単位行列

同義語:identity matrixunit matrix

概要

単位行列(identity matrix)とは、対角成分がすべて $1$ でそれ以外の成分がすべて $0$ の正方行列 $I_n=(\delta_{ij})$ のことである。大きさの合う任意の行列に左右どちらから掛けても相手を変えない、行列の積のただ 1 つの単位元であり、どの基底に関しても恒等写像を表す行列である。行列式は $1$、固有多項式は $(x-1)^n$ で、単位行列に相似な行列は単位行列だけである。体上の正方行列では $AB=I_n$ から $BA=I_n$ が従うが、正方でない行列や無限次元の線形写像ではこれが成り立たない。

$$\newcommand{C}[0]{\mathbb{C}} \newcommand{div}[0]{\mathbin{÷}} \newcommand{N}[0]{\mathbb{N}} \newcommand{Q}[0]{\mathbb{Q}} \newcommand{R}[0]{\mathbb{R}} \newcommand{Z}[0]{\mathbb{Z}} $$

前提知識: 行列, 行列環

数の掛け算では、$1$ は掛けても相手を変えない数である。行列の積にも同じ役割をする行列があり、それが単位行列である。対角線上に $1$ を並べ、ほかをすべて $0$ にした正方行列は、大きさの合う行列に左右どちらから掛けても相手を変えない。線形写像の言葉では、単位行列は「何もしない写像」である恒等写像を、どの基底で書いても現れる行列である。逆行列の定義 $AB=BA=I$、固有多項式 $\det(xI-A)$、基底の取り替えの行列など、線形代数の多くの式は単位行列を基準にして書かれる。この記事では、単位行列が積の単位元としてただ 1 つに定まること、恒等写像の表現行列であること、行列式・固有多項式などの基本的な値を示し、あわせて正方行列では片側から掛けて単位行列になれば両側の逆行列になることを、正方でない場合・無限次元の場合の反例とともに確かめる。

定義

以下、$R$ は単位元 $1$ をもつ環とする(可換とは限らない。多くの例では $R$ は体 $K$ である)。$R$ を成分とする $m\times n$ 行列全体を $M_{m,n}(R)$、$n$ 次正方行列全体を $M_n(R)$ と書く。Kronecker のデルタ $\delta_{ij}$ は、$i=j$ のとき $1$、$i\neq j$ のとき $0$ を表す $R$ の元である。

単位行列

正の整数 $n$ に対し、$(i,j)$ 成分が $\delta_{ij}$ である $n$ 次正方行列
$$ I_n:=(\delta_{ij})_{1\le i,j\le n}=\begin{pmatrix}1&0&\cdots&0\\0&1&\cdots&0\\\vdots&\vdots&\ddots&\vdots\\0&0&\cdots&1\end{pmatrix}\in M_n(R) $$
を $R$ 上の $n$ 次 単位行列(identity matrix)という。対角成分($(i,i)$ 成分)がすべて $1$ で、それ以外の成分がすべて $0$ の正方行列である。大きさが文脈から分かるときは $I$ と書く。

$R^n$ の標準基底を $e_1,\dots,e_n$($e_j$ は第 $j$ 成分だけが $1$ の列ベクトル)とすると、$I_n$ の第 $j$ 列は $e_j$ であり、$I_n=\begin{pmatrix}e_1&e_2&\cdots&e_n\end{pmatrix}$ と列を並べて書ける。

記号と呼び名

単位行列の記号は文献によって異なる。英語の文献では identity の頭文字から $I$ または $I_n$ と書くことが多く(Axl24 3.79)、日本の高校や一部の教科書では $E$ または $E_n$ と書く(行列の演算(高校数学) の定義「単位行列と累乗」は $E$ を使う)。$M_n(R)$ を環とみる文脈では環の単位元として $1$ や $1_n$ と書くこともある。この記事では、$(i,j)$ 成分だけが $1$ の行列単位 $E_{ij}$(行列環 の定義「行列単位とスカラー行列」)と紛れないように $I_n$ を使う。英語では unit matrix とも呼ぶが、環論では unit が「可逆元」(単元)を意味するので、identity matrix の方が紛れがない。また、成分がすべて $1$ の行列(all-ones matrix、しばしば $J$ と書く。この記事では全 1 行列を $J_n$ と添字付きで書き、添字のない $J$ は Jordan 細胞を表す)は単位行列とは別のものである(rem-identity-matrix-comparison)。

