内積(inner product)とは、実または複素ベクトル空間 $V$ 上の写像 $\langle\cdot,\cdot\rangle\colon V\times V\to F$ であって、第 1 変数について線形、共役対称、正定値であるものをいう。実内積は正定値な対称双線形形式、複素内積は正定値な Hermite 形式である。$\mathbb{R}^n$ の $\sum_kx_ky_k$ や連続関数の $\int f\bar g$ が代表例である。内積は Cauchy–Schwarz の不等式 $|\langle x,y\rangle|\le\|x\|\|y\|$ を満たし、$\|x\|=\sqrt{\langle x,x\rangle}$ でノルムと距離を、$\langle x,y\rangle=0$ で直交を定める。極化恒等式により内積はそのノルムから一意に復元される。
前提知識: ベクトル空間, 実数, 複素数, 複素共役
内積は、ベクトル空間の 2 つのベクトルから 1 つのスカラーを作る演算であり、「掛けて足す」という数ベクトルの計算を公理化したものである。ベクトル空間の公理は足し算とスカラー倍しか定めないが、内積を 1 つ指定すると長さ・距離・直交・角度が定まる。本記事は内積という二項形式そのもの、すなわち公理、実と複素の違い、例と反例、Cauchy–Schwarzの不等式、内積から定まるノルム、極化恒等式、直交性の基本を扱う。内積を備えた空間の理論(正規直交系、Gram–Schmidtの直交化、直交射影、完備化)は 内積空間 と Hilbert空間 の記事に譲る。
以下、$F$ は実数体 $\mathbb{R}$ または複素数体 $\mathbb{C}$ を表す。$a\in F$ に対し $\bar a$ で $a$ の複素共役($F=\mathbb{R}$ のときは $\bar a=a$)、$|a|$ で絶対値、$\operatorname{Re}a$ で実部を表す。
$V$ を $F$ 上のベクトル空間とする。写像 $\langle\cdot,\cdot\rangle\colon V\times V\to F$ が次の 4 条件を満たすとき、$\langle\cdot,\cdot\rangle$ を $V$ 上の内積(inner product)といい、$\langle x,y\rangle$ を $x$ と $y$ の内積という。
$F=\mathbb{R}$ では条件 2 は対称性 $\langle y,x\rangle=\langle x,y\rangle$ になり、条件 1 とあわせて $\langle\cdot,\cdot\rangle$ は両方の変数について線形、すなわち双線形形式である。したがって実内積とは正定値な対称双線形形式にほかならない。$F=\mathbb{C}$ では条件 1 と 2 から、第 2 変数については $\langle x,ay+bz\rangle=\bar a\langle x,y\rangle+\bar b\langle x,z\rangle$ という共役線形性が従う(prop-inner-product-basic)。第 1 変数に線形、第 2 変数に共役線形な写像を半双線形形式、さらに共役対称なものを Hermite形式 という。したがって複素内積とは正定値な Hermite 形式である。$\langle x,iy\rangle=-i\langle x,y\rangle$ であるから、$\langle x,y\rangle\ne0$ となる $x,y$ が存在すれば複素内積は双線形形式ではない。
内積の記号には $\langle x,y\rangle$ のほか $(x,y)$、$(x\mid y)$、$x\cdot y$ などが使われる。複素内積をどちらの変数について線形にするかは分野によって異なり、本記事と Axl15 は第 1 変数について線形とする。物理学や作用素環論では第 2 変数について線形(第 1 変数について共役線形)とする流儀が多く、Dirac の記法 $\langle x\mid y\rangle$ はこの流儀である。2 つの流儀は $\langle x,y\rangle$ と $\langle y,x\rangle$ を入れ替えることで互いに翻訳でき、Cauchy–Schwarz の不等式・ノルム・直交性はどちらの流儀でも同じ内容になる。ただし極化恒等式(prop-inner-product-polarization)のように $i$ の冪が現れる式は、流儀により $i$ と $-i$ が入れ替わる。
$\langle\cdot,\cdot\rangle$ を $V$ 上の内積とする。$x\in V$ に対し、条件 3 により非負実数 $\langle x,x\rangle$ の平方根がとれるので
$$
\|x\|:=\sqrt{\langle x,x\rangle}
$$
と定め、これを $x$ のノルム(長さ)という。また $x,y\in V$ が $\langle x,y\rangle=0$ を満たすとき、$x$ と $y$ は直交するといい $x\perp y$ と書く。$\|\cdot\|$ がノルムの公理を満たすことは thm-inner-product-norm で示す。
