始対象(豊穣圏)

同義語:豊穣始対象

概要

始対象(豊穣圏)(enriched initial object)とは、そこから任意の対象へのHom対象が基礎圏の終対象になる対象である。通常の射の一意性だけでなく、その射が持つ豊穣構造全体の一意性を要求する。集合による豊穣化では通常の始対象に一致し、空図式の豊穣余極限となる。

$$\newcommand{C}[0]{\mathbb{C}} \newcommand{N}[0]{\mathbb{N}} \newcommand{Q}[0]{\mathbb{Q}} \newcommand{R}[0]{\mathbb{R}} \newcommand{Z}[0]{\mathbb{Z}} $$

前提知識: 圏、豊穣圏、モノイダル閉圏

定義

通常の始対象は、任意の対象への射をただ一つ持つ。豊穣圏では射の集まりが集合以外の構造を持つため、「ただ一つ」をその構造全体について要求する。
基礎圏を局所小で完備・余完備な対称モノイダル閉圏 $(\mathcal V,\otimes,I)$ とする。これは以下を一括して扱う十分条件であり、始対象の定義だけの最小条件ではない。閉性とは、内部Hom $[U,V]$ と自然な全単射
$$ \mathcal V(T\otimes U,V)\cong\mathcal V(T,[U,V]) $$
があることをいう。$\mathbf1_{\mathcal V}$ は $\mathcal V$ の終対象であり、テンソル単位 $I$ と区別する。

豊穣圏と台の圏

$\mathcal V$-豊穣圏 $\mathcal C$ は、対象、Hom対象 $\mathcal C(x,y)\in\mathcal V$、合成
$$ \mathcal C(y,z)\otimes\mathcal C(x,y)\longrightarrow\mathcal C(x,z) $$
と単位 $I\to\mathcal C(x,x)$ を持つ。合成は結合律と単位律を満たす。台の通常圏 $\mathcal C_0$ は同じ対象を持ち、
$$ \mathcal C_0(x,y)=\mathcal V(I,\mathcal C(x,y)) $$
を射集合とする。

豊穣始対象

始対象(豊穣圏)(enriched initial object)は、すべての $x\in\mathcal C$ に対して
$$ \mathcal C(0,x)\cong\mathbf1_{\mathcal V} $$
となる対象 $0$ である。同型は $\mathcal V$ の中の同型である。言い換えると、任意のパラメータ $T\in\mathcal V$ に対して射 $T\to\mathcal C(0,x)$ がただ一つ存在する。

終対象への射は一意なので、この同型を選ぶ自由はない。合成との整合性も終対象への射の一意性により従う。この定義は空の通常図式の豊穣余極限(余極限(豊穣圏))である。一般のconicalな余極限の定義とその空図式への特殊化は Kel82 §3.8、式(3.55)による。

直感

要求するHom対象は $\mathcal V$ の「始対象」ではなく「終対象」である。そこへの射を、どんな試験対象からも一意にしたいからである。集合では一点集合、アーベル群では零群、圏では終圏になる。基礎圏のテンソル単位と終対象が一致しない場合もある。

例と反例

集合による豊穣化

$\mathcal V=\mathbf{Set}$、$\otimes=\times$ なら $I=\mathbf1_{\mathcal V}=\{*\}$ である。定義は $\mathcal C(0,x)$ が一点集合という条件、すなわち通常の始対象そのものである。特に集合の圏の空集合は始対象である。$\operatorname{Hom}(\emptyset,X)$ は空集合ではなく一点集合である。

アーベル群の零対象

$\mathcal V=\mathbf{Ab}$、$\otimes=\otimes_{\mathbb Z}$ とし、$\mathbf{Ab}$ 自身を加法群 $\operatorname{Hom}_{\mathbb Z}(A,B)$ で豊穣化する。零群 $0$ から $A$ へのHom対象は零群なので、$0$ は豊穣始対象である。同時に終対象(豊穣圏)でもあり、零対象を与える。ここでは終対象は零群、テンソル単位は $\mathbb Z$ であり、両者は異なる。

順序集合の空対象

順序集合の圏 $\mathbf{Pos}$ を直積でモノイダル化し、単調写像全体を点ごとの順序で並べたHom順序集合で自己豊穣化する。空順序集合から任意の $P$ への単調写像は一つだけなので、そのHom順序集合は一点である。したがって空順序集合は豊穣始対象となる。

