スペクトル写像定理(spectral mapping theorem)とは、Banach 代数の元 $a$ に関数 $f$ を代入した元のスペクトルが、$a$ のスペクトルの $f$ による像に等しいという定理 $\sigma(f(a))=f(\sigma(a))$ のことである。複素単位的 Banach 代数では、スペクトル上に極をもたない有理関数について成り立ち、多項式・冪・逆元・レゾルベントのスペクトルがこれで求まる。証明の要は、複素係数の多項式が一次式の積に分かれることである。実数体の上では一般に片側の包含しか成り立たないが、実 Hilbert 空間の有界な自己共役作用素では、定数でない実係数の多項式について等式が成り立つ。
対角化できる行列 $a=PDP^{-1}$ に多項式 $p$ を代入すると $p(a)=Pp(D)P^{-1}$ で、$p(a)$ の固有値は $a$ の固有値を $p$ で写したものになる。スペクトル写像定理(spectral mapping theorem)は、これを Banach 代数の元のスペクトルについて、対角化を使わずに示す定理である。式で書くと
$$
\sigma(f(a))=f(\sigma(a))
$$
で、$a$ に関数 $f$ を代入した元のスペクトルは、$a$ のスペクトルの $f$ による像に等しい。
どの関数を代入できるかで、定理の形はいくつかある。この記事では、複素単位的 Banach 代数の元に有理関数を代入する場合を証明し、多項式・逆元・冪の場合をその系として得る。あわせて、固有値だけについての版、実数体の上で等式が崩れる例、実 Hilbert 空間の自己共役作用素で等式が回復することを述べる。
以下、$A\ne\{0\}$ を複素単位的 Banach 代数(Banach代数 の定義「単位的 Banach 代数」)、$a\in A$ とする。スペクトル $\sigma(a)$ は Banach代数 の定理「スペクトルは非空コンパクト」により空でない。多項式 $p(z)=\sum_kc_kz^k$ について $p(a):=\sum_kc_ka^k$($a^0=1$)と定める。$p\mapsto p(a)$ は和と積を保ち、$p(a)$ どうしは可換である。
可逆性の判定には次の補題を繰り返し使う。
単位元をもつ環の元 $x_1,\dots,x_k$ が互いに可換なら、積 $x_1x_2\cdots x_k$ が可逆であることと、すべての $x_j$ が可逆であることは同値である。
すべての $x_j$ が可逆なら、積は逆元 $x_k^{-1}\cdots x_1^{-1}$ をもつ。逆に積 $P$ が可逆で、逆元を $c$ とする。各 $x_j$ は $P$ と可換なので、$x_jP=Px_j$ の両側に $c$ を掛けて $cx_j=x_jc$ を得る。$y_j:=\prod_{i\ne j}x_i$ とおくと、可換性から $x_jy_j=y_jx_j=P$ なので、$x_j(y_jc)=Pc=1$、$(cy_j)x_j=cP=1$ である。左逆元と右逆元があるので $x_j$ は可逆である。$\square$
$\mathbb C[z]$ の元 $q\ne0$ を $q(z)=c\prod_j(z-\beta_j)$($c\ne0$)と因数分解する(代数学の基本定理)。$q$ の根がどれも $\sigma(a)$ に入らなければ、各 $a-\beta_j1$ は可逆なので、lem-smt-commuting により $q(a)=c\prod_j(a-\beta_j1)$ も可逆である。
有理関数 $f$ を、共通の根をもたない多項式 $p,q$($q\ne0$)で $f=p/q$ と既約に表す。$q$ の根($f$ の極)がどれも $\sigma(a)$ に入らないとき、
$$
f(a):=p(a)\,q(a)^{-1}
$$
と定める。
既約な表示は定数倍を除いて一意で、$p,q$ を同じ定数 $c\ne0$ 倍しても $p(a)q(a)^{-1}$ は変わらないので、$f(a)$ は $f$ だけで決まる。$q(a)^{-1}$ は $p(a)$ と可換なので、$f(a)=q(a)^{-1}p(a)$ とも書ける。$f$ が多項式なら $q=1$ として $f(a)$ はもとの $p(a)$ であり、$f(z)=1/z$ で $0\notin\sigma(a)$ なら $f(a)=a^{-1}$ である。
