左逆元(left inverse element)とは、単位元 $e$ を持つマグマ $\langle M,\cdot,e\rangle$ の元 $x$ に対し、$y\cdot x=e$ を満たす元 $y$ のことである。単位元を指定して初めて定まる概念であり、結合律は仮定しない。左逆元は一意とは限らない。写像 $f\colon X\to Y$ の場合、$X\neq\emptyset$ ならば左逆写像を持つことと $f$ が単射であることは同値で、左逆写像全体は $Y\setminus f(X)$ から $X$ への写像全体と一対一に対応する。この構成に選択公理は要らない。
集合 $M$ と二項演算 $\cdot\colon M\times M\to M$ の組 $\langle M,\cdot\rangle$ をマグマ(magma)という。以下、結合律も可換律も仮定しない。マグマ $\langle M,\cdot\rangle$ の元 $e$ が任意の $x\in M$ に対して $e\cdot x=x\cdot e=x$ を満たすとき $e$ を単位元(identity element)といい、単位元をひとつ指定した組 $\langle M,\cdot,e\rangle$ を単位的マグマ(unital magma)という。単位元は存在すれば一意であり(この一意性は 単位元 が所有する)、結合律を満たす単位的マグマをモノイド(monoid)という。写像 $f\colon X\to Y$ が単射(injective)であるとは、$f(x)=f(x')$ ならば $x=x'$ となることをいう。
単位的マグマ $\langle M,\cdot,e\rangle$ の元 $x$ に対し、元 $y\in M$ が
$$
y\cdot x=e
$$
を満たすとき、$y$ を $x$ の左逆元(left inverse element)という。$x$ の左逆元全体の集合を $L(x)$ と書き、$L(x)\neq\emptyset$ であるとき $x$ は左可逆(left invertible)であるという。
対称的に、$x\cdot y=e$ を満たす元 $y$ を $x$ の右逆元(right inverse element)といい、左逆元かつ右逆元である元を $x$ の逆元(inverse element)という。左逆元・右逆元・逆元の三つを並べた定義と、それらの相互関係は 逆元 が所有する。
左逆元は単位元 $e$ に対して定まる概念であって、単位元を持たないマグマでは意味を持たない。どの単位元に関する左逆元かを言う必要があることについては rem-left-inverse-element-relative を見よ。
定義の等式 $y\cdot x=e$ には単位元 $e$ が現れる。単位元を持たないマグマでは、左逆元という語はそのままでは意味を持たない。単位元の代わりに左単位元(任意の $a$ に対して $e\cdot a=a$ を満たす元)を使って同じ形の定義を置くこともできるが、そのときは「どの左単位元に関する左逆元か」で語の意味が変わる。
実際、二つ以上の元を持つ集合 $M$ に $x\cdot y:=y$ で演算を入れると、$M$ のどの元も左単位元である(左単位元)。この演算では $y\cdot x=x$ なので、$e\in M$ を固定したとき $y\cdot x=e$ となるのは $x=e$ のときに限り、そのときは $M$ のすべての元が $x$ の左逆元になる。すなわち「左逆元を持つ元」は $e$ ただひとつであり、$e$ を別の左単位元に取り替えると、左逆元を持つ元の全体が丸ごと入れ替わる。単位的マグマでは単位元が一意なので、この曖昧さは生じない。
左逆元(left inverse element)は、左からかけると「何もしない元」に戻す元である。結合律を仮定しないので、左からかけたときの条件は右からかけたときの条件について何も述べていない。写像で言えば、$f\colon X\to Y$ の左逆写像とは $f$ で送った先から元の点へ引き戻す写像であり、その存在は $f$ が単射であることに対応する。$f$ の像に入らない点をどこへ送るかは自由に決めてよいので、左逆元は一般にひとつには定まらない。
モノイド $\langle\mathbb{Z},+,0\rangle$ では、整数 $n$ に対し $(-n)+n=0$ なので $-n$ は $n$ の左逆元である。これ以外に左逆元はない:$m+n=0$ ならば両辺に $-n$ を足して $m=-n$ である。
モノイド $\langle\mathbb{N},+,0\rangle$($\mathbb{N}=\{0,1,2,\dots\}$)では、$n\ge1$ は左逆元を持たない。$m+n=0$ かつ $n\ge1$ とすると $m+n\ge1$ となって矛盾するからである。$0$ は $0+0=0$ より左可逆である。
$X=\{0,1\}$、$Y=\{0,1,2\}$ とし、$\iota\colon X\to Y$ を $\iota(0)=0$、$\iota(1)=1$ で定める。$g\colon Y\to X$ が $g\circ\iota=\mathrm{id}_X$($X$ の恒等写像)を満たすことは、$g(0)=0$ かつ $g(1)=1$ であることと同値であり、$g(2)$ には制約がない。したがって $g(2)=0$ とするものと $g(2)=1$ とするものの二つがあり、それがすべてである。$\iota$ は単射だが全射でなく、左逆写像は一意でない。この個数が一般にどう決まるかは prop-left-inverse-element-count で述べる。