例

小さい単位行列と積の計算

$$ I_1=(1),\qquad I_2=\begin{pmatrix}1&0\\0&1\end{pmatrix},\qquad I_3=\begin{pmatrix}1&0&0\\0&1&0\\0&0&1\end{pmatrix} $$
である。$2\times 3$ 行列 $A=\begin{pmatrix}2&5&-1\\0&3&4\end{pmatrix}$ に対して
$$ I_2A=\begin{pmatrix}1\cdot2+0\cdot0&1\cdot5+0\cdot3&1\cdot(-1)+0\cdot4\\0\cdot2+1\cdot0&0\cdot5+1\cdot3&0\cdot(-1)+1\cdot4\end{pmatrix}=A $$
であり、右からは $I_3$ を掛けて $AI_3=A$ となる。長方形の行列では、左から掛ける単位行列と右から掛ける単位行列の大きさが違うことに注意する。

恒等射・零乗・単位的マグマの単位元

単位行列は、いろいろな構造の「何もしない元」として現れる。

  • 体 $K$ 上の行列を射とする圏(対象は正の整数、$n$ から $m$ への射は $m\times n$ 行列、合成は行列の積)では、対象 $n$ の恒等射は $I_n$ である。
  • 正方行列 $A$ の $0$ 乗は $A^0:=I$ と定める。すると指数法則 $A^rA^s=A^{r+s}$ が $r,s\ge0$ のすべてで成り立つ。有向グラフ の命題「隣接行列の冪と有向歩道の個数」で $M^0=I$ が長さ $0$ の歩道の個数を数えるのは、この約束による。
  • $M_2(\mathbb{R})$ に $A\circ B:=\frac12(AB+BA)$ で定めた演算についても $I$ は単位元である(単位的マグマ の例「Jordan積による非結合的な例」)。
置換行列・対角行列・スカラー行列としての単位行列

単位行列は次の 3 つの族のどれにも属する。

  • 置換 $\sigma$ に対し、第 $j$ 列が $e_{\sigma(j)}$ である行列を置換行列 $P_\sigma$ という。$P_\sigma e_j=e_{\sigma(j)}$ なので $P_\sigma P_\tau=P_{\sigma\tau}$ であり、恒等置換に対応する置換行列が $I_n$ である。
  • 対角成分以外がすべて $0$ の行列を対角行列という。$I_n$ は対角成分がすべて $1$ の対角行列である。
  • $c\in R$ に対し、対角成分がすべて $c$ の対角行列 $cI_n$ をスカラー行列という。$I_n$ は $c=1$ のスカラー行列であり、$cI_n$ は $I_n$ の $c$ 倍である。

積の単位元としての単位行列

単位行列は積の単位元

$A\in M_{m,n}(R)$ ならば $I_mA=A$ かつ $AI_n=A$ である。とくに $I_n$ は行列環 $M_n(R)$ の乗法の単位元である。

$A=(a_{ij})$ とする。積の定義から $I_mA$ の $(i,j)$ 成分は $\sum_{k=1}^{m}\delta_{ik}a_{kj}$ である。和の中で $\delta_{ik}\neq0$ となるのは $k=i$ の項だけで、その項は $1\cdot a_{ij}=a_{ij}$ なので、$(I_mA)_{ij}=a_{ij}$ である。同様に $(AI_n)_{ij}=\sum_{k=1}^{n}a_{ik}\delta_{kj}=a_{ij}$ である(行列 の記事の命題「デルタ記号の計算規則」)。この計算は $R$ の可換性を使わない。$\square$

単位元は 1 つしかない。次の命題はそれを少し強い形で述べる。

単位元の一意性

$F,G\in M_n(R)$ とする。

  1. すべての $A\in M_n(R)$ について $FA=A$ であり、すべての $A\in M_n(R)$ について $AG=A$ であるならば、$F=G$ である。とくに、左から掛けて相手を変えない行列(左単位元)も、右から掛けて相手を変えない行列(右単位元)も $I_n$ だけである。
  2. すべての列ベクトル $x\in R^n$ について $Fx=x$ ならば $F=I_n$ である。

