行列の演算(matrix operations)とは、数を長方形に並べた行列の和・実数倍・積の計算規則と、その性質のことである。和は同じ位置の成分どうしの和、積 $AB$ は $A$ の列の数と $B$ の行の数が等しいときに限り、$(i,k)$ 成分を $\sum_j a_{ij}b_{jk}$($A$ の第 $i$ 行と $B$ の第 $k$ 列の内積)として定める。積は結合法則と分配法則を満たすが、一般に $AB\ne BA$ であり、$O$ でない 2 つの行列の積が $O$ になることもある。2 次正方行列 $A=\begin{pmatrix}a&b\\c&d\end{pmatrix}\ne O$ は、$ad-bc\ne0$ なら逆行列をもち、$ad-bc=0$ なら $O$ でない行列と掛けて $O$ になる零因子で、その一方だけが起こる。
前提知識: 総和記号, ベクトルの内積(高校数学)
数を長方形に並べた表は、身近なところに多くある。表どうしを足したり、表と表を組み合わせて新しい表を作ったりする計算を、決まった規則で行えるようにしたものが 行列 の計算である。まず、表の計算を 2 つ見る。
2 つの店(店 1、店 2)で、3 種類の商品(パン、おにぎり、弁当)が売れた個数を、1 週目と 2 週目に分けて表にする。
| 1 週目 | パン | おにぎり | 弁当 |
|---|---|---|---|
| 店 1 | $3$ | $5$ | $2$ |
| 店 2 | $4$ | $1$ | $6$ |
| 2 週目 | パン | おにぎり | 弁当 |
| --- | --- | --- | --- |
| 店 1 | $2$ | $4$ | $1$ |
| 店 2 | $3$ | $0$ | $5$ |
2 週間の合計は、同じ場所どうしを足した表になる。店 1 のパンは $3+2=5$、店 2 の弁当は $6+5=11$ などで
$$
\begin{pmatrix}3&5&2\\4&1&6\end{pmatrix}+\begin{pmatrix}2&4&1\\3&0&5\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}5&9&3\\7&1&11\end{pmatrix}
$$
である。1 週目の個数がそのまま 2 倍に増えたら、各場所を 2 倍した表 $\begin{pmatrix}6&10&4\\8&2&12\end{pmatrix}$ になる。
ex-mop-sum-table の 1 週目の個数の表を $A$ とする。商品 1 個あたりの価格と利益(円)が次の表 $P$ のとおりだとする。
| 価格 | 利益 | |
|---|---|---|
| パン | $120$ | $30$ |
| おにぎり | $80$ | $20$ |
| 弁当 | $150$ | $40$ |
店 1 の売上は、店 1 の個数($A$ の第 1 行 $3,5,2$)と各商品の価格($P$ の第 1 列 $120,80,150$)を、先頭から順に掛けて足したもので
$$
3\times120+5\times80+2\times150=360+400+300=1060
$$
円である。店 1 の利益は、同じ第 1 行と $P$ の第 2 列(利益)から $3\times30+5\times20+2\times40=90+100+80=270$ 円である。店 2 についても、$A$ の第 2 行 $4,1,6$ を使って、売上 $4\times120+1\times80+6\times150=480+80+900=1460$ 円、利益 $4\times30+1\times20+6\times40=120+20+240=380$ 円となる。結果を表にすると
$$
\begin{pmatrix}3&5&2\\4&1&6\end{pmatrix}\begin{pmatrix}120&30\\80&20\\150&40\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1060&270\\1460&380\end{pmatrix}
$$
である(図1)。左の表の「行」と右の表の「列」を組み合わせて 1 つの数を作る。これが行列の積である。
個数の表 $A$ と価格・利益の表 $P$ から売上・利益の表 $AP$ を作る計算。$AP$ の左上の数は、$A$ の第 1 行(青)と $P$ の第 1 列(赤)を先頭から順に掛けて足したものであることを見る図。
2 つの例から、次の問いが出てくる。
| 手で行う計算 | この記事での言葉 | ボックス |
|---|---|---|
| 同じ場所どうしを足す | 行列の和 | def-mop-sum |
| 行と列を掛けて足す | 行列の積 | def-mop-product |
