Banach環とC*-環のスペクトル理論(spectral theory of Banach algebras and C*-algebras)とは、元 $a$ に対して $\lambda1-a$ が可逆でない複素数をスペクトルとして集め、代数構造・ノルム・対合の関係を調べる理論である。Banach環ではNeumann級数、スペクトル半径公式、Gelfand変換が基礎となり、C*-環では正規元のスペクトル半径がノルムに一致し、連続汎関数計算と可換Gelfand--Naimark定理へ進む。
前提知識: Banach空間, ノルム環, 複素解析, 有界線形作用素
有限次元行列では、$\lambda$ が固有値であることと $\lambda I-A$ が可逆でないことは同値である。無限次元では固有ベクトルが存在しなくても可逆性が壊れることがあるため、後者を定義として採用する。Banach環では完備性とNeumann級数がスペクトルを制御し、$C^*$-環では対合とノルムの関係がスペクトルをさらに剛直にする。
以下、$\mathcal A$ は $\|1\|=1$ を満たす単位元 $1$ をもつ、零環でない複素Banach環とする。積は可換とは仮定しない。
$a\in\mathcal A$ に対して
$$
\sigma_{\mathcal A}(a)
:=\{\lambda\in\mathbb C\mid \lambda1-a\text{ は }\mathcal A\text{ で可逆でない}\}
$$
を $a$ のスペクトル、$\rho_{\mathcal A}(a):=\mathbb C\setminus\sigma_{\mathcal A}(a)$ をレゾルベント集合という。また
$$
r_{\mathcal A}(a):=\sup\{|\lambda|\mid\lambda\in\sigma_{\mathcal A}(a)\}
$$
をスペクトル半径という。環が明らかなとき添字を省く。
スペクトルは環に依存する。同じ元をより大きい単位的Banach環へ埋め込むと、可逆性を判定する環が変わるためである。閉じた単位的部分環でスペクトルが一致するには、逆元閉性などの追加条件が必要になる。
$x\in\mathcal A$ が $\|x\|<1$ を満たすなら $1-x$ は可逆であり、
$$
(1-x)^{-1}=\sum_{n=0}^{\infty}x^n
$$
がノルム収束の意味で成り立つ。
$S_N:=\sum_{n=0}^Nx^n$ とおく。$M>N$ なら
$$
\|S_M-S_N\|
\leq\sum_{n=N+1}^M\|x\|^n
\leq\frac{\|x\|^{N+1}}{1-\|x\|},
$$
だから $(S_N)_N$ はCauchy列である。完備性により $S_N\to S\in\mathcal A$ となる。一方、有限等比級数の恒等式から
$$
(1-x)S_N=S_N(1-x)=1-x^{N+1}.
$$
$\|x^{N+1}\|\leq\|x\|^{N+1}\to0$ なので、積の連続性により $(1-x)S=S(1-x)=1$ である。したがって $S=(1-x)^{-1}$ である。
$\mathcal A^\times$ を可逆元全体とする。$b\in\mathcal A^\times$ かつ $\|h\|<\|b^{-1}\|^{-1}$ なら $b+h$ は可逆である。特に $\mathcal A^\times$ は開集合である。
$b+h=b(1+b^{-1}h)$ であり、$\|b^{-1}h\|<1$ である。Neumann級数を $-b^{-1}h$ に適用すると $1+b^{-1}h$ が可逆であるため、$b+h$ も可逆である。
任意の $a\in\mathcal A$ に対して $\sigma(a)$ は空でないコンパクト集合で、
$$
\sigma(a)\subset\{\lambda\in\mathbb C\mid |\lambda|\leq\|a\|\}
$$
を満たす。さらに
$$
r(a)=\lim_{n\to\infty}\|a^n\|^{1/n}
=\inf_{n\geq1}\|a^n\|^{1/n}
$$
が成り立つ。後者をGelfandのスペクトル半径公式という。
スペクトルの有界性はNeumann級数から、閉性は可逆元全体の開性から従う。非空性の証明はBanach空間値レゾルベント、Hahn--Banachの定理、Liouvilleの定理を用い、半径公式はレゾルベントのLaurent展開と劣乗法性を用いる。完全な証明は Mur90 §§1.2--1.3 を参照。本記事ではこれら二つの標準的な大定理の全証明を省略する。
スペクトル半径は常に $r(a)\leq\|a\|$ を満たすが、一般のBanach環では等号とは限らない。
$p\in\mathbb C[z]$ と $a\in\mathcal A$ に対して
$$
\sigma(p(a))=p(\sigma(a))
$$
が成り立つ。
$p$ が定数 $c$ なら両辺は $\{c\}$ なので、$p$ は非定数とする。$\mu\in\mathbb C$ に対し、代数学の基本定理により
$$
p(z)-\mu=c\prod_{j=1}^d(z-\lambda_j)
$$
と因数分解できる。したがって
$$
p(a)-\mu1=c\prod_{j=1}^d(a-\lambda_j1).