$f$ を $\sigma(a)$ に極をもたない有理関数とすると、
$$
\sigma(f(a))=f(\sigma(a))=\{f(\lambda):\lambda\in\sigma(a)\}
$$
である。
$f=p/q$ を既約な表示とし、$\mu\in\mathbb C$ を固定する。$g:=p-\mu q$ とおくと、$q(a)$ は可逆で $p(a)$ と可換なので
$$
f(a)-\mu1=\bigl(p(a)-\mu q(a)\bigr)q(a)^{-1}=g(a)\,q(a)^{-1}
$$
である。$q(a)^{-1}$ は可逆なので、$f(a)-\mu1$ が可逆であることと $g(a)$ が可逆であることは同値である。また $\lambda\in\sigma(a)$ では $q(\lambda)\ne0$ なので、$f(\lambda)=\mu$ と $g(\lambda)=0$ は同値である。したがって
$$
(\star)\qquad g(a)\text{ が可逆でない}\iff g\text{ は }\sigma(a)\text{ に根をもつ}
$$
を示せば、$\mu\in\sigma(f(a))\iff\mu\in f(\sigma(a))$ が従う。$g$ の形で場合を分ける。
$f$ が多項式の場合は Banach環とC*-環のスペクトル理論 の命題「多項式のスペクトル写像定理」である。証明に使ったのは、$\sigma(a)$ が空でないこと($f$ が定数の場合だけ)と、可換な因子の積の可逆性だけで、極限や正則関数の理論は使っていない。
$a\in A$ とする。
いずれも thm-smt-rational を $z^n$、$1/z$、$1/(\lambda_0-z)$、$f$ に使えばよい(2 では $a$ が可逆なので $0\notin\sigma(a)$、4 では $\alpha\delta-\beta\gamma\ne0$ により $f$ の表示は既約で、極は $-\delta/\gamma$ だけである)。3 は レゾルベント の定理「レゾルベントのスペクトルとの対応」の 3 を有界作用素について言い直したものに当たる。スペクトル半径 と組み合わせると、$r(p(a))=\max_{\lambda\in\sigma(a)}|p(\lambda)|$ のように、多項式を代入した元のスペクトル半径が $\sigma(a)$ 上の最大値で計算できる。
$a=\begin{pmatrix}0&-1\\1&0\end{pmatrix}\in M_2(\mathbb C)$ の固有値は $\pm i$ なので $\sigma(a)=\{i,-i\}$ である。$a^2=-1$ だから $\sigma(a^2)=\{-1\}=\{i^2,(-i)^2\}$ で、cor-smt-special の 1 と一致する。$\sigma(a)$ の 2 点が同じ点に写るので、スペクトル写像定理は集合としての等式であり、固有値の重複度までは述べていない。$p(z)=z^2+1$ なら $p(a)=0$、$\sigma(p(a))=\{0\}=p(\{\pm i\})$ である。
有界作用素では、スペクトル全体のほかに固有値の集合も考えられる。複素 Banach 空間 $X\ne\{0\}$ 上の $T\in L(X)$ について、$\ker(T-\lambda I)\ne\{0\}$ となる $\lambda$ の全体を $\sigma_p(T)$ と書く。
$p$ を定数でない複素係数の多項式とすると、$\sigma_p(p(T))=p(\sigma_p(T))$ である。$p$ が定数 $c$ のときは、$\sigma_p(T)\ne\emptyset$ なら等式が成り立ち、$\sigma_p(T)=\emptyset$ なら左辺は $\{c\}$、右辺は $\emptyset$ で成り立たない。
$Tx=\lambda x$、$x\ne0$ なら $T^kx=\lambda^kx$ なので $p(T)x=p(\lambda)x$ で、$p(\sigma_p(T))\subset\sigma_p(p(T))$ である。逆に $\mu\in\sigma_p(p(T))$ とし、$p(z)-\mu=c\prod_j(z-\lambda_j)$($c\ne0$、次数 $\ge1$)と因数分解する。$p(T)-\mu I=c\prod_j(T-\lambda_jI)$ は単射でない。単射な写像の合成は単射なので、ある $j$ で $T-\lambda_jI$ は単射でなく、$\lambda_j\in\sigma_p(T)$、$\mu=p(\lambda_j)$ である。定数 $c$ のとき、$p(T)=cI$ の固有値は $c$ だけである($X\ne\{0\}$)。$\square$
