加法圏(additive category)とは、各Hom集合にアーベル群の構造が入り合成がその構造について双線型であるような圏(前加法圏)であって、さらに零対象を持ち、任意の二対象が双積(有限直積かつ有限余積を同時に与える対象)を持つものをいう。アーベル圏の代数的な土台であり、行列による射の計算がそのまま正当化される。
圏 $\mathcal C$ が前加法圏(preadditive category, Ab-category)であるとは、各対象 $A,B$ に対し $\operatorname{Hom}_{\mathcal C}(A,B)$ にアーベル群の構造が与えられており、合成写像
$$
\operatorname{Hom}(B,C)\times\operatorname{Hom}(A,B)\longrightarrow\operatorname{Hom}(A,C)
$$
が双線型であること、すなわち任意の $f,f'\colon A\to B$ と $g,g'\colon B\to C$ に対して
$$
g\circ(f+f')=g\circ f+g\circ f',\qquad (g+g')\circ f=g\circ f+g'\circ f
$$
が成り立つことをいう。
前加法圏 $\mathcal C$ の対象 $A,B$ に対して、対象 $A\oplus B$ と四つの射
$$
i_A\colon A\to A\oplus B,\quad i_B\colon B\to A\oplus B,\quad p_A\colon A\oplus B\to A,\quad p_B\colon A\oplus B\to B
$$
の組が双積(biproduct)であるとは、次の等式をすべて満たすことをいう。
$$
p_Ai_A=\operatorname{id}_A,\qquad p_Bi_B=\operatorname{id}_B,\qquad p_Ai_B=0,\qquad p_Bi_A=0,\qquad i_Ap_A+i_Bp_B=\operatorname{id}_{A\oplus B}.
$$
前加法圏 $\mathcal C$ が加法圏(additive category)であるとは、$\mathcal C$ が零対象を持ち、かつ任意の二対象 $A,B$ に対して双積 $A\oplus B$ が存在することをいう。
加法圏は、$\mathbb Z$ 加群や体上のベクトル空間で当たり前に使う「射を足し合わせる」「直和を作る」という操作を、圏論の言葉だけで公理化したものである。Hom集合が単なる集合ではなくアーベル群であることが前加法圏の核心であり、そこに零対象と双積という圏論的な骨組みを加えることで、行列を使った計算がそのまま正当化される環境が整う。
双積という一つの構成が「積であり同時に余積でもある」という事実は、$\mathbf{Set}$ のような一般の圏では決して起こらない現象である。直積 $A\times B$(要素の組を作る)と直和・非交和 $A\sqcup B$(要素を単純に合体させる)はふつう別の構成だが、加法圏では加法構造のおかげでこの二つが同じ対象として実現される。
$\mathbf{Ab}$ は加法圏である。$\operatorname{Hom}(A,B)$ は準同型の点ごとの和によってアーベル群になり、合成は双線型である($(g+g')\circ f=g\circ f+g'\circ f$ などは点ごとに確かめられる)。零対象は自明群、双積 $A\oplus B$ は通常の直和(有限個の場合は直積と一致する)である。
環 $R$ に対する左 $R$ 加群の圏 $R\text{-}\mathbf{Mod}$、体 $k$ 上のベクトル空間の圏 $k\text{-}\mathbf{Vect}$ も同様に加法圏である。双積は加群・ベクトル空間の直和であり、有限次元の場合は基底を並べることで圏の「行列の圏」の例の対象・射の計算と完全に対応する。
$\mathbf{Grp}$ は加法圏ではない。$H$ が非可換群のとき $\operatorname{Hom}(G,H)$ には準同型の「点ごとの積」を入れても一般に準同型にならず($(fg)(xy)=f(x)g(x)f(y)g(y)$ は非可換だと $f(xy)g(xy)=f(x)f(y)g(x)g(y)$ と一致しない)、アーベル群の構造は自然には定まらない。$\mathbf{Set}$ はさらに根本的で、$\operatorname{Hom}(A,B)$ に自然な加法構造がなく、前加法圏にすらならない。加えて $\mathbf{Set}$ の直積と非交和(余積)は、一元集合でない限り一致せず、双積の意味を持たない。
前加法圏における双積 $(A\oplus B,\,i_A,i_B,p_A,p_B)$ は、射影 $p_A,p_B$ に関して $A,B$ の圏論的積であり、同時に入射 $i_A,i_B$ に関して $A,B$ の圏論的余積である。
まず積であることを示す。対象 $X$ と射 $f\colon X\to A$、$g\colon X\to B$ が任意に与えられたとき、$h:=i_Af+i_Bg\colon X\to A\oplus B$ とおく。双積の等式を用いると
$$
