アーベル圏(Abelian category)とは、任意の射が核と余核を持ち、任意のモノ射が自身の余核の核であり、任意のエピ射が自身の核の余核であるような加法圏である。同値に、有限完備かつ有限余完備で零対象を持ち、任意の射が正則エピ射と正則モノ射に一意的に分解する圏として特徴づけられる。$\mathbf{Ab}$、環上の加群の圏、位相空間上のアーベル群の層の圏などが典型例であり、完全列・ホモロジーを定式化する基盤になる。
前提知識: 圏, 加法圏, 零対象, 零射
アーベル圏とは、$\mathbf{Ab}$(アーベル群の圏)や $R\text{-Mod}$(環 $R$ 上の加群の圏)が持つ「核・余核が常に存在する」「単射と全射が像・余像を通じて対称的にふるまう」という性質を、要素を使わずに圏論の言葉だけで公理化したものである。この記事では、標準的な二つの同値な定義を与えたうえで、モノ射・エピ射の核・余核による特徴づけを自己完結的に証明し、具体例と反例、および加法圏の階層における位置づけを述べる。
以下、圏 $\mathcal A$ は常に対象類・射類を持つ通常の意味の圏とする。まず土台となる加法圏の構造を確認する。加法圏(加法圏)とは、各 $\mathrm{Hom}(A,B)$ にアーベル群の構造が入り合成が双線型であるような前加法圏であって、零対象と任意有限個の対象の双積(有限直和と有限直積が一致する対象)を持つものをいう。加法圏では任意の二対象間に零射 $0_{A,B}\colon A\to B$(零射)が一意に定まる。
射 $f\colon A\to B$ の核とは零射 $0_{A,B}$ との等化子 $\ker f\to A$ であり、余核とは $0_{A,B}$ との余等化子 $B\to\operatorname{coker} f$ である(核、余核)。核は常にモノ射、余核は常にエピ射になる(等化子・余等化子の一般論による)。
加法圏 $\mathcal A$ が アーベル圏(abelian category)であるとは、次を満たすことをいう。
圏 $\mathcal A$ が次の三条件を満たすとき、$\mathcal A$ をアーベル圏という。
二つの定義は同値である。def-abelian-category の意味でアーベル圏であれば、双積・核・余核から有限極限・有限余極限がすべて構成でき(積は双積、等化子は差の核として得られる。余極限は双対)、正規性・余正規性から像 $\operatorname{im} f := \ker(\operatorname{coker} f)$ と余像 $\operatorname{coim} f := \operatorname{coker}(\ker f)$ の間の標準射 $\operatorname{coim} f \to \operatorname{im} f$ が同型になることが従い、これが正則エピ-正則モノ分解 $A \twoheadrightarrow \operatorname{coim} f \xrightarrow{\ \cong\ } \operatorname{im} f \hookrightarrow B$ を与える。逆向きの構成も成り立つ(Mac98、Fre64、Wei94)。本記事では、証明の見通しがよい正規性・余正規性による定義(def-abelian-category)を主定義とし、有限完備性による特徴づけ(def-abelian-category-completeness)を同値な言い換えとして併記する。
流儀の違い: Grothendieck「東北論文」Groth57 は、上記の意味でのアーベル圏に加え、任意個の余極限が存在し余極限が完全になる公理(AB3・AB5 など)と生成対象の存在を課した「AB5圏」(後のGrothendieck圏)を別に定義している。本記事の「アーベル圏」は AB5 等を仮定しない最も基本的な公理系であり、Grothendieck圏はその特殊化である(十分な入射対象の存在は Grothendieck圏側の帰結であり、本記事の対象ではない)。
$\mathbf{Ab}$ や $R\text{-Mod}$ では、準同型定理・完全列・図式追跡(diagram chasing)が元(element)を使って自由に行える。アーベル圏の公理は、この「元を使った議論」がいつ・どこまで通用するかを、元を持ち出さずに正確に切り出したものである。核・余核が正規性・余正規性を満たすことは、「単射は像への同型に潰れる」「全射は余像からの同型で復元できる」という準同型定理の骨格そのものである。