| 計算の順序を変えても同じ | 結合法則・分配法則 | thm-mop-associative |
| $AB$ と $BA$ は違う | 積の非可換性 | ex-mop-noncommutative |
| 割り算の代わり | 逆行列と $ad-bc$ | thm-mop-inverse-or-zero-divisor |
$m$ 個の行と $n$ 個の列に、$mn$ 個の実数を長方形に並べて括弧でくくったものを、$m\times n$ 行列($m$ 行 $n$ 列の行列)という。上から $i$ 番目の行(第 $i$ 行)と左から $j$ 番目の列(第 $j$ 列)の交わる位置の数を $(i,j)$ 成分 という。行列 $A$ の $(i,j)$ 成分を $a_{ij}$ と書き、$A=(a_{ij})$ とも書く。
$A=(a_{ij})$、$B=(b_{ij})$ を同じ型(ともに $m\times n$)の行列、$k$ を実数とする。
$$
A+B:=(a_{ij}+b_{ij}),\qquad A-B:=(a_{ij}-b_{ij}),\qquad kA:=(ka_{ij})
$$
と定める。つまり、和・差は同じ位置の成分どうしの和・差、実数倍は各成分の $k$ 倍である。型の違う行列の和は定めない。
和と実数倍は成分ごとの計算なので、数の足し算の性質がそのまま成り立つ。同じ型の行列 $A,B,C$ と実数 $k,l$ について、$A+B=B+A$、$(A+B)+C=A+(B+C)$、$A+O=A$、$A+(-1)A=O$、$k(A+B)=kA+kB$、$(k+l)A=kA+lA$ である。どれも、両辺の $(i,j)$ 成分を比べると、数の計算の法則(たとえば $a_{ij}+b_{ij}=b_{ij}+a_{ij}$)そのものになる。
ex-mop-sales の計算を、一般の形で定める。
$A=(a_{ij})$ を $m\times n$ 行列、$B=(b_{jk})$ を $n\times p$ 行列とする($A$ の列の数と $B$ の行の数が等しい)。$m\times p$ 行列 $AB$ を、その $(i,k)$ 成分が
$$
(AB)_{ik}:=a_{i1}b_{1k}+a_{i2}b_{2k}+\dots+a_{in}b_{nk}=\sum_{j=1}^{n}a_{ij}b_{jk}
$$
であるものとして定め、$A$ と $B$ の 積 という。$A$ の列の数と $B$ の行の数が異なるときは、積 $AB$ を定めない。
$(AB)_{ik}$ は、$A$ の第 $i$ 行 $(a_{i1},\dots,a_{in})$ と $B$ の第 $k$ 列 $(b_{1k},\dots,b_{nk})$ を先頭から順に掛けて足したものである。2 つを $n$ 個の成分をもつベクトルと見ると、これは内積であり、$n=2,3$ のときは ベクトルの内積(高校数学) の成分による内積の式と同じ形である。$A$ の列の数と $B$ の行の数が等しいという条件は、掛け合わせる 2 つの並びの長さがそろっていることを言っている。
なぜ積をこのように定めるのか。もう 1 つの理由は、1 次式の代入である。
$u,v$ が $x,y$ の 1 次式で $u=2x+y$、$v=x+3y$ と表され、さらに $x,y$ が $s,t$ の 1 次式で $x=s-t$、$y=2s+t$ と表されているとする。$u,v$ を $s,t$ で表すと
$$
u=2(s-t)+(2s+t)=4s-t,\qquad v=(s-t)+3(2s+t)=7s+2t
$$
である。係数だけを並べると、$u,v$ を $x,y$ で表す係数は $\begin{pmatrix}2&1\\1&3\end{pmatrix}$、$x,y$ を $s,t$ で表す係数は $\begin{pmatrix}1&-1\\2&1\end{pmatrix}$、$u,v$ を $s,t$ で表す係数は $\begin{pmatrix}4&-1\\7&2\end{pmatrix}$ である。一方、積を計算すると
$$
\begin{pmatrix}2&1\\1&3\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1&-1\\2&1\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}2+2&-2+1\\1+6&-1+3\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}4&-1\\7&2\end{pmatrix}
$$
で、一致する。「代入してまとめる」計算が、ちょうど行列の積になっている。