$\mathbb{R}^n$ の 2 つのベクトル $x,y$ に対する $\sum_kx_ky_k$ は、$x=y$ のとき長さの 2 乗になり、$x$ と $y$ が垂直なとき $0$ になる。内積の公理は、この「掛けて足す」演算の代数的性質のうち、長さと直交を定めるのに必要なものだけを取り出したものである。線形性は分配法則にあたり、内積を座標の計算に還元できることを保証する。正定値性は、$\langle x,x\rangle$ が「長さの 2 乗」として振る舞い、零ベクトル以外は正の長さをもつことを保証する。
複素ベクトル空間で共役が必要になるのは、$\langle x,x\rangle$ を実数にするためである。$\mathbb{C}$ 上で共役なしに $\langle x,y\rangle=xy$ とすると $\langle i,i\rangle=-1$ となり長さが定まらないが、$\langle x,y\rangle=x\bar y$ とすれば $\langle x,x\rangle=|x|^2\ge0$ である。この共役の代償として、複素内積は第 2 変数について線形ではなく共役線形になる。内積の理論のほとんどは実と複素で共通だが、rem-inner-product-real-complex で述べるように、複素の場合にだけ成り立つ事実($\langle x,x\rangle$ が常に実数なら自動的に共役対称)と、実の場合にだけ成り立つ事実(三平方の定理の逆)がある。
$F^n$ の元 $x=(x_1,\ldots,x_n)$、$y=(y_1,\ldots,y_n)$ に対し
$$
\langle x,y\rangle:=\sum_{k=1}^{n}x_k\overline{y_k}
$$
と定める。これは $F^n$ 上の内積であり、標準内積($F=\mathbb{R}$ のときは Euclid 内積、ドット積 $x\cdot y$、$F=\mathbb{C}$ のときは標準 Hermite 内積)という。実際、条件 1 は $\sum_k(ax_k+bx'_k)\overline{y_k}=a\sum_kx_k\overline{y_k}+b\sum_kx'_k\overline{y_k}$ から、条件 2 は $\overline{\sum_kx_k\overline{y_k}}=\sum_k\overline{x_k}y_k=\sum_ky_k\overline{x_k}$ から従う。$\langle x,x\rangle=\sum_k|x_k|^2$ は非負実数であり、これが $0$ なら各 $|x_k|^2=0$、すなわち $x=0$ である。ノルムは $\|x\|=\sqrt{\sum_k|x_k|^2}$ で、$\mathbb{R}^2$、$\mathbb{R}^3$ では通常の長さである。$x,y$ を列ベクトルとみなすと $\langle x,y\rangle=y^{*}x$($y^{*}$ は $y$ の共役転置、$F=\mathbb{R}$ なら転置 $y^{\mathsf{T}}$)と書ける。標準基底 $e_1,\ldots,e_n$ は $\langle e_i,e_j\rangle=\delta_{ij}$(Kroneckerのデルタ)を満たし、互いに直交する単位ベクトルである。
$n$ 次正方行列 $A=(a_{ij})$ に対し
$$
s_A(x,y):=y^{*}Ax=\sum_{i,j=1}^{n}a_{ij}\,x_j\,\overline{y_i}\qquad(x,y\in F^n)
$$
と定める。$A$ が単位行列なら標準内積である。$w_1,\ldots,w_n>0$ に対し $A=\operatorname{diag}(w_1,\ldots,w_n)$ とすると $s_A(x,y)=\sum_kw_kx_k\overline{y_k}$ となり、これは内積である(重み付き内積)。実際、条件 1・2 は標準内積と同様であり、$s_A(x,x)=\sum_kw_k|x_k|^2$ は $x\ne0$ なら正である。$A=\begin{pmatrix}2&1\\1&1\end{pmatrix}$ のとき $s_A(x,y)=2x_1\overline{y_1}+x_2\overline{y_1}+x_1\overline{y_2}+x_2\overline{y_2}$ であり、$s_A(x,x)=2|x_1|^2+2\operatorname{Re}(x_1\overline{x_2})+|x_2|^2=|x_1+x_2|^2+|x_1|^2$ は $x\ne0$ なら正、また $A$ は対称なので、これも内積である。一般に $s_A$ が内積であることと $A$ が Hermite行列($A^{*}=A$)かつ正定値行列であることは同値であり、$F^n$ 上のすべての内積がこの形に書けることを prop-inner-product-gram で示す。
閉区間 $[a,b]$($a< b$)上の $F$ に値をとる連続関数全体 $C([a,b])$ に
$$
\langle f,g\rangle:=\int_a^bf(t)\overline{g(t)}\,dt
$$
と定めると内積である。条件 1・2 は積分の線形性と $\overline{\int h}=\int\bar h$ から従い、$\langle f,f\rangle=\int_a^b|f(t)|^2dt\ge0$ である。定値性は、連続関数 $f\ne0$ に対し $|f|^2$ がある点で正、したがってその点を含むある小区間で正の定数以上になることから従う(詳細は 内積空間 の記事の例「連続関数の空間」を参照)。この内積は無限次元のベクトル空間上の内積の代表例であり、Fourier級数の出発点になる。標準内積の和 $\sum_k$ を積分 $\int$ に置き換えたものとみることができる。