$$
右辺の各因子は互いに可換する。すべての因子が可逆なら積も可逆である。逆に、可換する有限個の因子の積が可逆なら、各因子は「残りの因子の積と積全体の逆元との積」を逆元にもつので可逆である。ゆえに $p(a)-\mu1$ が可逆でないことと、ある $j$ について $a-\lambda_j1$ が可逆でないことは同値である。後者は $\lambda_j\in\sigma(a)$、すなわち $\mu=p(\lambda_j)\in p(\sigma(a))$ と同値である。
$\mathcal A=\mathbb C[\varepsilon]/(\varepsilon^2)$ に
$$
\|\alpha+\beta\varepsilon\|:=|\alpha|+|\beta|
$$
を入れると単位的可換Banach環になる。$\varepsilon\neq0$ だが $\varepsilon^2=0$ なので、スペクトル半径公式から $r(\varepsilon)=0$ である。実際、$\lambda1-\varepsilon$ は $\lambda\neq0$ なら
$$
(\lambda1-\varepsilon)^{-1}=\lambda^{-1}1+\lambda^{-2}\varepsilon
$$
をもち、$\lambda=0$ では可逆でないため、$\sigma(\varepsilon)=\{0\}$ である。これは一般のBanach環で $r(a)=\|a\|$ とする主張への反例である。
ここからGelfand変換までは $\mathcal A$ が可換であると仮定する。
$\Delta(\mathcal A)$ を、非零な複素多元環準同型 $\varphi\colon\mathcal A\to\mathbb C$ 全体に弱*位相を入れた空間とする。$\varphi(1)=1$ であり、各指標は自動的に連続となる。$a\in\mathcal A$ に対して
$$
\widehat a\colon\Delta(\mathcal A)\to\mathbb C,
\qquad \widehat a(\varphi):=\varphi(a)
$$
を定める写像 $\Gamma\colon a\mapsto\widehat a$ をGelfand変換という。
$\mathcal A$ を単位的可換複素Banach環とする。このとき $\Delta(\mathcal A)$ は空でないコンパクトHausdorff空間であり、
$$
\Gamma\colon\mathcal A\to C(\Delta(\mathcal A))
$$
は単位的な連続多元環準同型である。さらに各 $a\in\mathcal A$ について
$$
\sigma(a)=\widehat a(\Delta(\mathcal A)),
\qquad
r(a)=\|\widehat a\|_\infty
$$
が成り立つ。
極大イデアルと指標の対応、指標の自動連続性、弱*コンパクト性、スペクトルの指標による特徴づけの証明は Mur90 §§1.3--1.4 を参照。本記事では省略する。一般の可換Banach環ではGelfand変換が単射または等長になるとは限らない。
上の双対数環 $\mathbb C[\varepsilon]/(\varepsilon^2)$ の任意の指標 $\varphi$ は
$$
\varphi(\varepsilon)^2=\varphi(\varepsilon^2)=0
$$
より $\varphi(\varepsilon)=0$ を満たす。実際、唯一の指標は $\varphi(\alpha+\beta\varepsilon)=\alpha$ である。したがって $\varepsilon\neq0$ だが $\widehat\varepsilon=0$ であり、Gelfand変換は単射でない。これは「可換Banach環なら常に連続関数環として忠実に実現できる」という主張への反例である。
複素Banach $*$-環 $\mathcal A$ が
$$
\|a^*a\|=\|a\|^2\qquad(a\in\mathcal A)
$$
を満たすとき $C^*$-環という。この等式を $C^*$-恒等式という。$a^*a=aa^*$ を満たす元を正規元、$a=a^*$ を満たす元を自己共役元、$u^*u=uu^*=1$ を満たす元をユニタリ元という。
二元群 $G=\{e,s\}$ の群環 $\ell^1(G)$ に畳み込み積と $f^*(g)=\overline{f(g^{-1})}$ を入れると、単位的Banach $*$-環である。$a(e)=1$、$a(s)=i$ とすると $\|a\|_1=2$ だが
$$
a^*\ast a=(2,0),\qquad \|a^*\ast a\|_1=2\neq4=\|a\|_1^2.