実際、$u$ の式の $s$ の係数 $4$ は、「$u$ の $x$ の係数 $2$」×「$x$ の $s$ の係数 $1$」+「$u$ の $y$ の係数 $1$」×「$y$ の $s$ の係数 $2$」である。これは、左の行列の第 1 行と右の行列の第 1 列の内積である。
1 次式の代入は、平面の点を点に移す 1 次変換の合成でもある。この見方は 1次変換と行列式:面積の拡大率 で扱う。
数の掛け算では $(ab)c=a(bc)$ なので、括弧を省いて $abc$ と書ける。行列の積でも同じことが成り立つ。
積が定まる型の行列 $A,B,C$ と実数 $k$ について、次が成り立つ。
方針:両辺の $(i,l)$ 成分を、積の定義(def-mop-product)で和の形に書き、同じ数の和になっていることを確かめる。
段 1(左辺の成分)。$AB$ は $m\times p$ 行列で、その $(i,k)$ 成分は $\sum_{j=1}^{n}a_{ij}b_{jk}$ である。これと $C$ の積 $(AB)C$ の $(i,l)$ 成分は、$AB$ の第 $i$ 行と $C$ の第 $l$ 列から
$$
\bigl((AB)C\bigr)_{il}=\sum_{k=1}^{p}(AB)_{ik}\,c_{kl}=\sum_{k=1}^{p}\Bigl(\sum_{j=1}^{n}a_{ij}b_{jk}\Bigr)c_{kl}=\sum_{k=1}^{p}\sum_{j=1}^{n}a_{ij}b_{jk}c_{kl}
$$
である。最後の等号では、括弧の中の各項に $c_{kl}$ を掛けた(数の分配法則)。
段 2(右辺の成分)。$BC$ の $(j,l)$ 成分は $\sum_{k=1}^{p}b_{jk}c_{kl}$ なので、同じように
$$
\bigl(A(BC)\bigr)_{il}=\sum_{j=1}^{n}a_{ij}(BC)_{jl}=\sum_{j=1}^{n}a_{ij}\Bigl(\sum_{k=1}^{p}b_{jk}c_{kl}\Bigr)=\sum_{j=1}^{n}\sum_{k=1}^{p}a_{ij}b_{jk}c_{kl}
$$
である。
段 3(足す順序を入れ替える)。段 1 と段 2 はどちらも、$j=1,\dots,n$ と $k=1,\dots,p$ のすべての組 $(j,k)$ について $a_{ij}b_{jk}c_{kl}$ を足したものである。段 1 は「$k$ を決めて $j$ について足し、それを $k$ について足す」、段 2 は「$j$ を決めて $k$ について足し、それを $j$ について足す」順序で足している。$np$ 個の数を縦 $n$ 行・横 $p$ 列の表に並べたとき、列ごとに足してから合計しても、行ごとに足してから合計しても、全体の和は同じである。よって $\bigl((AB)C\bigr)_{il}=\bigl(A(BC)\bigr)_{il}$ で、すべての $(i,l)$ で成分が等しいから $(AB)C=A(BC)$ である。
段 4(分配法則)。$\bigl(A(B+C)\bigr)_{ik}=\sum_{j}a_{ij}(b_{jk}+c_{jk})=\sum_{j}a_{ij}b_{jk}+\sum_{j}a_{ij}c_{jk}=(AB)_{ik}+(AC)_{ik}$ である。2 つ目の等号は、和を 2 つに分けた(数の分配法則と、足す順序の入れ替え)。$(A+B)C=AC+BC$ も同じように、$\sum_j(a_{ij}+b_{ij})c_{jk}=\sum_ja_{ij}c_{jk}+\sum_jb_{ij}c_{jk}$ から出る。
段 5(実数倍)。$\bigl((kA)B\bigr)_{ik}=\sum_j(ka_{ij})b_{jk}=k\sum_ja_{ij}b_{jk}=k(AB)_{ik}$、$\bigl(A(kB)\bigr)_{ik}=\sum_ja_{ij}(kb_{jk})=k(AB)_{ik}$ である。$\square$
一般の型の行列についての同じ証明は、Bee15 の Theorem MMA(pp. 141–142)にもある。
$A=\begin{pmatrix}1&2\\0&1\end{pmatrix}$、$B=\begin{pmatrix}1&0\\3&1\end{pmatrix}$、$C=\begin{pmatrix}2&1\\1&1\end{pmatrix}$ とする。ex-mop-product の 1 から $AB=\begin{pmatrix}7&2\\3&1\end{pmatrix}$ なので
$$
(AB)C=\begin{pmatrix}7\cdot2+2\cdot1&7\cdot1+2\cdot1\\3\cdot2+1\cdot1&3\cdot1+1\cdot1\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}16&9\\7&4\end{pmatrix}.