$V$ を複素ベクトル空間、$\langle\cdot,\cdot\rangle$ を $V$ 上の複素内積とする。$V$ をスカラーを実数に制限して実ベクトル空間 $V_{\mathbb{R}}$ とみなし、
$$
\langle x,y\rangle_{\mathbb{R}}:=\operatorname{Re}\langle x,y\rangle
$$
と定めると、これは $V_{\mathbb{R}}$ 上の実内積であり、定めるノルムはもとのノルムと一致する。実際、$a,b\in\mathbb{R}$ に対し $\operatorname{Re}\langle ax+by,z\rangle=\operatorname{Re}(a\langle x,z\rangle+b\langle y,z\rangle)=a\operatorname{Re}\langle x,z\rangle+b\operatorname{Re}\langle y,z\rangle$ であり($a,b$ が実数であることを使った)、$\operatorname{Re}\langle y,x\rangle=\operatorname{Re}\overline{\langle x,y\rangle}=\operatorname{Re}\langle x,y\rangle$ であり、$\langle x,x\rangle$ はもともと非負実数なので $\langle x,x\rangle_{\mathbb{R}}=\langle x,x\rangle$ である。たとえば $\mathbb{C}^n$ の標準内積の実部は、$z_k=a_k+ib_k$、$w_k=c_k+id_k$ とおくと $\operatorname{Re}\sum_kz_k\overline{w_k}=\sum_k(a_kc_k+b_kd_k)$ となり、$\mathbb{C}^n$ を $\mathbb{R}^{2n}$ と同一視したときの標準内積である。虚部は $\operatorname{Im}\langle x,y\rangle=\operatorname{Re}\langle x,iy\rangle$ により実部から復元できる($\langle x,iy\rangle=\bar i\langle x,y\rangle=-i\langle x,y\rangle$ の実部は $\operatorname{Im}\langle x,y\rangle$ である)。
$\mathbb{R}^2$ 上で $b(x,y):=x_1y_1+x_1y_2+x_2y_2$ と定める。$b$ は双線形であり(各項が $x$ の成分と $y$ の成分の積なので、条件 1 と第 2 変数の線形性が成り立つ)、
$$
b(x,x)=x_1^2+x_1x_2+x_2^2=\Bigl(x_1+\frac{x_2}{2}\Bigr)^2+\frac{3}{4}x_2^2
$$
は $x\ne0$ なら正である。すなわち $b$ は条件 1・3・4 を満たす。しかし $b(e_1,e_2)=1$、$b(e_2,e_1)=0$ なので条件 2(対称性)を満たさず、内積ではない。この例は、実ベクトル空間上では「双線形かつ正定値ならば対称」という含意が成り立たないことを示す。複素ベクトル空間上の半双線形形式では、対応する含意が成り立つ(prop-inner-product-hermitian-auto)。これが実と複素の重要な違いである。
$\mathbb{R}^2$ 上で $\varphi(x,y):=\|x\|\,\|y\|$($\|\cdot\|$ は標準内積のノルム)と定める。$\varphi$ は対称であり、$\varphi(x,x)=\|x\|^2$ は $x\ne0$ なら正なので条件 2・3・4 を満たす。しかし $\varphi(e_1+e_2,e_1)=\sqrt2$、$\varphi(e_1,e_1)+\varphi(e_2,e_1)=1+1=2$ なので加法性が成り立たず、条件 1 を満たさない。したがって内積ではない。この例が破るのは「対称かつ正定値ならば線形」という含意であり、線形性が他の条件から従わないことを示す。
条件 1・2 を満たすが正定値性を欠く形式の代表は次の 3 つである。いずれも 内積空間 の記事の注意「反例」で詳しく扱われているので、ここでは破る条件だけを記す。
$\langle\cdot,\cdot\rangle$ を $V$ 上の内積とする。任意の $x,y,z\in V$、$a,b\in F$ について次が成り立つ。
1 を示す。条件 2、条件 1、複素共役が和と積を保つことにより
$$
\langle x,ay+bz\rangle=\overline{\langle ay+bz,x\rangle}=\overline{a\langle y,x\rangle+b\langle z,x\rangle}=\bar a\,\overline{\langle y,x\rangle}+\bar b\,\overline{\langle z,x\rangle}=\bar a\langle x,y\rangle+\bar b\langle x,z\rangle