実行列 $A=\begin{pmatrix}1\\0\end{pmatrix}$($2$ 行 $1$ 列)と $B_t=\begin{pmatrix}1&t\end{pmatrix}$($1$ 行 $2$ 列、$t\in\mathbb{R}$)について
$$
B_tA=\begin{pmatrix}1\cdot1+t\cdot0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1\end{pmatrix}
$$
であり、$B_tA$ は $1$ 次の単位行列である。$t\neq t'$ なら $B_t\neq B_{t'}$ なので、$A$ にはこの形の左逆行列(left inverse matrix)が無限に多くある。行の数と列の数が違う行列どうしは積が定義されるとは限らないので、これは単位的マグマの元としての左逆元ではなく、$A$ が定める線型写像 $\mathbb{R}\to\mathbb{R}^2$、$s\mapsto(s,0)$ の左逆写像のうち線型なものを行列で表したものである。この線型写像は単射で全射でない。
四元集合 $M=\{e,a,b,c\}$(四つは相異なる)に、$e$ を単位元とし(すなわち任意の $z\in M$ に対し $e\cdot z=z\cdot e=z$)、
$$
b\cdot a=e,\qquad c\cdot a=e
$$
とし、残る七つの積 $a\cdot a$、$a\cdot b$、$a\cdot c$、$b\cdot b$、$b\cdot c$、$c\cdot b$、$c\cdot c$ をすべて $a$ と定める。$M\times M$ の $16$ 個の対すべてに値がひとつずつ与えられているので、これは二項演算であり、$\langle M,\cdot,e\rangle$ は単位的マグマである。
この $M$ の元 $a$ は性質 $P$「左逆元を持つ」を満たす($b\cdot a=e$)。しかし性質 $Q$「左逆元をちょうどひとつ持つ」を満たさない。実際 $c\cdot a=e$ かつ $b\neq c$ であり、$e\cdot a=a\neq e$、$a\cdot a=a\neq e$ だから $L(a)=\{b,c\}$ である。さらに $a\cdot e=a$、$a\cdot a=a$、$a\cdot b=a$、$a\cdot c=a$ よりすべての $y\in M$ で $a\cdot y=a\neq e$ であり、$a$ は右逆元を持たない。したがって含意 $P\Rightarrow Q$、すなわち「単位的マグマの元が左逆元を持つならば、その左逆元はただひとつである」は偽である。
この演算は結合的でない:$(b\cdot a)\cdot b=e\cdot b=b$ であるのに対し $b\cdot(a\cdot b)=b\cdot a=e$ であり、$b\neq e$ である。ただし、左逆元が一意でないのは結合律がないことだけによるのではない。写像の合成は定義される範囲で結合的だが、ex-left-inverse-element-inclusion の $\iota$ は左逆写像を二つ持つ(一般の場合は prop-left-inverse-element-count)。
ex-left-inverse-element-inclusion の $\iota\colon\{0,1\}\to\{0,1,2\}$ は性質 $P$「左逆写像を持つ」を満たす。しかし性質 $Q$「右逆写像を持つ、すなわち $\iota\circ s=\mathrm{id}_Y$ を満たす $s\colon Y\to X$ がある」を満たさない。もしそのような $s$ があれば $2=\iota(s(2))$ となるが、$\iota$ の値は $0$ か $1$ なので矛盾する。したがって含意 $P\Rightarrow Q$ は偽である。破れているのは全射性であって、$\iota$ の像 $\{0,1\}$ は $Y$ 全体ではない。
同じことは ex-left-inverse-element-matrix の $A$ でも起こる。$1$ 行 $2$ 列の行列 $C=\begin{pmatrix}c_1&c_2\end{pmatrix}$ に対し
$$
AC=\begin{pmatrix}c_1&c_2\\0&0\end{pmatrix}
$$
の $(2,2)$ 成分は $0$ なので、$AC$ が $2$ 次の単位行列になることはない。すなわち $A$ は左逆行列を持つが右逆行列を持たない。
$X\neq\emptyset$ とし、$f\colon X\to Y$ を写像とする。このとき、$f$ が単射であることと、$g\circ f=\mathrm{id}_X$ を満たす写像 $g\colon Y\to X$ が存在することは同値である。このような $g$ を $f$ の左逆写像(left inverse map)という。
本命題は 単射 の記事の命題の再掲であり、証明はそちらを参照する。
$f\colon\emptyset\to Y$ を空写像とする。$f$ は単射である。一方、$g\circ f=\mathrm{id}_\emptyset$ を満たす写像 $g\colon Y\to\emptyset$ が存在することと $Y=\emptyset$ であることは同値である。したがって $Y\neq\emptyset$ のとき、$f$ は単射だが左逆写像を持たない。
本命題も 単射 の記事の命題の再掲であり、証明はそちらを参照する。
prop-left-inverse-element-injective により $G\neq\emptyset$ である。