この抽象化には強力な裏付けがある。Freyd–Mitchell の埋め込み定理(性質節で述べる)により、任意の小さいアーベル圏はある環上の加群の圏へ完全に埋め込める。したがって、アーベル圏の一般論における証明は、実際には $R\text{-Mod}$ の元を使った図式追跡として書いてよく、それが圏論的に正当化される。これがアーベル圏が「元のない世界で元を使った証明をしてよい」枠組みと呼ばれる理由である。
一見恣意的に見える正規性・余正規性の公理(def-abelian-category 条件2・3)を外すと何が壊れるかは、下の反例(rem-abelian-category-nonexample)で具体的に確認できる。
$\mathbf{Ab}$(アーベル群と群準同型の圏)はアーベル圏である。核は部分群の包含、余核は商群への射影であり、通常の準同型定理がまさに正規性・余正規性を述べている。
環 $R$ に対し、左 $R$-加群の圏 $R\text{-Mod}$ はアーベル圏である($R=\mathbb Z$ のとき $\mathbf{Ab}$ に一致する)。有限次元 $K$-ベクトル空間の圏 $\operatorname{Vect}_K^{\mathrm{fd}}$ もその充満部分圏として(部分空間・商空間が再び有限次元だから)アーベル圏になる。
位相空間 $X$ 上のアーベル群の層の圏 $\operatorname{Sh}(X;\mathbf{Ab})$ はアーベル圏である。核は前層としての核がすでに層になるため各点の核と一致するが、余核・像は前層としての余核・像に対する層化を経て構成される点が $\mathbf{Ab}$ と異なる(芽 stalk では通常の準同型定理が成り立つ)。スキーム $X$ 上の準連接層の圏 $\operatorname{QCoh}(X)$ も同様にアーベル圏である。
$\mathbf{Ab}$ の充満部分圏として、捩れなし(torsion-free)アーベル群全体からなる圏 $\mathbf{Ab}_{\mathrm{tf}}$ を考える。直和は再び捩れなしだから $\mathbf{Ab}_{\mathrm{tf}}$ は加法圏であり、部分群は再び捩れなしだから任意の射は $\mathbf{Ab}_{\mathrm{tf}}$ 内に核を持つ。
しかし乗法射 $\mu_2\colon \mathbb Z\to\mathbb Z,\ n\mapsto 2n$(ex-abelian-category-mod の $\mathbb Z\text{-Mod}=\mathbf{Ab}$ の中の対象として)を考えると、任意の捩れなし群 $T$ への射 $h\colon\mathbb Z\to T$ で $h\circ\mu_2=0$ を満たすものは、$T$ に位数2の元がないため $h=0$ に限られる。したがって $\mathbf{Ab}_{\mathrm{tf}}$ 内での $\mu_2$ の余核は零対象であり、その核(零対象への零射の核)は恒等射 $\mathrm{id}_{\mathbb Z}$ に戻ってしまう。すなわち単射 $\mu_2$ は同型ではないのに、それ自身の余核の核とは一致しない——def-abelian-category 条件2(正規性)が破れる。$\mathbf{Ab}_{\mathrm{tf}}$ は加法圏だが、アーベル圏ではない(Wei94)。ex-abelian-category-mod の $\mathbf{Ab}$・$R\text{-Mod}$ が正規性を満たすことと対比せよ。
アーベル圏 $\mathcal A$ の射 $f\colon A\to B$ について、次が成り立つ。
(1) $f$ がモノ射であることと、$\ker f$ の定義域が零対象であることは同値である。
(2) $f$ がエピ射であることと、$\operatorname{coker} f$ の余定義域が零対象であることは同値である。
核 $k\colon K\to A$ をとる。