$\sigma_p(T)=\emptyset$ となる作用素はある。$L^2([0,1])$ 上の掛け算 $(Tf)(x)=xf(x)$ は固有値をもたない(Banach代数 の例「固有値を持たない乗算作用素」)ので、定数の多項式 $p=0$ では $\sigma_p(p(T))=\{0\}\ne\emptyset=p(\sigma_p(T))$ である。スペクトル全体の版 thm-smt-rational では $\sigma(T)$ が空でないため、定数の場合も等式が成り立つ。
実 Banach 空間 $E\ne\{0\}$ 上の $T\in L(E)$ のスペクトル $\sigma(T)$ は、$T-\lambda I$ が全単射でない実数 $\lambda$ の全体である(Bre11 §6.3、pp. 162–163)。全単射な有界作用素の逆は有界なので(有界逆写像定理)、これは $L(E)$ で可逆でない $\lambda$ の全体と同じである。実係数の多項式 $Q$ について $Q(T)$ を同様に定める。
実係数の多項式 $Q$ について $Q(\sigma(T))\subset\sigma(Q(T))$ である。逆の包含は一般には成り立たない。$E=\mathbb R^2$、$J=\begin{pmatrix}0&-1\\1&0\end{pmatrix}$、$Q(t)=t^2+1$ では $\sigma(J)=\emptyset$ だが $Q(J)=0$ なので、$Q(\sigma(J))=\emptyset\subsetneq\{0\}=\sigma(Q(J))$ である。
$\lambda\in\sigma(T)$ とする。$Q(t)-Q(\lambda)$ は $t=\lambda$ を根にもつので、実係数の多項式 $R$ で $Q(t)-Q(\lambda)=(t-\lambda)R(t)$ と書ける。よって $Q(T)-Q(\lambda)I=(T-\lambda I)R(T)$ で、2 つの因子は可換である。もし左辺が可逆なら、lem-smt-commuting により $T-\lambda I$ も可逆になり、$\lambda\in\sigma(T)$ に反する。したがって $Q(\lambda)\in\sigma(Q(T))$ である。$J$ については $J^2=-I$ から $(J-\lambda I)(J+\lambda I)=-(1+\lambda^2)I$ で、すべての実数 $\lambda$ について $J-\lambda I$ は可逆である。$\square$
包含とこの例は Bre11 の演習 6.22 の 2・3(p. 177)で問われている。複素数体の上では、$Q(t)-\mu$ が必ず一次式の積に分かれることが thm-smt-rational の証明の要であった。実数体の上では $t^2+1$ のように実根をもたない因子が残り、それが可逆でない作用素を作りうる。
この因子が必ず可逆になる場合が、実 Hilbert 空間の自己共役作用素である。
$H\ne\{0\}$ を実 Hilbert 空間、$T\in L(H)$ を自己共役(すべての $u,v$ で $(Tu,v)=(u,Tv)$)とする。定数でない任意の実係数の多項式 $Q$ について
$$
\sigma(Q(T))=Q(\sigma(T))
$$
である。
2 次因子の可逆性。 実数 $\alpha$ と $\beta>0$ について、$L:=(T-\alpha I)^2+\beta^2I$ は可逆であることを示す。$L$ は自己共役で、$T-\alpha I$ も自己共役なので
$$
(Lu,u)=\|(T-\alpha I)u\|^2+\beta^2\|u\|^2\ge\beta^2\|u\|^2
$$
である。Cauchy–Schwarz の不等式から $\|Lu\|\ge\beta^2\|u\|$ なので、$L$ は単射で、値域は閉である($Lu_n$ が Cauchy 列なら $u_n$ も Cauchy 列で、極限 $u$ について $Lu_n\to Lu$)。値域に直交する $v$ は $(Lv,v)=0$ をみたすので $v=0$ であり、閉な値域は $H$ 全体である。よって $L$ は全単射で、逆は有界である。