$$
である。$F=\mathbb{R}$ では $\bar a=a$、$\bar b=b$ である。
2 を示す。条件 1 により $\langle0,x\rangle=\langle0\cdot x,x\rangle=0\cdot\langle x,x\rangle=0$ であり、条件 2 により $\langle x,0\rangle=\overline{\langle0,x\rangle}=\bar0=0$ である。
3 を示す。条件 1 と本命題の 1 により $\langle ax,ax\rangle=a\langle x,ax\rangle=a\bar a\langle x,x\rangle=|a|^2\|x\|^2$ であり、両辺の非負の平方根をとれば $\|ax\|=|a|\|x\|$ である。
4 を示す。条件 1 と本命題の 1 により $\langle x+y,x+y\rangle=\langle x,x\rangle+\langle x,y\rangle+\langle y,x\rangle+\langle y,y\rangle$ であり、条件 2 により $\langle x,y\rangle+\langle y,x\rangle=\langle x,y\rangle+\overline{\langle x,y\rangle}=2\operatorname{Re}\langle x,y\rangle$ である。5 は 4 で $\langle x,y\rangle=0$ とおけばよい。$\square$
$\langle\cdot,\cdot\rangle$ を $V$ 上の内積とする。任意の $x,y\in V$ について
$$
|\langle x,y\rangle|\le\|x\|\,\|y\|
$$
が成り立つ。等号が成り立つのは、$x$ と $y$ が線形従属である、すなわち一方が他方のスカラー倍であるとき、かつそのときに限る。
$\langle x,y\rangle=0$ なら左辺は $0$、右辺は非負なので不等式は成り立つ。以下 $\langle x,y\rangle\ne0$ とする。このとき prop-inner-product-basic の 2 により $y\ne0$ であり、条件 4 により $\|y\|>0$ である。
$c:=\langle x,y\rangle/|\langle x,y\rangle|$ とおく。$|c|=1$ であり、$\bar c\langle x,y\rangle=|\langle x,y\rangle|^2/|\langle x,y\rangle|=|\langle x,y\rangle|$ である。また条件 2 により $c\langle y,x\rangle=c\,\overline{\langle x,y\rangle}=\overline{\bar c\langle x,y\rangle}=|\langle x,y\rangle|$ である。実数 $t$ に対し、条件 1 と prop-inner-product-basic の 1 により
$$
f(t):=\|x-tcy\|^2=\langle x,x\rangle-t\bar c\langle x,y\rangle-tc\langle y,x\rangle+t^2c\bar c\langle y,y\rangle=\|x\|^2-2t|\langle x,y\rangle|+t^2\|y\|^2
$$
であり、条件 3 により $f(t)\ge0$ がすべての実数 $t$ について成り立つ。とくに $t_0:=|\langle x,y\rangle|/\|y\|^2$ を代入すると
$$
0\le f(t_0)=\|x\|^2-\frac{2|\langle x,y\rangle|^2}{\|y\|^2}+\frac{|\langle x,y\rangle|^2}{\|y\|^2}=\|x\|^2-\frac{|\langle x,y\rangle|^2}{\|y\|^2}
$$
である。両辺に $\|y\|^2>0$ を掛けて $|\langle x,y\rangle|^2\le\|x\|^2\|y\|^2$ を得、両辺の非負の平方根をとれば不等式が従う。($t_0$ は 2 次関数 $f$ の最小点であり、$f(t_0)\ge0$ は $f$ の判別式が $0$ 以下であることと同じ内容である。)
等号について。まず $|\langle x,y\rangle|=\|x\|\|y\|$ と仮定する。$\langle x,y\rangle=0$ なら $\|x\|\|y\|=0$ であるから $x=0$ または $y=0$ であり、$0=0\cdot y$、$0=0\cdot x$ により $x,y$ は線形従属である。$\langle x,y\rangle\ne0$ なら、上の計算で $f(t_0)=\|x\|^2-|\langle x,y\rangle|^2/\|y\|^2=0$ であるから、条件 4 により $x-t_0cy=0$、すなわち $x=(t_0c)y$ であり、$x$ は $y$ のスカラー倍である。逆に $x=ay$($a\in F$)なら、条件 1 と prop-inner-product-basic の 3 により $|\langle x,y\rangle|=|a|\,|\langle y,y\rangle|=|a|\|y\|^2=\|ay\|\|y\|=\|x\|\|y\|$ である。$y=ax$ の場合も同様である。$\square$