$$
一方、$BC=\begin{pmatrix}1\cdot2+0\cdot1&1\cdot1+0\cdot1\\3\cdot2+1\cdot1&3\cdot1+1\cdot1\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}2&1\\7&4\end{pmatrix}$ なので
$$
A(BC)=\begin{pmatrix}1\cdot2+2\cdot7&1\cdot1+2\cdot4\\0\cdot2+1\cdot7&0\cdot1+1\cdot4\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}16&9\\7&4\end{pmatrix}.
$$
2 つは一致する。prf-thm-mop-associative の段 3 の和で見ると、たとえば $(1,1)$ 成分は $a_{1j}b_{jk}c_{k1}$ を 4 つの組 $(j,k)=(1,1),(1,2),(2,1),(2,2)$ について足した $1\cdot1\cdot2+1\cdot0\cdot1+2\cdot3\cdot2+2\cdot1\cdot1=2+0+12+2=16$ である。
結合法則のおかげで、$ABC$ のように括弧を省いて書いてよい。数の $1$ にあたる行列も用意しておく。
$n$ 次正方行列で、$(i,i)$ 成分(左上から右下への対角線上の成分)がすべて $1$、それ以外の成分がすべて $0$ のものを $n$ 次の単位行列 といい、$E$(大きさを示すときは $E_n$)と書く(単位行列)。たとえば $E_2=\begin{pmatrix}1&0\\0&1\end{pmatrix}$ である。
$n$ 次正方行列 $A$ と正の整数 $r$ に対し、$A^1:=A$、$A^{r+1}:=A^rA$ と定めて、$A$ の $r$ 乗 という。$A^0:=E$ とする。
$m\times n$ 行列 $A$ について $AE_n=A$、$E_mA=A$ である。実際、$(AE_n)_{ik}=\sum_{j}a_{ij}e_{jk}$ で、$e_{jk}$ は $j=k$ のとき $1$、それ以外は $0$ なので、和の中で残るのは $j=k$ の項 $a_{ik}\cdot1$ だけである。$E_mA=A$ も同じように確かめられる。また、結合法則から $A^rA^s=A^{r+s}$ が $s$ についての帰納法で示せる($s=1$ は定義そのもので、$A^rA^{s+1}=A^r(A^sA)=(A^rA^s)A=A^{r+s}A=A^{r+s+1}$)。
$A=\begin{pmatrix}1&2\\0&1\end{pmatrix}$ とすると
$$
A^2=\begin{pmatrix}1&2\\0&1\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1&2\\0&1\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1&4\\0&1\end{pmatrix},\qquad A^3=A^2A=\begin{pmatrix}1&4\\0&1\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1&2\\0&1\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1&6\\0&1\end{pmatrix}
$$
である。$A^r=\begin{pmatrix}1&2r\\0&1\end{pmatrix}$ と予想でき、$r$ についての帰納法で示せる。$A^r$ がこの形なら $A^{r+1}=A^rA=\begin{pmatrix}1\cdot1+2r\cdot0&1\cdot2+2r\cdot1\\0&1\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1&2(r+1)\\0&1\end{pmatrix}$ だからである。
数では $ab=ba$ である。行列では、これが成り立たない。
順序を変えてもよい組もある。どんな $n$ 次正方行列 $A$ も $E$ と交換できる($AE=EA=A$)。$A$ と $A^2$ も交換できる(結合法則から $A\cdot A^2=A^3=A^2\cdot A$)。しかし、すべての行列と交換できる行列は、ごく限られる。
