Kan拡張(Kan extension)とは、与えられた関手を別の関手に沿って延長する問題を、自然変換の普遍性によって解く構成である。比較する自然変換の向きに応じて左と右があり、極限・余極限や随伴を共通の枠組みで捉える。単に延長が存在するだけではKan拡張とは限らない。
小さい圏 $\mathcal C,\mathcal D$ と局所的に小さい圏 $\mathcal E$、関手 $F\colon\mathcal C\to\mathcal D$、$G\colon\mathcal C\to\mathcal E$ を固定する。この小ささの仮定により、以下の自然変換の集まりは集合になる。$F$ は部分圏の包含である必要はない。
自然変換 $\alpha\colon L\Rightarrow H$ に対し、$\alpha F\colon LF\Rightarrow HF$ は、各 $c\in\mathcal C$ で成分 $\alpha_{F(c)}$ を取る自然変換を表す。$LF$ は $L\circ F$ の略記である。
関手 $L\colon\mathcal D\to\mathcal E$ と自然変換 $\eta\colon G\Rightarrow LF$ の組が、$G$ の $F$ に沿った左Kan拡張(left Kan extension)であるとは、任意の関手 $H\colon\mathcal D\to\mathcal E$ と自然変換 $\gamma\colon G\Rightarrow HF$ に対して、
$$
\gamma=(\alpha F)\circ\eta
$$
を満たす自然変換 $\alpha\colon L\Rightarrow H$ が一意に存在することをいう。$L$ を $F^\dagger G$ と書く。Rie16 定義6.1.1。
関手 $R\colon\mathcal D\to\mathcal E$ と自然変換 $\varepsilon\colon RF\Rightarrow G$ の組が、$G$ の $F$ に沿った右Kan拡張(right Kan extension)であるとは、任意の関手 $H\colon\mathcal D\to\mathcal E$ と自然変換 $\delta\colon HF\Rightarrow G$ に対して、
$$
\delta=\varepsilon\circ(\beta F)
$$
を満たす自然変換 $\beta\colon H\Rightarrow R$ が一意に存在することをいう。$R$ を $F^\ddagger G$ と書く。Rie16 定義6.1.1。
本記事では Alg20 の記法に従い、†を左、‡を右に使う。比較自然変換を明示するときは $(F^\dagger G,\eta)$、$(F^\ddagger G,\varepsilon)$ と書き、関手だけの記号で比較自然変換を不要とするわけではない。他文献との対応は
$$
F^\dagger G=\operatorname{Lan}_F G,\qquad F^\ddagger G=\operatorname{Ran}_F G
$$
である。ここでの等号は同じ選択に対する記号の対応を表し、独立に選んだ普遍的構成どうしには通常、比較自然変換と整合する自然同型を用いる。
| 種類 | 与える自然変換 | 一意に誘導される自然変換 |
|---|---|---|
| 左 | $G\Rightarrow LF$ | $L\Rightarrow H$ |
| 右 | $RF\Rightarrow G$ | $H\Rightarrow R$ |
存在は定義とは別の問題であり、任意の $F,G$ に対してKan拡張が存在するとは限らない。
Kan拡張が解くのは、関手 $G$ の情報を $F$ の先の圏 $\mathcal D$ で扱うための比較問題である。等式 $G=HF$ を要求するだけでは、延長が見つからない場合も、候補を選べない場合もある。そこで自然変換による比較を許し、すべての比較を一意に取りまとめる組を探す。
「最良の近似」とは距離や誤差の最小化ではなく、左では他の候補へ向かう比較、右では他の候補から来る比較の一意な因子分解を意味する。関手だけでなく、比較に使う自然変換もデータである。
この見方によって、極限・余極限や随伴のような普遍的構成を共通の言葉で整理できる。本記事では有限の具体例と基本的な普遍性までを扱う。