p_Ah=p_Ai_Af+p_Ai_Bg=\operatorname{id}_Af+0\cdot g=f,\qquad p_Bh=p_Bi_Af+p_Bi_Bg=0\cdot f+\operatorname{id}_Bg=g
$$
となり、$h$ は $p_Ah=f,\ p_Bh=g$ を満たす。一意性については、$h'\colon X\to A\oplus B$ も同じ等式 $p_Ah'=f,\ p_Bh'=g$ を満たすとすると、
$$
h'=\operatorname{id}_{A\oplus B}\circ h'=(i_Ap_A+i_Bp_B)\circ h'=i_A(p_Ah')+i_B(p_Bh')=i_Af+i_Bg=h
$$
となるので $h'=h$。ゆえに $A\oplus B$ は $p_A,p_B$ に関して $A,B$ の積の普遍性を満たす。
余積であることも双対的に示せる。対象 $Y$ と射 $f'\colon A\to Y$、$g'\colon B\to Y$ に対し $k:=f'p_A+g'p_B\colon A\oplus B\to Y$ とおくと、
$$
ki_A=f'p_Ai_A+g'p_Bi_A=f'\operatorname{id}_A+g'\cdot 0=f',\qquad ki_B=f'p_Ai_B+g'p_Bi_B=f'\cdot 0+g'\operatorname{id}_B=g'
$$
であり、$k'$ が同じ等式 $k'i_A=f',\ k'i_B=g'$ を満たすなら
$$
k'=k'\circ\operatorname{id}_{A\oplus B}=k'\circ(i_Ap_A+i_Bp_B)=(k'i_A)p_A+(k'i_B)p_B=f'p_A+g'p_B=k
$$
となり $k'=k$。ゆえに $A\oplus B$ は $i_A,i_B$ に関して $A,B$ の余積の普遍性も満たす。$\blacksquare$
これにより、加法圏では直積・余積という二つの異なる圏論的操作が同じ対象 $A\oplus B$ として一体化する。この一体化こそが加法圏を単なる「積と余積を持つ圏」から区別する本質である。
加法圏 $\mathcal C$ において、$A=A_1\oplus\cdots\oplus A_m$、$B=B_1\oplus\cdots\oplus B_n$ をそれぞれ双積とし、対応する入射・射影を $i_k,p_k$ と書く。このとき射 $f\colon A\to B$ は、成分
$$
f_{ji}:=p_j\circ f\circ i_i\colon A_i\to B_j\qquad(1\le i\le m,\ 1\le j\le n)
$$
からなる $n\times m$ 行列 $(f_{ji})$ によって一意に復元される。逆にどのような成分の族 $(f_{ji})_{j,i}$ に対しても、それを成分とする射 $f$ が一意に存在する。さらに $g\colon B\to C$($C=C_1\oplus\cdots\oplus C_\ell$)との合成の成分は、対応する行列の積
$$
(g\circ f)_{ki}=\sum_{j=1}^n g_{kj}f_{ji}
$$
に一致する。
双積の性質を有限個の因子へ拡張すると $\sum_{i=1}^m i_ip_i=\operatorname{id}_A$、$\sum_{j=1}^n i_jp_j=\operatorname{id}_B$ が成り立つ(二項の場合の等式を繰り返し適用すればよい)。これを用いると
$$
f=\operatorname{id}_B\circ f\circ\operatorname{id}_A=\Bigl(\sum_{j=1}^n i_jp_j\Bigr)\circ f\circ\Bigl(\sum_{i=1}^m i_ip_i\Bigr)=\sum_{j,i} i_j\circ(p_jfi_i)\circ p_i=\sum_{j,i} i_j\circ f_{ji}\circ p_i
$$
となり、$f$ は成分 $(f_{ji})$ から式 $f=\sum_{j,i}i_jf_{ji}p_i$ によって復元される。逆に成分の族 $(f_{ji})$ を任意に与え $f:=\sum_{j,i}i_jf_{ji}p_i$ とおくと、双積の直交関係 $p_ki_i=\delta_{ki}\operatorname{id}$($k=i$ なら $\operatorname{id}$、そうでなければ $0$)を用いて $p_kfi_l=f_{kl}$ が確かめられ、成分がもとの $(f_{ji})$ に一致する射が実際に存在することが分かる。
合成の成分については、
$$
(g\circ f)_{ki}=p_k(g\circ f)i_i=p_kg\Bigl(\sum_{j=1}^n i_jp_j\Bigr)fi_i=\sum_{j=1}^n(p_kgi_j)(p_jfi_i)=\sum_{j=1}^ng_{kj}f_{ji}
$$
となり、行列積の公式そのものが得られる。$\blacksquare$
この行列表示により、加法圏における有限個の対象の間の射の計算は、通常の行列計算と完全に同じ規則に従う。圏の「環上の行列の圏」の例は、この一般論を「対象が単一の生成対象の有限直和ですべて尽くされる」特別な加法圏として回収したものである。
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