2 次正方行列 $X$ が、すべての 2 次正方行列 $Y$ について $XY=YX$ を満たすための必要十分条件は、ある実数 $k$ について $X=kE$ となることである。
方針:十分性は計算で確かめる。必要性は、$Y$ として成分が 1 か所だけ $1$ の行列を 2 つ選び、$XY=YX$ を成分で比べる。
段 1(十分性)。$X=kE$ なら、thm-mop-associative の 3 と $EY=YE=Y$ から、$XY=(kE)Y=k(EY)=kY$、$YX=Y(kE)=k(YE)=kY$ で等しい。
段 2(1 つ目の行列と比べる)。$X=\begin{pmatrix}p&q\\r&s\end{pmatrix}$ が、すべての $Y$ と交換できるとする。$Y_1=\begin{pmatrix}0&1\\0&0\end{pmatrix}$ とすると
$$
XY_1=\begin{pmatrix}0&p\\0&r\end{pmatrix},\qquad Y_1X=\begin{pmatrix}r&s\\0&0\end{pmatrix}
$$
である。$XY_1=Y_1X$ の成分を比べると、$(1,1)$ 成分から $r=0$、$(1,2)$ 成分から $p=s$ である。
段 3(2 つ目の行列と比べる)。$Y_2=\begin{pmatrix}0&0\\1&0\end{pmatrix}$ とすると
$$
XY_2=\begin{pmatrix}q&0\\s&0\end{pmatrix},\qquad Y_2X=\begin{pmatrix}0&0\\p&q\end{pmatrix}
$$
である。$(1,1)$ 成分から $q=0$ である。
段 4。段 2・段 3 から $q=r=0$、$s=p$ なので、$X=\begin{pmatrix}p&0\\0&p\end{pmatrix}=pE$ である。$\square$
交換できないことから、数の展開公式もそのままでは使えない。
同じ型の正方行列 $A,B$ について、分配法則(thm-mop-associative の 2)を 2 回使うと
$$
(A+B)^2=(A+B)(A+B)=A(A+B)+B(A+B)=A^2+AB+BA+B^2
$$
である。数なら $AB+BA=2AB$ とまとめられるが、行列ではまとめられない。
$A=\begin{pmatrix}1&2\\0&1\end{pmatrix}$、$B=\begin{pmatrix}1&0\\3&1\end{pmatrix}$ で確かめる。$A+B=\begin{pmatrix}2&2\\3&2\end{pmatrix}$ なので
$$
(A+B)^2=\begin{pmatrix}2\cdot2+2\cdot3&2\cdot2+2\cdot2\\3\cdot2+2\cdot3&3\cdot2+2\cdot2\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}10&8\\12&10\end{pmatrix}
$$
である。一方、$A^2=\begin{pmatrix}1&4\\0&1\end{pmatrix}$(ex-mop-powers)、$B^2=\begin{pmatrix}1&0\\6&1\end{pmatrix}$、$AB=\begin{pmatrix}7&2\\3&1\end{pmatrix}$ から
$$
A^2+2AB+B^2=\begin{pmatrix}1+14+1&4+4+0\\0+6+6&1+2+1\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}16&8\\12&4\end{pmatrix}
$$
で、$(A+B)^2$ と一致しない。$BA=\begin{pmatrix}1&2\\3&7\end{pmatrix}$(ex-mop-noncommutative)を使った $A^2+AB+BA+B^2=\begin{pmatrix}1+7+1+1&4+2+2+0\\0+3+3+6&1+1+7+1\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}10&8\\12&10\end{pmatrix}$ とは一致する。$A$ と $B$ が交換できる($AB=BA$)ときは、数と同じ $A^2+2AB+B^2$ になる。
数では、$ab=0$ なら $a=0$ か $b=0$ である。行列では、これも成り立たない。
$Z=\begin{pmatrix}1&2\\2&4\end{pmatrix}$、$W=\begin{pmatrix}2&-4\\-1&2\end{pmatrix}$ とする。どちらも $O$ でないが