1:$G$ が右単位元なので $F=FG$、$F$ が左単位元なので $FG=G$ である。よって $F=G$ である。prop-identity-matrix-neutral により $I_n$ は左単位元でも右単位元でもあるから、左単位元 $F$ は $F=I_n$ を、右単位元 $G$ は $I_n=G$ を満たす。
2:$F$ の第 $j$ 列は $Fe_j$ であり、仮定から $Fe_j=e_j$ である。$e_j$ は $I_n$ の第 $j$ 列なので、$F$ と $I_n$ は列がすべて一致し、$F=I_n$ である。$\square$

1 の議論は行列によらず、二項演算の左単位元と右単位元は(両方あれば)一致するという一般的な事実である(単位元)。$M_n(R)$ の元で両側の逆元をもつものの全体は、$I_n$ を単位元とする群 $\mathrm{GL}_n(R)$ をなす(一般線形群、正則行列)。

恒等写像の表現行列

ここでは $K$ を体、$V$ を $K$ 上の $n$ 次元ベクトル空間とする。$V$ の基底(基底と次元)$u=(u_1,\dots,u_n)$ を 1 つ選ぶと、$x=\sum_jc_ju_j$ にその係数の列 $(c_1,\dots,c_n)^{\top}$ を対応させる座標写像 $\varphi_u\colon V\to K^n$ が定まる。$\varphi_u$ は線形な全単射である。線形写像 $T\colon V\to V$ と 2 つの基底 $u,v$ に対し、
$$ T(u_j)=\sum_{i=1}^{n}a_{ij}v_i\qquad(j=1,\dots,n) $$
で定まる $A=(a_{ij})$ を、基底 $u,v$ に関する $T$ の表現行列と呼び、$M_{u,v}(T)$ と書く(線形代数学 の記事の定理「表現行列と基底の取り替え」。$u=v$ のときは $M_u(T)$ と書く)。

恒等写像の表現行列

$u,v$ を $V$ の基底とする。

  1. どの基底 $v$ についても $M_v(\mathrm{id}_V)=I_n$ である。逆に、線形写像 $T\colon V\to V$ がある基底 $v$ について $M_v(T)=I_n$ を満たせば、$T=\mathrm{id}_V$ である。
  2. $P:=M_{u,v}(\mathrm{id}_V)$、$Q:=M_{v,u}(\mathrm{id}_V)$ とおくと $QP=PQ=I_n$ である。すなわち $P$ は正則で $P^{-1}=Q$ である。
  3. $P$ は座標写像を取り替える。すなわち、すべての $x\in V$ について $P\varphi_u(x)=\varphi_v(x)$ である。

3 は次の図式が可換であることを言っている(縦の矢印は $y\mapsto Py$ である)。
$$ \xymatrix{ V \ar[r]^{\varphi_u} \ar[dr]_{\varphi_v} & K^n \ar[d]^{P} \\ & K^n } $$
式で書けば $P\circ\varphi_u=\varphi_v$ であり、2 と合わせると $Q\circ\varphi_v=\varphi_u$ でもある。

1:$\mathrm{id}_V(v_j)=v_j=\sum_{i}\delta_{ij}v_i$ なので、$\mathrm{id}_V$ の表現行列の $(i,j)$ 成分は $\delta_{ij}$ であり、$M_v(\mathrm{id}_V)=I_n$ である。逆に $M_v(T)=I_n$ なら $T(v_j)=\sum_i\delta_{ij}v_i=v_j$ がすべての $j$ で成り立つ。線形写像は基底での値で決まる(線形代数学 の記事の定理「表現行列と基底の取り替え」の 1)ので、$T=\mathrm{id}_V$ である。
2:同定理の 2 により、合成 $S\circ T$ の表現行列は表現行列の積である。$\mathrm{id}_V=\mathrm{id}_V\circ\mathrm{id}_V$ を、基底 $u$ から $v$ へ、続けて $v$ から $u$ へと読むと $M_u(\mathrm{id}_V)=M_{v,u}(\mathrm{id}_V)M_{u,v}(\mathrm{id}_V)=QP$ であり、1 により左辺は $I_n$ である。$u$ と $v$ の役割を入れ替えれば $PQ=I_n$ も得られる。
3:$P=(p_{ij})$ とすると $u_j=\mathrm{id}_V(u_j)=\sum_ip_{ij}v_i$ である。$x=\sum_jc_ju_j$ とおくと
$$ x=\sum_{j}c_j\sum_{i}p_{ij}v_i=\sum_{i}\Bigl(\sum_{j}p_{ij}c_j\Bigr)v_i $$
であり、$v_i$ の係数 $\sum_jp_{ij}c_j$ は列ベクトル $P\varphi_u(x)$ の第 $i$ 成分である。座標は一意に定まるので $\varphi_v(x)=P\varphi_u(x)$ である。$\square$