反例:唯一の射に自己変換が残る

基礎を $\mathbf{Cat}$、テンソルを直積とする。$M=\mathbb Z/2\mathbb Z$ に対し、一対象の圏 $BM$ を、自己射の集合が $M$、合成が加法である圏とする。
一対象 $c$ の $\mathbf{Cat}$-豊穣圏 $\mathcal D$ を $\mathcal D(c,c)=BM$ で定める。豊穣合成 $BM\times BM\to BM$ は射を $(r,s)\mapsto r+s$ に送る。$M$ の可換性により
$$ (r'+r)+(s'+s)=(r'+s')+(r+s) $$
なので、これは関手である。結合律と単位律は加法の法則から従う。
台の圏の射 $\mathcal D_0(c,c)$ は $BM$ の対象に対応するため一つだけで、$c$ は台の圏の始対象である。しかし $BM$ は非恒等の自己射を持ち、終圏と同型ではない。したがって $c$ は豊穣始対象ではない。「台の圏の始対象なら豊穣始対象」という一般の含意への反例である。

$\mathbf{Pos}$-豊穣ではこの始対象の反例は作れない。一点しか持たない順序集合は一点順序集合そのものだからである。ただし通常の積と豊穣積は、$\mathbf{Pos}$-豊穣でも異なり得る。

性質と証明

台の圏への移行

豊穣始対象は $\mathcal C_0$ の始対象である。

単位からの射

$\mathcal C(0,x)\cong\mathbf1_{\mathcal V}$ に $\mathcal V(I,-)$ を適用すると
$$ \mathcal C_0(0,x)\cong\mathcal V(I,\mathbf1_{\mathcal V}) $$
を得る。終対象の定義により右辺は一点集合である。これが通常の始対象の条件である。

一意性

豊穣始対象 $0,0'$ の間には、台の圏においてただ一つの同型がある。

二つの唯一射

直前の性質から、射 $f:0\to0'$ と $g:0'\to0$ がそれぞれ一意に存在する。$g\circ f$ と $\operatorname{id}_0$ はどちらも $0\to0$ の射だから等しく、$f\circ g=\operatorname{id}_{0'}$ も同様である。同型の一意性も射の一意性から従う。

基礎圏自身の始対象

$\mathcal V$ の通常の始対象 $O$ は、内部Homによる自己豊穣圏 $\mathcal V$ の豊穣始対象である。

全パラメータでの検出

任意の $T,X\in\mathcal V$ について
$$ \mathcal V(T,[O,X])\cong\mathcal V(T\otimes O,X). $$
$T\otimes-$ は閉性と対称性により左随伴であり、始対象を保つ。したがって $T\otimes O$ は始対象で、右辺は一点集合である。全 $T$ について成り立つため、$[O,X]$ は終対象である。ここでは $T=I$ だけで判定していない。

任意の豊穣圏に始対象が存在するわけではない。たとえば空でない集合だけの充満 $\mathbf{Set}$-豊穣部分圏には始対象がない。どの空でない $A$ からも二点集合への二つの定値写像があるからである。

空図式と∞圏への接続

空の通常圏からの図式にはデータがない。その余極限 $0$ のHomによる条件は
$$ \mathcal C(0,x)\cong\lim_{\emptyset}\mathcal C(-,x) =\mathbf1_{\mathcal V}, $$
となり、上の定義を正確に回収する。一般の重み付き余極限(重み付き極限(豊穣圏))を、任意の豊穣添字圏上の「定値単位」で定義できるという主張ではない。
単体的集合の圏 $\mathcal V=\mathbf{sSet}$ を直積でモノイダル化すると、豊穣始対象は $\mathcal C(0,x)\cong\Delta^0$ を要求する。さらに全HomがKan複体である局所Kanな単体的圏では、ホモトピー整合的脈体 $N_{\mathrm{hc}}\mathcal C$ は準圏をなし、その写像空間(写像空間(∞圏))は単体的Homで表される。したがって豊穣始対象はこの準圏の始対象(始対象(∞圏))になる。ここでは局所Kan脈体の比較と、始対象の「全写像空間が可縮」という判定を引用する。HTT09 Proposition 1.1.5.10、§2.2、Proposition 1.2.12.4の双対。
∞圏で必要なのは一点との同型ではなく可縮性である。一般の単体的モデル圏から計算するときはcofibrant–fibrant対象の部分圏を使い、未置換のHomをそのまま導来写像空間とはしない。相対圏の単体的局所化から得た表示も、必要な局所Kan置換とモデル比較を経て用いる。これらの一般比較は本記事の初歩的証明とは別の引用基礎である。

関連項目

参考文献

[2]
Jacob Lurie, Higher Topos Theory, Annals of Mathematics Studies 170, Princeton University Press, 2009, Proposition 1.1.5.10; §2.2 (simplicial-category mapping-space comparison); Proposition 1.2.12.4 and its dual; §§A.3.2–A.3.3 (simplicial model categories)

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