$$
ZW=\begin{pmatrix}1\cdot2+2\cdot(-1)&1\cdot(-4)+2\cdot2\\2\cdot2+4\cdot(-1)&2\cdot(-4)+4\cdot2\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0&0\\0&0\end{pmatrix}=O
$$
である。順序を逆にすると $WZ=\begin{pmatrix}2-8&4-16\\-1+4&-2+8\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}-6&-12\\3&6\end{pmatrix}\ne O$ で、$ZW=O$ でも $WZ=O$ とは限らない。
この例から、「両辺を同じ行列で割る」ことができないことも分かる。$C=E+W=\begin{pmatrix}3&-4\\-1&3\end{pmatrix}$ とすると、分配法則から $ZC=ZE+ZW=Z+O=Z=ZE$ である。$ZC=ZE$ だが $C\ne E$ であり、左から掛けた $Z$ を「約分」することはできない。
満たす性質:$Z\ne O$、$W\ne O$。破る主張:数の性質「$ab=0$ ならば $a=0$ または $b=0$」と、「$a\ne0$ で $ab=ac$ ならば $b=c$」。
なぜこうなるのかは、$Z$ の列を見ると分かる。$Z$ の第 2 列 $\begin{pmatrix}2\\4\end{pmatrix}$ は第 1 列 $\begin{pmatrix}1\\2\end{pmatrix}$ の $2$ 倍である。$Z$ に縦のベクトル $\begin{pmatrix}x\\y\end{pmatrix}$ を掛けると $\begin{pmatrix}x+2y\\2x+4y\end{pmatrix}=(x+2y)\begin{pmatrix}1\\2\end{pmatrix}$ となり、結果はいつも直線 $y=2x$ の上のベクトルで、$x+2y=0$ を満たすベクトルは $\vec 0$ に移る。$W$ の 2 つの列 $\begin{pmatrix}2\\-1\end{pmatrix}$、$\begin{pmatrix}-4\\2\end{pmatrix}$ はどちらも $x+2y=0$ を満たすので、$ZW$ の 2 つの列(def-mop-product から、$Z$ と $W$ の各列の積)はどちらも $\vec 0$ になる(図2)。
行列 $Z$(第 1 行が $1,2$、第 2 行が $2,4$)を掛けると、どのベクトルも直線 $y=2x$(青)の上に移り、直線 $x+2y=0$(赤)の上のベクトルは $\vec 0$ に移る。$W$ の 2 つの列が赤の直線の上にあるので $ZW=O$ になることを見る図。
このような行列に名前をつけておく。
2 次正方行列 $A$ で、$A\ne O$ であり、$AB=O$ または $BA=O$ を満たす $B\ne O$ があるものを、零因子 という(零因子)。
ex-mop-nilpotent の $N$、$M$($B$ として自分自身をとる)と、ex-mop-zero-product の $Z$、$W$ は零因子である。$E$ は零因子ではない。$EB=B$ と $BE=B$ なので、$B\ne O$ なら $EB\ne O$、$BE\ne O$ だからである。大学の代数学では、$O$ 自身も零因子に含める流儀もある(零因子 の記事を参照)。
数 $a\ne0$ には、$aa^{-1}=1$ となる逆数 $a^{-1}$ があり、これで割り算ができる。行列で逆数にあたるものを定める。
$n$ 次正方行列 $A$ に対し、$AX=XA=E$ と $AY=YA=E$ がともに成り立てば、$X=Y$ である。
方針:$X$ に $E=AY$ を掛けた式を、結合法則で括弧をつけ替えて計算する。
$E$ を掛けても変わらないことと $AY=E$、結合法則(thm-mop-associative の 1)、$XA=E$ を順に使うと
$$
X=XE=X(AY)=(XA)Y=EY=Y
$$
である。$\square$
2 次正方行列 $A=\begin{pmatrix}a&b\\c&d\end{pmatrix}$ に対し、$\widetilde A:=\begin{pmatrix}d&-b\\-c&a\end{pmatrix}$ とおく(対角線上の $a,d$ を入れ替え、残りの $b,c$ の符号を変えたもの)。この行列が、逆行列と零因子の両方の鍵になる。