2 は Axl24 3.82 の内容であり、単位行列の定義と「どの基底でも恒等写像の行列は単位行列である」ことは同書 3.79 とその直後にある。$P$ は基底の取り替えの行列で、その第 $j$ 列は $u_j$ を基底 $v$ で表した係数の列 $\varphi_v(u_j)$ である。1 の逆の主張から、$\mathrm{id}_V$ 以外の線形写像は、どの基底で書いても単位行列にならない。

行列式・固有値・相似

以下この節では $K$ を体とし、$A\in M_n(K)$ の固有多項式を $p_A(x):=\det(xI_n-A)$ と書く(固有多項式 の記事と同じ流儀)。

単位行列の基本的な値
  1. ${}^{t}I_n=I_n$、すべての $k\in\mathbb{N}$ について $I_n^{\,k}=I_n$、$I_n$ は正則で $I_n^{-1}=I_n$ である。
  2. $\det I_n=1$ であり、跡は $\operatorname{tr}I_n=n\cdot1$($K$ の中で $1$ を $n$ 個足した元)である。
  3. $p_{I_n}(x)=(x-1)^n$ である。$I_n$ の固有値は $1$ だけであり、$0$ でないすべてのベクトルが固有値 $1$ の固有ベクトルである。
  4. $I_n$ に相似な行列は $I_n$ だけである。すなわち、すべての正則行列 $P$ について $P^{-1}I_nP=I_n$ である。

1:${}^{t}I_n$ の $(i,j)$ 成分は $\delta_{ji}=\delta_{ij}$ である。prop-identity-matrix-neutral で $A=I_n$ とすれば $I_nI_n=I_n$ で、$k$ についての帰納法で $I_n^{\,k}=I_n$ を得る($k=0$ は $A^0:=I_n$ の約束による)。$I_nI_n=I_n$ は $I_n$ が自分自身の逆行列であることを言っている。
2:Leibniz の公式 $\det A=\sum_{\sigma}\operatorname{sgn}(\sigma)\,a_{1\sigma(1)}\cdots a_{n\sigma(n)}$(行列式 の記事の定義「Leibnizの公式による定義」)で $A=I_n$ とすると、積 $\delta_{1\sigma(1)}\cdots\delta_{n\sigma(n)}$ が $0$ でないのは $\sigma(i)=i$ がすべての $i$ で成り立つとき、すなわち $\sigma$ が恒等置換のときだけで、その項は $+1$ である。よって $\det I_n=1$ である。跡は対角成分の和なので $1+\dots+1=n\cdot1$ である。
3:$xI_n-I_n$ は対角成分がすべて $x-1$ の対角行列である。2 と同じく Leibniz の公式で恒等置換の項だけが残るので、$p_{I_n}(x)=(x-1)^n$ である。固有値は固有多項式の根なので $1$ だけである。また $I_nv=v=1\cdot v$ なので、$0$ でないすべての $v$ が固有値 $1$ の固有ベクトルである。
4:$P^{-1}I_nP=P^{-1}P=I_n$ である。$\square$

2 の跡は、標数が $n$ を割り切る体では $0$ になる。たとえば $\mathbb{F}_2$ 上で $\operatorname{tr}I_2=1+1=0$ である(ex-identity-matrix-trace)。3 と 4 から、固有多項式 $(x-1)^n$ は単位行列を特徴づけない。$I_n$ の相似類は $I_n$ 1 つだけなのに、固有多項式が $(x-1)^n$ の行列はほかにもあるからである(ex-identity-matrix-jordan-block)。単位行列を特徴づけるには、次のような条件が要る。