$F=\operatorname{id}_{\mathcal C}$ なら、$G$ と恒等自然変換の組が左右両方のKan拡張になる。左の条件は $\gamma=\alpha\circ\operatorname{id}_G$ だから $\alpha=\gamma$ が唯一の解であり、右の条件も $\delta=\operatorname{id}_G\circ\beta$ から $\beta=\delta$ が唯一の解になる。
$\mathcal C$ は対象 $a$ のみの離散圏、$\mathcal D$ は対象 $a,b$ の離散圏とし、$F$ を包含とする。$\mathcal E=\mathbf{Set}$、$G(a)=S$ とする。
左Kan拡張は $L(a)=S$、$L(b)=\emptyset$、$\eta_a=\operatorname{id}_S$ で与えられる。任意の $\gamma_a\colon S\to H(a)$ に対し、$\alpha_a=\gamma_a$ と空集合からの唯一の写像 $\alpha_b\colon\emptyset\to H(b)$ が唯一の自然変換を与えるからである。
右Kan拡張は $R(a)=S$、$R(b)=\{*\}$、$\varepsilon_a=\operatorname{id}_S$ で与えられる。任意の $\delta_a\colon H(a)\to S$ に対し、$\beta_a=\delta_a$ と一点集合への唯一の写像 $\beta_b\colon H(b)\to\{*\}$ が唯一の自然変換を与える。離散圏では恒等射以外の自然性条件はない。
$\mathcal C$ を対象 $a,b$ の離散圏、$\mathcal D=\mathbf 1$ を対象一つ・射一つの圏とし、$F$ を唯一の関手とする。$G(a)=S$、$G(b)=T$ とすると、左Kan拡張の値は非交和 $S\sqcup T$、右Kan拡張の値は直積 $S\times T$ になる。
左では $S,T$ から同じ集合 $X$ への二つの写像を $S\sqcup T\to X$ へ一意にまとめる。右では $X$ から $S,T$ への二つの写像を $X\to S\times T$ へ一意にまとめる。例えば $|S|=1,|T|=2$ なら左の値は3元、右の値は2元の集合になる。一般の図式については prop-kan-extension-terminal-index で説明する。
ex-kan-extension-discrete と同じ圏を用い、$K(a)=S$、$K(b)=\{0,1\}$ とする。確かに $KF=G$ だが、$K$ と恒等自然変換の組は左右どちらのKan拡張でもない。
左の場合、$H(a)=S$、$H(b)=\emptyset$、$\gamma_a=\operatorname{id}_S$ を選ぶと、必要な $\alpha_b\colon\{0,1\}\to\emptyset$ が存在しない。右の場合、$H(a)=S$、$H(b)=\{*\}$、$\delta_a=\operatorname{id}_S$ を選ぶと、$\beta_b(*)=0$ と $\beta_b(*)=1$ の二つの選択があり、一意性が成り立たない。
従って等式 $KF=G$ だけから普遍性は結論できない。この反例は $S=\emptyset$ でも成り立つ。
$(L,\eta)$ と $(L',\eta')$ がともに $G$ の $F$ に沿った左Kan拡張なら、$(uF)\circ\eta=\eta'$ を満たす自然同型 $u\colon L\Rightarrow L'$ が一意に存在する。右Kan拡張にも、与えられた自然変換との整合性を課した同じ一意性が成り立つ(Rie16 §6.1)。
左の場合、$(L,\eta)$ の普遍性を $(L',\eta')$ に適用して $u$ を得る。逆に $(L',\eta')$ の普遍性から $v\colon L'\Rightarrow L$ で $(vF)\circ\eta'=\eta$ となるものを得る。すると
$$
((v\circ u)F)\circ\eta=(vF)\circ(uF)\circ\eta=(vF)\circ\eta'=\eta.