$A=\begin{pmatrix}a&b\\c&d\end{pmatrix}$ を $O$ でない 2 次正方行列とする。
方針:恒等式 $A\widetilde A=\widetilde AA=(ad-bc)E$ を計算し、$ad-bc$ が $0$ かどうかで場合を分ける。3 は、零因子の式に逆行列を掛けて矛盾を出す。
段 1(恒等式)。積の定義から
$$
A\widetilde A=\begin{pmatrix}a&b\\c&d\end{pmatrix}\begin{pmatrix}d&-b\\-c&a\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}ad-bc&-ab+ba\\cd-dc&-cb+da\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}ad-bc&0\\0&ad-bc\end{pmatrix}=(ad-bc)E
$$
である。順序を逆にすると
$$
\widetilde AA=\begin{pmatrix}d&-b\\-c&a\end{pmatrix}\begin{pmatrix}a&b\\c&d\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}da-bc&db-bd\\-ca+ac&-cb+ad\end{pmatrix}=(ad-bc)E
$$
である。
段 2(1 の証明)。$ad-bc\ne0$ とし、$X:=\frac1{ad-bc}\widetilde A$ とおく。thm-mop-associative の 3 と段 1 から、$AX=\frac1{ad-bc}(A\widetilde A)=\frac1{ad-bc}(ad-bc)E=E$、同じように $XA=E$ である。よって $X$ は $A$ の逆行列である。
段 3(2 の証明)。$ad-bc=0$ とする。段 1 から $A\widetilde A=\widetilde AA=0\cdot E=O$ である。$\widetilde A$ の成分は $d,-b,-c,a$ で、$A\ne O$ から $a,b,c,d$ のどれかは $0$ でないので、$\widetilde A\ne O$ である。$A\ne O$ でもあるので、$A$ は零因子である(def-mop-zero-divisor で $B=\widetilde A$ とする)。
段 4(3 の証明)。$A$ が正則で、$B\ne O$ について $AB=O$ となったとする。左から $A^{-1}$ を掛けて結合法則を使うと
$$
B=EB=(A^{-1}A)B=A^{-1}(AB)=A^{-1}O=O
$$
となり(どんな行列に $O$ を掛けても、積の成分はすべて $0$ の和なので $O$ である)、$B\ne O$ に反する。$BA=O$ のときも、右から $A^{-1}$ を掛けて $B=B(AA^{-1})=(BA)A^{-1}=OA^{-1}=O$ となり、矛盾する。
段 5(まとめ)。$A\ne O$ とする。$ad-bc\ne0$ なら 1 から正則で、3 から零因子でない。$ad-bc=0$ なら 2 から零因子で、3 から正則でない。よって正則か零因子のどちらか一方であり、正則であることと $ad-bc\ne0$ は同値である。$\square$
$ad-bc$ を $A$ の 行列式 といい、$\det A$ と書く。行列式が「平面の図形の面積を何倍にするか」を表すことは、1次変換と行列式:面積の拡大率 で扱う。図2 の $Z$ は $\det Z=1\cdot4-2\cdot2=0$ で、平面全体を直線 $y=2x$ につぶしてしまう。つぶれた情報は戻せないので、逆行列がない。
$Z=\begin{pmatrix}1&2\\2&4\end{pmatrix}$ では $ad-bc=4-4=0$ なので、thm-mop-inverse-or-zero-divisor の 2 により $\widetilde Z=\begin{pmatrix}4&-2\\-2&1\end{pmatrix}$ について $Z\widetilde Z=O$ となるはずである。実際
$$
Z\widetilde Z=\begin{pmatrix}1\cdot4+2\cdot(-2)&1\cdot(-2)+2\cdot1\\2\cdot4+4\cdot(-2)&2\cdot(-2)+4\cdot1\end{pmatrix}=O
$$