単射性。$g,g'\in G$ が $g|_R=g'|_R$ を満たすとする。$y\in f(X)$ ならば $y=f(x)$ なる $x$ が取れ、$g(y)=g(f(x))=x=g'(f(x))=g'(y)$ である。$y\in R$ ならば仮定より $g(y)=g'(y)$ である。$Y=f(X)\cup R$ は互いに素な合併なので $g=g'$ である。
全射性。$h\in X^R$ を任意に取る。$y\in f(X)$ に対しては $f(x)=y$ なるただひとつの $x$ を、$y\in R$ に対しては $h(y)$ を対応させて $g\colon Y\to X$ を定める。$f$ の単射性により $y\in f(X)$ に対応する $x$ は一意に定まるので、これは写像として定まり、$g\circ f=\mathrm{id}_X$ を満たすので $g\in G$ であり、$g|_R=h$ である。
一意性の条件。いま示した全単射により、$G$ がちょうどひとつの元からなることと $X^R$ がそうであることは同値である。$X\neq\emptyset$ のもとで $X^R$ がちょうどひとつの元からなるのは、$R=\emptyset$(このとき $X^R$ の元は空写像だけ)であるか、$X$ が一元集合である(このとき $R$ の各点の行き先が一通りしかない)ときであり、かつそのときに限る。実際 $R\neq\emptyset$ かつ $X$ に相異なる二元 $x_1\neq x_2$ があれば、$R$ の元 $y_0$ をひとつ取り、$y_0$ での値だけが異なる二つの写像を作れる。$R=\emptyset$ は $f(X)=Y$、すなわち $f$ が全射であることにほかならない。$\square$
モノイド $\langle M,\cdot,e\rangle$ の元 $x$ が左逆元を持つならば、左移動 $\lambda_x\colon M\to M$、$\lambda_x(a):=x\cdot a$ は単射である。すなわち $x\cdot a=x\cdot b$ ならば $a=b$ である。
$y\cdot x=e$ とする。$x\cdot a=x\cdot b$ の両辺に左から $y$ をかけると $y\cdot(x\cdot a)=y\cdot(x\cdot b)$ であり、結合律から $(y\cdot x)\cdot a=(y\cdot x)\cdot b$、すなわち $e\cdot a=e\cdot b$ となる。$e$ は単位元だから $a=b$ である。$\square$
モノイド $\langle M,\cdot,e\rangle$ の左可逆な元全体の集合を $M_L$ とする。$e\in M_L$ であり、$x,x'\in M_L$ ならば $x\cdot x'\in M_L$ である。より詳しく、$y\cdot x=e$ かつ $y'\cdot x'=e$ ならば $(y'\cdot y)\cdot(x\cdot x')=e$ である。
$e\cdot e=e$ なので $e$ は自分自身の左逆元を持ち、$e\in M_L$ である。$y\cdot x=e$、$y'\cdot x'=e$ とすると、結合律をくり返し使って
$$
(y'\cdot y)\cdot(x\cdot x')=y'\cdot\bigl((y\cdot x)\cdot x'\bigr)=y'\cdot(e\cdot x')=y'\cdot x'=e
$$
である。よって $y'\cdot y$ は $x\cdot x'$ の左逆元であり、$x\cdot x'\in M_L$ である。$\square$
右からかける条件 $x\cdot y=e$ で定まる概念が右逆元である。モノイドでは、元 $x$ が左逆元と右逆元をともに持つならば両者は一致し、それが $x$ のただひとつの逆元になる。この主張と証明は 逆元 が所有しており、本記事では再掲しない。したがって群のようにすべての元が逆元を持つ代数系では左逆元・右逆元・逆元の区別は消え、左右を分けて考える必要が生じるのは、逆元を持たない元があるモノイドや、結合律のない単位的マグマを扱うときである。
左と右は形の上では対称だが、写像の言葉に直すと事情が違う。単射 の記事にある左逆写像の構成は、像の点についてはただひとつの原像を、像に入らない点については固定した元を対応させるという式で書き下されており、無限個の選択を同時に行っていない。すなわち左逆写像の構成に選択公理は要らない。本記事の他の証明も、prf-left-inverse-element-count を含めてすべて同じ形の書き下しだけを使っており、選択公理を用いていない。これに対して、全射から右逆写像を作る操作は各点の原像から代表を選ぶことになり、事情が異なる。単射 の記事(右逆写像と選択公理)を参照。
左逆元の存在が単射性と結びつくことは、写像の外でも見える。prop-left-inverse-element-cancel は、モノイドで $x$ が左可逆ならば左移動 $\lambda_x$ が単射であることを述べており、prop-left-inverse-element-injective の代数版にあたる。逆に左移動が単射でも $x$ が左可逆とは限らない(たとえば ex-left-inverse-element-number のモノイド $\langle\mathbb{N},+,0\rangle$ では、$n\ge1$ に対し $\lambda_n$ は単射だが $n$ は左可逆でない)ので、この対応は一方向である。
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