$$
恒等自然変換もこの等式を満たすので、一意性から $v\circ u=\operatorname{id}_L$。同様に $u\circ v=\operatorname{id}_{L'}$。よって $u$ は自然同型であり、整合条件を満たす射としての一意性も普遍性から従う。
右の場合、二つの右Kan拡張を $(R,\varepsilon),(R',\varepsilon')$ とする。普遍性から $u\colon R\Rightarrow R'$、$v\colon R'\Rightarrow R$ で
$$
\varepsilon'\circ(uF)=\varepsilon,\qquad \varepsilon\circ(vF)=\varepsilon'
$$
となるものが一意に得られる。従って $\varepsilon\circ((v\circ u)F)=\varepsilon$ であり、$(R,\varepsilon)$ の一意性から $v\circ u=\operatorname{id}_R$。逆の合成も同様に恒等となる。
$!\colon\mathcal C\to\mathbf 1$ を唯一の関手とする。$G\colon\mathcal C\to\mathcal E$ の $!$ に沿う左Kan拡張が存在することは、$G$ の余極限が存在することと同値であり、その値は余極限対象である。右Kan拡張については極限と同じ関係が成り立つ。
関手 $H\colon\mathbf 1\to\mathcal E$ を与えることは対象 $X=H(*)$ を選ぶことに等しく、$H!$ は $X$ で一定の図式 $\Delta X$ になる。
左では $\eta\colon G\Rightarrow\Delta L(*)$ は余錐である。任意の余錐 $\gamma\colon G\Rightarrow\Delta X$ が一意な射 $\alpha_*\colon L(*)\to X$ により $\gamma=(\Delta\alpha_*)\circ\eta$ と書ける、という条件は余極限の普遍性そのものである。従って両者は同じデータと条件を持つ。
右では $\varepsilon\colon\Delta R(*)\Rightarrow G$ が錐であり、任意の錐 $\delta\colon\Delta X\Rightarrow G$ が一意な射 $\beta_*\colon X\to R(*)$ により $\delta=\varepsilon\circ(\Delta\beta_*)$ と書ける。この条件が極限の普遍性である。
有限集合と写像の圏を値域とし、可算無限離散圏上の各対象に一点集合を置く図式を考える。この図式には有限集合の圏で余極限がない。
実際、余極限を有限集合 $Q$ とすると、2元集合への余錐は各対象ごとに0か1を選ぶので無限個ある。一方、$Q$ から2元集合への写像は有限個しかなく、余極限の普遍性が要求する全単射は存在しない。prop-kan-extension-terminal-index により、この図式の終圏への左Kan拡張も存在しない。
自然変換の集合を $\operatorname{Nat}(-,-)$ と書くと、左の普遍性は
$$
\operatorname{Nat}(F^\dagger G,H)\cong\operatorname{Nat}(G,HF)
$$
という因子分解による全単射である。右では $\operatorname{Nat}(H,F^\ddagger G)\cong\operatorname{Nat}(HF,G)$ となる。各 $G$ に対してKan拡張を選べる場合、それらは前合成関手 $F^*\colon[\mathcal D,\mathcal E]\to[\mathcal C,\mathcal E]$ の左・右随伴を与える(Rie16 命題6.1.5)。この接続の詳細は随伴関手へ進むための課題になる。
表現可能関手や米田の補題は、この種の自然な全単射を理解するための道具になる。ただし本記事の定義と有限例の理解に、米田の補題の証明を前提とはしない。
pointwise Kan extension の訳語には、Alg20 に合わせて「各点Kan拡張」を用いる。左右を区別するときは「各点左Kan拡張」「各点右Kan拡張」とする。
通常の圏では、各点左Kan拡張は各対象 $d$ でコンマ圏 $(F\downarrow d)$ 上の余極限、各点右Kan拡張は $(d\downarrow F)$ 上の極限によって計算される。「各点」は $F^\dagger G$ や $F^\ddagger G$ という記号だけから保証される性質ではない。各点で必要な極限・余極限が存在し、比較自然変換から誘導される錐・余錐が普遍的であることが肝心である。単に各対象で値を選べる、という意味ではない。
本記事冒頭の小ささの仮定のもとで、各 $d\in\mathcal D$ について右辺の余極限が存在するなら、それらから各点左Kan拡張を構成できる。右辺の極限が存在するなら、各点右Kan拡張を構成できる。
$$
(F^\dagger G)(d)\cong\operatorname*{colim}_{(c,u)\in(F\downarrow d)}G(c),\qquad
(F^\ddagger G)(d)\cong\operatorname*{lim}_{(c,v)\in(d\downarrow F)}G(c).
