^2$ とする。$E>0$ の場合の一般解は、左端での境界条件を組み込めば $\psi(x)=C\sin(k(x+a))$ である。右端の条件 $\psi(a)=0$ から $\sin(2ak)=0$、従って $k=n\pi/(2a)$ を得る。$n=0$ は $\psi=0$ しか与えないので除き、符号の重複を避けて $n\ge1$ とする。これを $E=\hbar^2k^2/(2m)$ に代入すれば固有値の式を得る。また
$$ \int_{-a}^a\sin^2\!\left(\frac{n\pi(x+a)}{2a}\right)dx=a $$
なので、係数 $1/\sqrt a$ により規格化される。$E=0$ の解は1次関数、$E<0$ の解は双曲線関数であるが、両端のDirichlet条件から非零解を持たない。

複合系と量子相関

二つの系の状態空間が $\mathcal H_A,\mathcal H_B$ なら、複合系の状態空間はHilbert空間のテンソル積 $\mathcal H_A\otimes\mathcal H_B$ である。単純テンソル $\psi_A\otimes\psi_B$ で表せない純粋状態をもつれ状態という。もつれは単なる古典的相関とは異なり、部分系の状態を密度作用素で扱う必要を生じさせる。

Bell状態

$\mathcal H_A=\mathcal H_B=\mathbb C^2$ とし、正規直交基底を $|0\rangle,|1\rangle$ とする。このとき
$$ |\Phi^+\rangle =\frac1{\sqrt2}(|0\rangle\otimes|0\rangle+|1\rangle\otimes|1\rangle) $$
は単純テンソルに分解できない。実際、係数を $2\times2$ 行列に並べると階数2である一方、単純テンソルの係数行列は階数1以下だからである。

射程と注意

本記事は非相対論的量子力学の数学的骨格を扱う。調和振動子や水素原子では、Schrödinger作用素の自己共役性、スペクトル、固有関数の完全性が中心問題になる。量子場理論では自由度が無限に増え、同値でない表現、作用素値超関数、繰り込みなど別の問題が現れるため、本記事の有限自由度の記述をそのまま移すことはできない。
古典的な表式では波動関数だけが強調されやすいが、抽象Hilbert空間の状態は特定の座標表示に依存しない。また、測定後の状態や開放系の発展を含む一般の測定理論では、射影値測度だけでなく正作用素値測度や完全正値写像を用いる。これらはBorn則の一般化であり、本記事の基本枠組みと区別して扱う。

関連項目

参考文献

[1]
Brian C. Hall, Quantum Theory for Mathematicians, Springer, 2013, Chapters 3–7, 10
[2]
Michael Reed and Barry Simon, Methods of Modern Mathematical Physics I: Functional Analysis, Academic Press, 1980, Chapters VII–VIII

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