である。$\widetilde Z$ の 2 つの列 $\begin{pmatrix}4\\-2\end{pmatrix}$、$\begin{pmatrix}-2\\1\end{pmatrix}$ も、図2 の赤の直線 $x+2y=0$ の上にある。ex-mop-zero-product の $W$ とは別の相手であり、$Z$ と掛けて $O$ になる相手は 1 つではない。
逆行列があれば、数と同じように「約分」ができる。
$A$ を正則な $n$ 次正方行列とする。
方針:どちらも、式の左から $A^{-1}$ を掛けて結合法則を使う。
1。$AB=AC$ の両辺に左から $A^{-1}$ を掛けると $A^{-1}(AB)=A^{-1}(AC)$ である。結合法則から $(A^{-1}A)B=(A^{-1}A)C$、すなわち $EB=EC$ で、$B=C$ である。
2。$\vec x=A^{-1}\vec v$ とおくと $A\vec x=A(A^{-1}\vec v)=(AA^{-1})\vec v=E\vec v=\vec v$ なので、解である。逆に $A\vec x=\vec v$ なら、左から $A^{-1}$ を掛けて $\vec x=E\vec x=(A^{-1}A)\vec x=A^{-1}(A\vec x)=A^{-1}\vec v$ である。よって解はただ 1 つである。$\square$
実数の計算で成り立つ性質のうち、行列では崩れるものを表にする。どれも、2 次正方行列の範囲で反例がある。
| 実数での性質 | 行列での反例 | ボックス |
|---|---|---|
| $ab=ba$ | $AB\ne BA$ | ex-mop-noncommutative |
| $(a+b)^2=a^2+2ab+b^2$ | $(A+B)^2\ne A^2+2AB+B^2$ | ex-mop-expansion |
| $a^2=0$ ならば $a=0$ | $N^2=O$、$N\ne O$ | ex-mop-nilpotent |
| $ab=0$ ならば $a=0$ または $b=0$ | $ZW=O$、$Z\ne O$、$W\ne O$ | ex-mop-zero-product |
| $a\ne0$ で $ab=ac$ ならば $b=c$ | $ZC=ZE$、$C\ne E$ | ex-mop-zero-product |
| $a\ne0$ ならば逆数がある | $Z\ne O$ だが逆行列がない | ex-mop-singular |
| $x^2=1$ の解は $x=\pm1$ だけ | $X^2=E$ の解は無数にある | ex-mop-square-root |
実数 $t$ に対し $X_t=\begin{pmatrix}1&t\\0&-1\end{pmatrix}$ とすると
$$
X_t^2=\begin{pmatrix}1\cdot1+t\cdot0&1\cdot t+t\cdot(-1)\\0\cdot1+(-1)\cdot0&0\cdot t+(-1)(-1)\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1&0\\0&1\end{pmatrix}=E
$$
である。$t$ はどんな実数でもよいので、$X^2=E$ を満たす $X$ は $\pm E$ のほかに無数にある。
数の場合の証明「$x^2-1=(x-1)(x+1)=0$ だから $x=1$ または $x=-1$」は、行列では 1 か所で崩れる。$X^2-E=(X-E)(X+E)$ の展開は $X$ と $E$ が交換できるので正しいが、「積が $O$ ならどちらかが $O$」が成り立たない(ex-mop-zero-product)。実際 $X_t-E=\begin{pmatrix}0&t\\0&-2\end{pmatrix}$、$X_t+E=\begin{pmatrix}2&t\\0&0\end{pmatrix}$ はどちらも $O$ でないが、積は $O$ である。
表の計算としての行列は、いろいろな「数え上げ」にも使える。点と線の図(グラフ)で、点 $i$ と点 $j$ を結ぶ線の本数を $(i,j)$ 成分に並べた行列を $A$ とすると、$A^r$ の成分が「$r$ 本の線をたどる道順の数」を数える。これは 隣接行列と道の数 で扱う。漸化式を行列の累乗で解く方法は 漸化式の行列表示 で、行列の積が面積をどう変えるかは 1次変換と行列式:面積の拡大率 で扱う。
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