上の証明で条件 4 を使ったのは、$\langle x,y\rangle\ne0$ から $\|y\|>0$ を導く箇所と、等号条件の箇所だけである。条件 4 を仮定せず(半正定値の形式について)$\|y\|=0$ の場合は、$f(t)=\|x\|^2-2t|\langle x,y\rangle|\ge0$ がすべての実数 $t$ について成り立つことから $\langle x,y\rangle=0$ でなければならない(そうでなければ $t\to+\infty$ で $f(t)<0$ となる)。したがって不等式 $|\langle x,y\rangle|\le\|x\|\|y\|$ 自体は条件 1・2・3 だけから従う。ただし等号条件は成り立たない($\mathbb{R}^2$ 上の $x_1y_1$ で $x=e_2$、$y=e_1+e_2$ をとると両辺 $0$ だが線形独立である)。
Cauchy–Schwarz の不等式には、$x$ から $y$ 方向の成分を引いて三平方の定理を使う証明もあり、内積空間 の記事の定理「内積のCauchy–Schwarz不等式」がそれを与える。実数列 $\sum a_kb_k$ についての初等的な証明は 不等式 の記事の定理「実数列のCauchy–Schwarzの不等式」が扱う。名称については Cauchy–Schwarzの不等式 を参照。
$\langle\cdot,\cdot\rangle$ を $V$ 上の内積とし、$\|x\|:=\sqrt{\langle x,x\rangle}$ とおく。任意の $x,y\in V$、$a\in F$ について次が成り立つ。
1 を示す。$\|x\|\ge0$ は平方根の定義による。$\|x\|=0$ は $\langle x,x\rangle=0$ と同値であり、条件 4 によりこれは $x=0$ を導く。逆に $x=0$ なら prop-inner-product-basic の 2 により $\langle0,0\rangle=0$ である。2 は prop-inner-product-basic の 3 である。
3 を示す。prop-inner-product-basic の 4、複素数の実部が絶対値以下であること $\operatorname{Re}w\le|w|$、および thm-inner-product-cauchy-schwarz により
$$
\|x+y\|^2=\|x\|^2+2\operatorname{Re}\langle x,y\rangle+\|y\|^2\le\|x\|^2+2|\langle x,y\rangle|+\|y\|^2\le\|x\|^2+2\|x\|\|y\|+\|y\|^2=(\|x\|+\|y\|)^2
$$
である。両辺は非負なので平方根をとって $\|x+y\|\le\|x\|+\|y\|$ を得る。
等号について。$\|x+y\|=\|x\|+\|y\|$ が成り立つのは上の 2 つの不等号がともに等号のとき、すなわち $\operatorname{Re}\langle x,y\rangle=|\langle x,y\rangle|$ かつ $|\langle x,y\rangle|=\|x\|\|y\|$ のときである。$y=0$ ならこれは成り立ち、$y=0\cdot x$ である。$y\ne0$ のとき、thm-inner-product-cauchy-schwarz の等号条件により $x=ay$ となる $a\in F$ が存在し、$\langle x,y\rangle=a\|y\|^2$ である。$\operatorname{Re}(a\|y\|^2)=|a|\|y\|^2$ と $\|y\|^2>0$ から $\operatorname{Re}a=|a|$、すなわち $a$ は非負実数である。逆に $x=ay$($a\ge0$)なら、2 により $\|x+y\|=\|(a+1)y\|=(a+1)\|y\|=a\|y\|+\|y\|=\|x\|+\|y\|$ である。$y=ax$($a\ge0$)の場合も同様である。
4 を示す。3 により $\|x\|=\|(x-y)+y\|\le\|x-y\|+\|y\|$ であるから $\|x\|-\|y\|\le\|x-y\|$ である。$x$ と $y$ を入れ替えると $\|y\|-\|x\|\le\|y-x\|=\|x-y\|$(2 で $a=-1$)であり、あわせて 4 を得る。
最後に $d$ が距離であることを確かめる。$d(x,y)=\|x-y\|\ge0$ であり、$d(x,y)=0$ と $x-y=0$ は 1 により同値である。$d(y,x)=\|y-x\|=\|(-1)(x-y)\|=\|x-y\|=d(x,y)$ は 2 による。$d(x,z)=\|(x-y)+(y-z)\|\le\|x-y\|+\|y-z\|=d(x,y)+d(y,z)$ は 3 による。$\square$
$\langle\cdot,\cdot\rangle$ を $V$ 上の内積、$\|\cdot\|$ をそれが定めるノルムとする。任意の $x,y\in V$ について次が成り立つ。