因数分解。 $\mu\in\mathbb R$ を固定する。$Q(t)-\mu$ は次数 $\ge1$ の実係数の多項式なので、代数学の基本定理 と、実係数の多項式の虚根は共役な組で現れることから、
$$
Q(t)-\mu=c\prod_{i}(t-t_i)\prod_{j}\bigl((t-\alpha_j)^2+\beta_j^2\bigr)\qquad(c\ne0,\ t_i,\alpha_j\in\mathbb R,\ \beta_j>0)
$$
と分解できる(どちらかの積が空のこともある)。$t_i$ は $Q(t)-\mu$ の実根の全体である。
結論。 $Q(T)-\mu I=c\prod_i(T-t_iI)\prod_jL_j$($L_j:=(T-\alpha_jI)^2+\beta_j^2I$)で、因子は互いに可換である。$L_j$ はすべて可逆なので、lem-smt-commuting により、$Q(T)-\mu I$ が可逆でないことは、ある $i$ で $T-t_iI$ が可逆でないこと、すなわちある実根 $t_i$ が $\sigma(T)$ に入ることと同値である。これは $\mu=Q(\lambda)$ となる $\lambda\in\sigma(T)$ があること、すなわち $\mu\in Q(\sigma(T))$ と同値である。$\square$
prop-smt-real の $J$ は $(Ju,v)=-(u,Jv)$ をみたし、自己共役でない。この定理の主張は Bre11 の演習 6.22 の 5(p. 177)で問われている。
固有値についても、定数でない $Q$ なら $\sigma_p(Q(T))=Q(\sigma_p(T))$ が成り立つ。prop-smt-point の証明の因数分解を prf-smt-selfadjoint の分解に替え、2 次因子 $L_j$ が単射であることを使えばよい。$Q$ が定数のときは、実数値の $L^2([0,1])$ 上の掛け算 $(Tf)(x)=xf(x)$(自己共役で、固有値をもたない)と $Q=0$ で等式が成り立たない。
代入する関数の範囲を広げた版もある。単位的 $C^*$-環の正規元 $a$ には $\sigma(a)$ 上の任意の連続関数 $f$ を代入でき、$\sigma(f(a))=f(\sigma(a))$ が成り立つ(Banach環とC*-環のスペクトル理論 の定理「連続汎関数計算」)。複素 Hilbert 空間の(有界とは限らない)自己共役作用素 $A$ と実数値の Borel 関数 $f$ については、$\sigma(f(A))$ は $f(\sigma(A))$ の閉包に含まれ、$f$ が連続なら閉包と等しく、さらに $\sigma(A)$ が有界なら閉包をとる必要はない(Tes09 Theorem 3.18(p. 105)。同書は証明を Lemma 3.12(p. 101)の議論に委ねている。この記事では証明しない)。正則関数の代入(正則汎関数計算)の構成は Banach環とC*-環のスペクトル理論 の節「正則汎関数計算との境界」にある。
| 外す条件 | 反例 | 成り立たなくなること |
|---|---|---|
| スカラーが複素数 | $\mathbb R^2$ の $J$、$Q(t)=t^2+1$ | $\sigma(Q(J))=Q(\sigma(J))$($\{0\}$ と $\emptyset$) |
| 自己共役性(実 Hilbert 空間) | $\mathbb R^2$(Euclid 内積)の $J$、$Q(t)=t^2+1$ | thm-smt-selfadjoint の等式 |
| 多項式が定数でない(固有値の版) | $L^2([0,1])$ の掛け算 $Tf=xf$、$p=0$ | $\sigma_p(p(T))=p(\sigma_p(T))$($\{0\}$ と $\emptyset$) |
1・2 行目は prop-smt-real、3 行目は prop-smt-point とその後の段落で確かめた。2 行目の $J$ は、Euclid 内積について $(Ju,v)=-(u,Jv)$ をみたす。
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