単位行列の特徴づけ

$A\in M_n(K)$ について、次は同値である。

  1. $A=I_n$ である。
  2. $A$ は正則であり、$A^2=A$(冪等)である。
  3. $A$ は対角化可能であり、固有値が $1$ だけである。

1 ⇒ 2 と 1 ⇒ 3 は prop-identity-matrix-values による($I_n$ 自身が対角行列である)。
2 ⇒ 1:$A^2=A$ の両辺に左から $A^{-1}$ を掛けると $A=A^{-1}A^2=A^{-1}A=I_n$ である。
3 ⇒ 1:対角化可能なので、正則行列 $P$ と対角行列 $D$ で $P^{-1}AP=D$ となるものがある。$D$ の対角成分を $d_1,\dots,d_n$ とすると、$p_D(x)=\prod_i(x-d_i)$ であり(3 の証明と同じく Leibniz の公式で恒等置換の項だけが残る)、相似な行列の固有多項式は等しい(固有値 の記事の命題「固有多項式の相似不変性」)ので、$d_1,\dots,d_n$ は $A$ の固有値である。仮定からすべて $1$ なので $D=I_n$ であり、$A=PDP^{-1}=PP^{-1}=I_n$ である。$\square$

すべての行列と交換する行列

$R$ が零環でなく $n\ge2$ なら、$M_n(R)$ は可換でない(行列環 の命題「行列環が可換になる場合」)。単位行列は、すべての行列と交換する例である。

すべての行列と交換する行列

$R$ を可換環とする。$A\in M_n(R)$ がすべての $B\in M_n(R)$ と交換する($AB=BA$)ことは、ある $c\in R$ について $A=cI_n$(スカラー行列)であることと同値である。

$A=cI_n$ なら、$R$ が可換なので $(cI_n)B=cB=B(cI_n)$ である。
逆に $A=(a_{ij})$ がすべての行列と交換するとする。$E_{jj}$ を $(j,j)$ 成分だけが $1$ の行列とすると、$AE_{jj}$ は $A$ の第 $j$ 列だけを残した行列、$E_{jj}A$ は $A$ の第 $j$ 行だけを残した行列である。両者の $(i,j)$ 成分を比べると、$i\ne j$ のとき $a_{ij}=0$ を得る。よって $A$ は対角行列 $\operatorname{diag}(a_{11},\dots,a_{nn})$ である。次に $i\neq j$ とし、$i$ と $j$ を入れ替える互換 $\tau$ の置換行列 $P=P_\tau$(ex-identity-matrix-special)をとる。$Pe_k=e_{\tau(k)}$ と $\tau^2=\mathrm{id}$ から $P^{-1}=P$ であり、
$$ PAP^{-1}e_{\tau(k)}=PAe_k=a_{kk}Pe_k=a_{kk}e_{\tau(k)} $$
なので、$PAP^{-1}$ は $A$ の対角成分の $i$ 番目と $j$ 番目を入れ替えた対角行列である。$AP=PA$ より $PAP^{-1}=A$ なので $a_{ii}=a_{jj}$ である。したがって対角成分はすべて等しく、$c:=a_{11}$ とおけば $A=cI_n$ である。$\square$

成分の環が可換でない場合も含めた一般の形 $Z(M_n(R))=\{cI_n\mid c\in Z(R)\}$ は、行列環 の命題「行列環の中心」に行列単位 $E_{ij}$ を使う別の証明がある。正則行列の群 $\mathrm{GL}_n(R)$ の中心もスカラー行列からなる(一般線形群 の命題「スカラー行列からなる中心」)。

片側から掛けて単位行列になる場合

逆行列は $AB=BA=I_n$ で定義される。正方行列では片側の等式だけで足りる。

片側の逆行列は両側の逆行列

$K$ を体とし、$A,B\in M_n(K)$ とする。$AB=I_n$ ならば $BA=I_n$ である。

行列の空間 $M_n(K)$ は $K$ 上 $n^2$ 次元のベクトル空間である。線形写像 $\rho\colon M_n(K)\to M_n(K)$ を $\rho(X):=XA$ で定める。$\rho(X)=0$ なら
$$ X=XI_n=X(AB)=(XA)B=0\cdot B=0 $$
なので $\rho$ は単射である。定義域と値域の次元が等しい有限次元空間の間の線形写像なので、単射なら全射である(線形代数学 の記事の定理「次元定理」)。よって $\rho(C)=I_n$、すなわち $CA=I_n$ となる $C\in M_n(K)$ がある。すると
$$ C=CI_n=C(AB)=(CA)B=I_nB=B $$
であり、$BA=CA=I_n$ である。$\square$