prop-inner-product-basic の 4 を $y$ の代わりに $\lambda y$($\lambda\in F$)について書き、同 1 により $\langle x,\lambda y\rangle=\bar\lambda\langle x,y\rangle$ であることを使うと
$$
\|x+\lambda y\|^2=\|x\|^2+2\operatorname{Re}\bigl(\bar\lambda\langle x,y\rangle\bigr)+|\lambda|^2\|y\|^2
$$
を得る。
1 を示す。$F=\mathbb{R}$ で $\lambda=1,-1$ とおくと $\|x\pm y\|^2=\|x\|^2\pm2\langle x,y\rangle+\|y\|^2$ であり、辺々引いて $\|x+y\|^2-\|x-y\|^2=4\langle x,y\rangle$ である。
2 を示す。$w:=\langle x,y\rangle=a+bi$($a,b\in\mathbb{R}$)とおく。$\lambda=i^k$($k=0,1,2,3$)について $|\lambda|=1$、$\bar\lambda=i^{-k}$ であるから
$$
\|x+i^ky\|^2=\|x\|^2+\|y\|^2+2\operatorname{Re}(i^{-k}w)
$$
である。$i^{-k}w$ の実部は、$k=0,1,2,3$ の順に $\operatorname{Re}(w)=a$、$\operatorname{Re}(-iw)=\operatorname{Re}(b-ai)=b$、$\operatorname{Re}(-w)=-a$、$\operatorname{Re}(iw)=\operatorname{Re}(-b+ai)=-b$ である。両辺に $i^k$ を掛けて $k=0$ から $3$ まで加えると、$\sum_{k=0}^{3}i^k=1+i-1-i=0$ により第 1 項は消え、
$$
\sum_{k=0}^{3}i^k\|x+i^ky\|^2=2\bigl(a+ib+(-1)(-a)+(-i)(-b)\bigr)=2(2a+2ib)=4w
$$
を得る。
一意性について。$\langle\cdot,\cdot\rangle_1$、$\langle\cdot,\cdot\rangle_2$ が同じノルムを定めるなら、1 または 2 の右辺は両者で一致するので、任意の $x,y$ について $\langle x,y\rangle_1=\langle x,y\rangle_2$ である。$\square$
上の証明の最初の式で $\lambda=1,-1$ について辺々加えると、内積から定まるノルムが満たす平行四辺形の等式
$$
\|x+y\|^2+\|x-y\|^2=2\|x\|^2+2\|y\|^2
$$
が得られる。以上で証明されている。内積空間 の記事の定理「三角不等式と平行四辺形の等式」の 3 と同じ内容である。逆に、実または複素ノルム空間のノルムが平行四辺形の等式を満たすなら、極化恒等式の右辺で定めた写像が内積になり、そのノルムがもとのノルムに一致する。これは Jordan と von Neumann の定理であり、本記事では証明せず JvN35 に譲る。したがって、極化恒等式は内積を復元する公式であると同時に、ノルムのうちどれが内積から来るかを判定する道具でもある。たとえば $\mathbb{R}^2$ 上のノルム $\|x\|_1:=|x_1|+|x_2|$ は $x=e_1$、$y=e_2$ について $\|x+y\|_1^2+\|x-y\|_1^2=8\ne4=2\|x\|_1^2+2\|y\|_1^2$ となり、どんな内積からも得られない。
$V$ を $\mathbb{C}$ 上のベクトル空間とし、$s\colon V\times V\to\mathbb{C}$ を第 1 変数について線形、第 2 変数について共役線形な写像(半双線形形式)とする。すべての $x\in V$ について $s(x,x)$ が実数ならば、$s$ は共役対称、すなわちすべての $x,y\in V$ について $s(y,x)=\overline{s(x,y)}$ である。とくに、複素ベクトル空間上の半双線形形式が条件 3(正値性)を満たせば、条件 2(共役対称性)は自動的に成り立つ。
$q(z):=s(z,z)$ とおく。半双線形性により、任意の $\lambda\in\mathbb{C}$ について
$$
q(x+\lambda y)=s(x,x)+\bar\lambda s(x,y)+\lambda s(y,x)+|\lambda|^2s(y,y)
$$
である。$\lambda=i^k$($k=0,1,2,3$)とおき、両辺に $i^k$ を掛けて加えると、$\sum_ki^k=0$ により $s(x,x)$ と $s(y,y)$ の項は消え、$\sum_ki^k\overline{i^k}=\sum_k1=4$、$\sum_ki^ki^k=\sum_k(-1)^k=0$ により
$$
\sum_{k=0}^{3}i^kq(x+i^ky)=4s(x,y)
$$
を得る(半双線形形式の極化恒等式)。$x$ と $y$ を入れ替えると $4s(y,x)=\sum_ki^kq(y+i^kx)$ である。ここで $y+i^kx=i^k(x+i^{-k}y)$ であり、半双線形性から $q(i^kz)=i^k\overline{i^k}q(z)=q(z)$ であるから $q(y+i^kx)=q(x+i^{-k}y)$ である。$k$ を $4$ を法として $-k$ に置き換えて和を取り直すと