$$
左の添字では $u\colon F(c)\to d$、右の添字では $v\colon d\to F(c)$ である。いずれもコンマ圏から $\mathcal C$ への忘却関手と $G$ の合成を図式とする。左の余極限、右の極限の存在条件はそれぞれ独立である。構成・証明は Rie16 定理6.2.1、各点性との同値は定理6.3.7。
例えば左では、射 $u\colon F(c)\to d$ に対し、比較自然変換と関手の作用から $G(c)\to(F^\dagger G)(F(c))\to(F^\dagger G)(d)$ という余錐の脚が得られる。この誘導された余錐が余極限であることが各点性の条件であって、値の対象が偶然同型になるだけでは十分でない。ここでは通常の圏の場合だけを扱い、豊穣圏や一般の2圏での各点性の区別は Alg20 に委ねる。
この記法を採る理由は、単に式を短くするためではない。拡張とリフト、左右の普遍性を、同じ記号体系の中で比較しやすくするためである。以下の「見やすさ」は本記事の説明上の評価であり、他の記法では表せない定理が増えるという主張ではない。
Alg20 の記法では、上付きがKan拡張、下付きがKanリフトを表し、どちらでも†が左、‡が右を表す。
| 構成 | 左 | 右 |
|---|---|---|
| Kan拡張 | $f^\dagger g$ | $f^\ddagger g$ |
| Kanリフト | $f_\dagger g$ | $f_\ddagger g$ |
ここでは $a,b,c$ を圏、$f,g,l$ を関手とする。拡張は $f\colon a\to b$、$g\colon a\to c$ から $l\colon b\to c$ を求め、合成 $lf$ と $g$ を比較する。リフトは $f\colon b\to a$、$g\colon c\to a$ から $l\colon c\to b$ を求め、合成 $fl$ と $g$ を比較する。左の比較はそれぞれ $g\Rightarrow lf$、$g\Rightarrow fl$、右の比較はその逆向きになる。ただし、これらの比較射があるだけでは足りず、対応する普遍性を満たすことが必要である。
従って、上付き・下付きは「合成のどちら側を解くか」、†・‡は「比較射をどちら向きにするか」を読み取る手掛かりになる。二つの操作を分離して記号に載せられることが、この表記の利点である。リフトの完全な定義は本記事では展開しない。
固定した値域について必要なKan拡張をすべて選べるとき、前合成 $F^*(H)=HF$ と合わせて
$$
F^\dagger\dashv F^*\dashv F^\ddagger
$$
と書ける(Rie16 命題6.1.5を本記事の記法で書いたもの)。ここで $F^\dagger,F^\ddagger$ は図式を別の図式へ送る関手であり、元の $F\colon\mathcal C\to\mathcal D$ の随伴そのものではない。
$F^*$ で図式を制限し、その制限に対する左右の普遍的な操作を $F^\dagger,F^\ddagger$ で表す、と一つの文字を中心に読める。定義の自然変換も
$$
G\Rightarrow F^*(F^\dagger G),\qquad F^*(F^\ddagger G)\Rightarrow G
$$
となり、左側の随伴の単位、右側の随伴の余単位として位置づけられる。この形は普遍性の向きを覚える助けになる。
終圏への関手 $!\colon\mathcal C\to\mathbf 1$ について、必要な構成が存在するとき
$$
(!^\dagger G)(*)\cong\operatorname{colim}G,\qquad
(!^\ddagger G)(*)\cong\lim G
$$
となる(prop-kan-extension-terminal-index)。一般の $F$ を $!$ に替えた同じ記号で書けるため、極限・余極限を別個の操作として暗記するだけでなく、図式を一つの対象へまとめる左右のKan拡張として読める。
これは単なる類似ではなく普遍性の一致である。ただし左辺は終圏上の関手を $*$ で評価した対象であり、関手と対象の区別を省略しているのではない。
$F^\dagger G$ は、厳密な方程式 $LF=G$ を解く代わりに、比較自然変換を伴う普遍的な解を求める操作と考えると理解しやすい。上付き記号によって、この「合成を普遍性によって解く」という視点を保ちやすい。
ただし、†は逆関手、共役転置、擬似逆を意味しない。存在が保証されない例は rem-kan-extension-existence にある。また ex-kan-extension-two-sets で $|S|=1,|T|=2$ とすると、$(F^\dagger G)F$ はどちらの対象でも3元集合を値に取るため、$G$ とは自然同型ですらない。逆に、厳密な延長が存在してもそれがKan拡張とは限らないことは rem-kan-extension-not-any-extension で見た。
また、$f\colon a\to b$ に右随伴 $u\colon b\to a$ がある場合には
$$
f^\dagger\operatorname{id}_a\cong u,\qquad
u^\ddagger\operatorname{id}_b\cong f
$$
となる(Alg20「復習 (formal category theory)」)。ここで $f^\dagger$ の†は左Kan拡張を意味するが、その値は $f$ の右随伴である。「†なら元の関手の左随伴」とは読めない。この関係を逆向きに使って随伴の存在を結論するには、単なるKan拡張の存在だけでなく、前者では $f$、後者では $u$ による後合成が当該Kan拡張を保存するという条件が必要になる。
記号の利点は対応関係を短く並べて比較できることにあり、成立条件を省けることにはない。そのため、本記事では†・‡を主記法にしつつ、初出の対応式で他文献の表記へ戻れるようにしている。
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