線形写像の言葉での同じ主張は Axl24 3.68 にあり、$K^n$ 上の写像 $x\mapsto Bx$ の単射性から示す別の証明が 正則行列 の定理「片側の逆行列で十分であること」にある。成分が可換環のときは、$AB=I_n$ から $\det A\det B=1$ となることを使う証明がある(一般線形群 の命題「行列式による可逆性の判定」)。上の証明は、$M_n(K)$ 自身が有限次元であることだけを使っている。
次の表は、定理と前の節の命題の仮定を外すと結論が成り立たなくなることを示す。

外す条件反例成り立たなくなること
正方である$A=\begin{pmatrix}1&0\end{pmatrix}$、$B=\begin{pmatrix}1\\0\end{pmatrix}$$AB=I$ なら $BA=I$
有限次元である$K[t]$ 上の $S(f)=tf$ と、定数項を捨てて $t$ で割る $T$$TS=\mathrm{id}$ なら $ST=\mathrm{id}$
成分の環が体である$n=1$、成分の環 $\operatorname{End}_K(K[t])$$AB=I_1$ なら $BA=I_1$
対角化可能である$J=\begin{pmatrix}1&1\\0&1\end{pmatrix}$固有値が $1$ だけなら $A=I$
正則である$E_{11}=\begin{pmatrix}1&0\\0&0\end{pmatrix}$$A^2=A$ なら $A=I$
標数が $n$ を割らない$\mathbb{F}_2$ 上の $I_2$$\operatorname{tr}I_n\neq0$
反例:正方でない行列

$A=\begin{pmatrix}1&0\end{pmatrix}\in M_{1,2}(K)$、$B=\begin{pmatrix}1\\0\end{pmatrix}\in M_{2,1}(K)$ とすると
$$ AB=\begin{pmatrix}1\end{pmatrix}=I_1,\qquad BA=\begin{pmatrix}1&0\\0&0\end{pmatrix}\neq I_2 $$
である。「$AB$ が単位行列」を満たすが「$BA$ が単位行列」を満たさない。thm-identity-matrix-one-sided の証明では $A$ と $B$ が同じ大きさの正方行列であることを、$\rho$ の定義域と値域が同じ空間であることに使っている(正則行列 の例「反例:正方でない行列の片側の逆」)。

反例:無限次元と、体でない成分の環

多項式の空間 $K[t]$ の線形写像 $S(f):=tf$ と $T(f):=(f-f(0))/t$ について、$T(S(f))=f$ なので $TS=\mathrm{id}$ であるが、$S(T(1))=S(0)=0\neq1$ なので $ST\neq\mathrm{id}$ である(単元 の例「反例:片側だけの逆元」)。$K[t]$ は無限次元なので、「$TS$ が恒等写像」を満たしても「$ST$ が恒等写像」は従わない。
同じ $S,T$ を、線形写像全体のなす可換でない環 $R=\operatorname{End}_K(K[t])$ の元とみて $1\times1$ 行列 $(T),(S)\in M_1(R)$ とすると、$(T)(S)=(TS)=I_1$ だが $(S)(T)=(ST)\neq I_1$ である。成分の環を体から一般の環に広げると、正方行列でも片側の逆が両側の逆にならないことがある(この環は可換でも斜体でもない)。

反例:固有値が 1 だけでも単位行列とは限らない

$J=\begin{pmatrix}1&1\\0&1\end{pmatrix}$ の固有多項式は $(x-1)^2=p_{I_2}(x)$ で、固有値は $1$ だけである。しかし $J\neq I_2$ である。prop-identity-matrix-values の 4 により $I_2$ に相似な行列は $I_2$ だけなので、$J$ は $I_2$ に相似でなく、したがって対角化可能でない(対角化可能なら prop-identity-matrix-characterization により $J=I_2$ となる)。この例は「固有値が $1$ だけ」を満たすが「対角化可能」を満たさず、「固有多項式が $(x-1)^n$ なら単位行列」という含意を破る。$J$ はJordan標準形の、固有値 $1$ の 2 次の Jordan 細胞である。