$$
4s(y,x)=\sum_{k=0}^{3}i^{-k}q(x+i^ky)
$$
である。仮定により各 $q(x+i^ky)$ は実数なので、右辺は $\sum_ki^kq(x+i^ky)=4s(x,y)$ の複素共役に等しい。よって $s(y,x)=\overline{s(x,y)}$ である。
後半について。条件 3 は各 $s(x,x)$ が非負の実数であることを主張するので、前半が適用できる。$\square$
prop-inner-product-hermitian-auto は複素ベクトル空間に固有の現象である。実ベクトル空間上の双線形形式については、$b(x,x)$ が常に実数であることは自明で何の制約にもならず、rem-inner-product-counterexample-nonsymmetric の $b$ のように正定値でも対称でない双線形形式がある。したがって実内積の定義では対称性の条件を省けないが、複素内積の定義では、条件 2 を「第 2 変数についての共役線形性」に置き換えても同じ概念が得られる。
一方、三平方の定理の逆は実内積でだけ成り立つ。prop-inner-product-basic の 4 により、$\|x+y\|^2=\|x\|^2+\|y\|^2$ は $\operatorname{Re}\langle x,y\rangle=0$ と同値である。$F=\mathbb{R}$ ならこれは $\langle x,y\rangle=0$ と同じであるが、$F=\mathbb{C}$ では同じでない。実際 $V=\mathbb{C}$ に標準内積を入れ、$x=1$、$y=i$ とすると $\langle x,y\rangle=1\cdot\bar i=-i\ne0$ であるが、$\|x+y\|^2=|1+i|^2=2=\|x\|^2+\|y\|^2$ である。この $x,y$ は「三平方の等式を満たす」が「直交する」を満たさず、複素内積では「$\|x+y\|^2=\|x\|^2+\|y\|^2$ ならば $x\perp y$」という含意を破る。
$\langle\cdot,\cdot\rangle$ を $V$ 上の内積とする。
1 は条件 2 により $\langle y,x\rangle=\overline{\langle x,y\rangle}=\bar0=0$ であることによる。2 は prop-inner-product-basic の 2 である。3 は条件 4 と本命題の 2 による。4 は、$y=x$ ととれば $\langle x,x\rangle=0$ となり 3 から従う。5 は prop-inner-product-basic の 1 により $\langle x,\sum_kb_ky_k\rangle=\sum_k\overline{b_k}\langle x,y_k\rangle=0$ であることによる。
6 を示す。$a_1x_1+\cdots+a_nx_n=0$($a_k\in F$)とする。両辺と $x_j$ の内積をとると、条件 1 と直交性により $0=\sum_ka_k\langle x_k,x_j\rangle=a_j\langle x_j,x_j\rangle=a_j\|x_j\|^2$ であり、$x_j\ne0$ より $\|x_j\|^2>0$ であるから $a_j=0$ である。よって線形独立である。ノルムの等式は $n$ についての帰納法による。$n=1$ は自明であり、$n\ge2$ のとき $x:=x_1+\cdots+x_{n-1}$ とおくと 5 により $x_n\perp x$、したがって 1 により $x\perp x_n$ であり、prop-inner-product-basic の 5 と帰納法の仮定により $\|x+x_n\|^2=\|x\|^2+\|x_n\|^2=\|x_1\|^2+\cdots+\|x_n\|^2$ である。$\square$
$n$ 次正方行列 $A=(a_{ij})$ に対し $s_A(x,y):=y^{*}Ax=\sum_{i,j}a_{ij}x_j\overline{y_i}$(ex-inner-product-matrix)とおく。
1 を示す。$s_A(x,y)=\sum_{i,j}a_{ij}x_j\overline{y_i}$ は $x$ の各成分について 1 次であり、$y$ の各成分の複素共役について 1 次であるから、$s_A(ax+bx',y)=as_A(x,y)+bs_A(x',y)$ および $s_A(x,ay+by')=\bar as_A(x,y)+\bar bs_A(x,y')$ が成り立つ。
2 を示す。$s_A(x,y)=y^{*}Ax$ は $1\times1$ 行列(スカラー)なので、その複素共役は共役転置に等しく、$\overline{s_A(x,y)}=(y^{*}Ax)^{*}=x^{*}A^{*}y$ である。一方 $s_A(y,x)=x^{*}Ay$ である。したがって $s_A$ が共役対称であることは、すべての $x,y$ について $x^{*}Ay=x^{*}A^{*}y$ が成り立つことと同値である。$A^{*}=A$ ならこれは明らかに成り立つ。逆にこれが成り立つなら、$x=e_i$、$y=e_j$ とおいて $e_i^{*}Ae_j=a_{ij}$、$e_i^{*}A^{*}e_j=\overline{a_{ji}}$ を得るので $a_{ij}=\overline{a_{ji}}$、すなわち $A^{*}=A$ である。$F=\mathbb{R}$ では $A^{*}=A^{\mathsf{T}}$ である。