$$
したがって $C^*$-恒等式はBanach $*$-環の他の公理から自動的には従わない。
$\mathcal A$ を単位的 $C^*$-環、$a\in\mathcal A$ を正規元とする。このとき
$$
r(a)=\|a\|.
$$
正規元 $b$ に対して
$$
\|b^2\|^2
=\|(b^2)^*b^2\|
=\|(b^*)^2b^2\|
=\|(b^*b)^2\|
=\|b^*b\|^2
=\|b\|^4.
$$
ここで正規性により $b$ と $b^*$ を交換し、自己共役元 $b^*b$ に $C^*$-恒等式を適用した。ゆえに $\|b^2\|=\|b\|^2$ である。$a^{2^k}$ も正規元なので帰納的に
$$
\|a^{2^k}\|=\|a\|^{2^k}
$$
を得る。Gelfandのスペクトル半径公式の極限を部分列 $n=2^k$ に沿って取れば
$$
r(a)=\lim_{k\to\infty}\|a^{2^k}\|^{1/2^k}=\|a\|
$$
である。
$\mathcal A$ を単位的 $C^*$-環とする。
自己共役元とユニタリ元のスペクトル制限、および正規元が生成する可換 $C^*$-部分環にGelfand理論を適用して連続汎関数計算を構成する証明は Mur90 §§2.1--2.2 を参照。本記事では省略する。連続汎関数計算は正規元に対する結果であり、一般の非正規元に同じ $C(\sigma(a))$ 計算を仮定してはならない。
$\mathcal A$ が単位的可換 $C^*$-環なら、Gelfand変換は等長 $*$-同型
$$
\mathcal A\cong C(\Delta(\mathcal A))
$$
である。非単位的可換 $C^*$-環では、指標空間は局所コンパクトとなり、対応する形は $\mathcal A\cong C_0(\Delta(\mathcal A))$ である。
等長性には正規元のスペクトル半径公式、全射性には自己共役な点分離部分環に対するStone--Weierstrassの定理を用いる。非単位的な形では単位化と無限遠で消える関数を用いる。詳細は Mur90 §2.1 を参照。本記事では省略する。
単位的Banach環の任意の元 $a$ には、$\sigma(a)$ の近傍で正則な関数 $f$ に対してCauchy積分で $f(a)$ を定める正則汎関数計算がある。これはスペクトル写像定理を満たす。他方、スペクトル上の任意の連続関数を代入する計算は、上で述べたように $C^*$-環の正規元で得られる。正則関数と連続関数、一般元と正規元の二つの違いを混同してはならない。正則汎関数計算の構成と曲線独立性は Mur90 §1.5 を参照。
非単位的Banach環や非単位的 $C^*$-環の元のスペクトルは、通常は単位化の中で定義する。このとき $0$ の扱いと、元がもとの環で可逆か単位化で可逆かを明示する必要がある。近似単位元、正値元、射影、部分等長元、商 $C^*$-環、GNS構成は本記事のスペクトル理論を用いるが、それぞれ独立の主題である。
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