反例:冪等でも単位行列とは限らない

$E_{11}=\begin{pmatrix}1&0\\0&0\end{pmatrix}$ は $E_{11}^2=E_{11}$ を満たすが $I_2$ ではない。$\det E_{11}=0$ なので正則でない。この例は「冪等」を満たすが「正則」を満たさず、prop-identity-matrix-characterization の 2 から正則の仮定を外すと「冪等なら単位行列」が成り立たないことを示す。同様に、$A^2=I$ を満たす行列も単位行列とは限らない(たとえば $\begin{pmatrix}0&1\\1&0\end{pmatrix}$。行列の演算(高校数学) の例「反例:$X^2=E$ の解は無数にある」)。

跡が 0 になる単位行列

$\mathbb{F}_2$ 上の $I_2$ は $\operatorname{tr}I_2=1+1=0$ を満たす。一般に標数 $p$ の体では、$p$ が $n$ を割り切るとき $\operatorname{tr}I_n=n\cdot1=0$ である。したがって「単位行列の跡は $0$ でない」「跡から行列の大きさが読める」という含意は、標数 $0$ の体($\mathbb{Q}$、$\mathbb{R}$、$\mathbb{C}$ など)でだけ成り立つ。

似た行列との区別

体 $K$ 上の $n$ 次正方行列($n\ge2$)で、単位行列と紛れやすいものを比べる。

単位行列 $I_n$スカラー行列 $cI_n$対角行列置換行列 $P_\sigma$全 1 行列 $J_n$
成分対角が $1$、他は $0$対角が $c$、他は $0$対角以外が $0$各行・各列に $1$ が 1 つすべて $1$
すべての行列と交換するするする対角成分がすべて等しいときだけ$\sigma=\mathrm{id}$ のときだけしない
積の単位元であるである$c=1$ のときだけ対角成分がすべて $1$ のときだけ$\sigma=\mathrm{id}$ のときだけでない
行列式$1$$c^n$対角成分の積$\operatorname{sgn}\sigma$$0$

「すべての行列と交換する」の行は prop-identity-matrix-center による(交換するのはスカラー行列だけで、置換行列 $P_\sigma$ がスカラー行列になるのは $P_\sigma e_j=e_{\sigma(j)}$ がすべての $j$ で $e_j$ の定数倍のとき、すなわち $\sigma=\mathrm{id}$ のときだけである)。「積の単位元である」の行は prop-identity-matrix-unique による。

全 1 行列との違い

成分がすべて $1$ の行列 $J_n$ は、名前や見た目が似ていても単位行列とはまったく違う。$n\ge2$ なら $J_n$ の行はすべて等しいので $\det J_n=0$ であり、$J_n$ は正則でさえない。実際 $J_2E_{11}=\begin{pmatrix}1&0\\1&0\end{pmatrix}\neq E_{11}$ なので $J_2$ は左単位元でない。また $J_n^2=nJ_n$ である($J_n^2$ の各成分は $1\cdot1$ を $n$ 個足したもの)。単位行列を特徴づけるのは「$1$ が並ぶこと」ではなく、「対角線の上にだけ $1$ が並ぶこと」である。

補足

区分けと環準同型

区分けした行列で書くと、$\begin{pmatrix}I_m&O\\O&I_n\end{pmatrix}=I_{m+n}$ である($O$ は零行列)。これは、$K^{m+n}=K^m\oplus K^n$ の恒等写像が各成分の恒等写像の直和であることの行列での表現である。また、環準同型 $f\colon R\to S$ は $f(1)=1$、$f(0)=0$ を満たすので、成分ごとに $f$ を施す写像 $M_n(R)\to M_n(S)$ は $I_n$ を $I_n$ に移し、単位元を保つ環準同型になる。たとえば整数行列を $p$ を法として還元しても、$I_n$ は $\mathbb{F}_p$ 上の $I_n$ に移る。

関連項目

参考文献

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