3 を示す。$s_A$ は 1 により条件 1 を満たす。条件 2 は 2 により $A^{*}=A$ と同値である。$A^{*}=A$ のとき $s_A(x,x)=x^{*}Ax$ は 2 により実数であり、条件 3・4 をあわせたものは「$x\ne0$ ならば $x^{*}Ax>0$」と同値である。
4 を示す。$x=\sum_jx_je_j$、$y=\sum_iy_ie_i$ と書くと、条件 1 と prop-inner-product-basic の 1 により
$$
\langle x,y\rangle=\Bigl\langle\sum_jx_je_j,\sum_iy_ie_i\Bigr\rangle=\sum_{i,j}x_j\overline{y_i}\langle e_j,e_i\rangle=\sum_{i,j}a_{ij}x_j\overline{y_i}=s_A(x,y)
$$
である。一意性について、$s_A=s_B$ なら $x=e_j$、$y=e_i$ とおいて $a_{ij}=s_A(e_j,e_i)=s_B(e_j,e_i)=b_{ij}$ である。$\square$
$V$ が有限次元で $v_1,\ldots,v_n$ がその基底と次元なら、prop-inner-product-gram の 4 と同じ計算により、$x=\sum_jx_jv_j$、$y=\sum_iy_iv_i$ に対して $\langle x,y\rangle=\sum_{i,j}\langle v_j,v_i\rangle x_j\overline{y_i}$ である。すなわち内積は基底に関する Gram 行列 $G=(\langle v_j,v_i\rangle)_{i,j}$ で完全に決まり、$G$ は正定値 Hermite 行列である。基底が正規直交($\langle v_i,v_j\rangle=\delta_{ij}$)であることは $G$ が単位行列であることと同じであり、このとき内積は座標の標準内積になる。正規直交基底の存在と構成(Gram–Schmidt の直交化)は 内積空間 の記事の定理「Gram–Schmidtの直交化法」が扱う。
実内積空間では、$x,y\ne0$ に対して thm-inner-product-cauchy-schwarz により $-1\le\langle x,y\rangle/(\|x\|\|y\|)\le1$ であるから、
$$
\cos\theta=\frac{\langle x,y\rangle}{\|x\|\,\|y\|}\qquad(0\le\theta\le\pi)
$$
を満たす $\theta$ がただ 1 つ定まる。これを $x$ と $y$ のなす角という。$\theta=\pi/2$ が直交、$\theta=0$ が一方が他方の正の倍であること(thm-inner-product-norm の 3 の等号条件)に対応する。$\mathbb{R}^2$、$\mathbb{R}^3$ の標準内積では、これは余弦定理により初等幾何の角と一致する。複素内積空間では $\langle x,y\rangle$ が実数とは限らないので、角は $|\langle x,y\rangle|/(\|x\|\|y\|)$ によって定めるか、ex-inner-product-real-part の実内積 $\operatorname{Re}\langle x,y\rangle$ を使って定める。
「内積」という語は、より広く、任意の体上のベクトル空間の対称双線形形式 $\sum_kx_ky_k$(標準双線形形式)を指して使われることもある。たとえば符号理論では有限体 $\mathbb{F}_q^n$ 上の $x\cdot y=\sum_kx_ky_k$ を内積とよぶ。しかしこれは本記事の意味の内積ではない。$\mathbb{F}_2^2$ で $x=(1,1)$ とすると $x\cdot x=1+1=0$ であり、定値性が成り立たず、そもそも順序のない体では正値性が意味をもたない。本記事の内積は $F=\mathbb{R},\mathbb{C}$ 上の正定値な形式に限る。正定値性を外した対称双線形形式・Hermite 形式の一般論は双線形形式・2次形式・Hermite形式の記事が、微分幾何で各接空間に内積を与える構造は Riemann計量 が、不定符号の場合は不定符号計量が扱う。
内積の公理から出発して、正規直交系・Gram–Schmidt の直交化・直交補空間・直交射影・最良近似を展開するのが 内積空間 の記事であり、ノルムに関して完備な内積空間である Hilbert空間 の記事が Riesz の表現定理や正規直交基底による展開を扱う。本記事の内容は Axl15 Chapter 6 と HJ13 Chapter 0・Chapter 5 による。
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