($\Rightarrow$) $f$ がモノ射であるとする。零射の定義より $f\circ k = 0_{K,B} = f\circ 0_{K,A}$(右辺は $K\to A$ の零射に $f$ を合成したもの)であるから、$f$ のモノ性により $k = 0_{K,A}$ を得る。次に核の普遍性を、射 $0_{K,A}\colon K\to A$(これは $f\circ 0_{K,A}=0$ を満たす)に適用すると、$k\circ u = 0_{K,A}$ を満たす一意な $u\colon K\to K$ が存在する。$u=\mathrm{id}_K$ は $k\circ\mathrm{id}_K=k=0_{K,A}$ を満たし、$u=0_{K,K}$($K$ 上の零射)も $k\circ 0_{K,K}=0_{K,A}$ を満たす(零射の吸収性、零射 の性質1(2))。普遍性の一意性より $\mathrm{id}_K = 0_{K,K}$。
恒等射が零射に等しい対象は零対象である:任意の対象 $Y$ と射 $a,b\colon K\to Y$ に対し $a = a\circ\mathrm{id}_K = a\circ 0_{K,K} = 0_{K,Y}$(零射 の吸収性)となるので $\mathrm{Hom}(K,Y)=\{0_{K,Y}\}$、同様に $\mathrm{Hom}(Y,K)=\{0_{Y,K}\}$。ゆえに $K$ は始対象かつ終対象、すなわち零対象である。
($\Leftarrow$) $K$ が零対象であるとする。$g,h\colon X\to A$ が $fg=fh$ を満たすとせよ。$\mathrm{Hom}(X,B)$ はアーベル群だから $f(g-h)=fg-fh=0$。核の普遍性より $g-h$ は $k$ を経由して一意に分解するが、$K$ が零対象だから $\mathrm{Hom}(X,K)=\{0\}$ であり、その分解射は $0$ しかない。よって $g-h = k\circ 0 = 0$、すなわち $g=h$。ゆえに $f$ はモノ射である。$\blacksquare$
反対圏 $\mathcal A^{\mathrm{op}}$ において、$\mathcal A$ の余核は $\mathcal A^{\mathrm{op}}$ の核に、$\mathcal A$ のエピ射は $\mathcal A^{\mathrm{op}}$ のモノ射にちょうど対応する(極限と余極限、モノとエピが圏の反転で入れ替わるという一般論による)。$\mathcal A$ が加法圏で(定義より)任意の射の余核を持つことから $\mathcal A^{\mathrm{op}}$ も加法圏で任意の射の核を持つので、$f\colon A\to B$ に (1) を $\mathcal A^{\mathrm{op}}$ における射 $f\colon B\to A$($\mathcal A^{\mathrm{op}}$ の向き)として適用できる:$\mathcal A^{\mathrm{op}}$ で $f$ がモノ射($\Leftrightarrow$ $\mathcal A$ で $f$ がエピ射)であることと、$\mathcal A^{\mathrm{op}}$ における $f$ の核($=\mathcal A$ における $f$ の余核)の定義域が零対象であることが同値になる。これがまさに主張 (2) である。$\blacksquare$
アーベル圏の射 $f\colon A\to B$ に対し、余像 $\operatorname{coim} f := \operatorname{coker}(\ker f)$ から像 $\operatorname{im} f := \ker(\operatorname{coker} f)$ への標準射 $\operatorname{coim} f \to \operatorname{im} f$ は同型である。証明は def-abelian-category の正規性・余正規性から像・余像を経由する分解を構成する形で与えられる(Mac98、Wei94)。この同型が def-abelian-category-completeness の「正則エピ-正則モノ分解の一意性」の内実である。
| 圏の階層 | 追加される公理 | 典型例 | まだ成り立たない性質 |
|---|---|---|---|
| 前加法圏 | 各 $\mathrm{Hom}$ にアーベル群構造・合成が双線型 | 環(対象1つの前加法圏) | 双積・核・余核が一般には存在しない |
| 加法圏 | 零対象・任意有限個の双積 | 自由加群の圏、$\operatorname{Vect}_K$ の有限直和で閉じた充満部分圏 | 核・余核が一般には存在しない |
| (加法圏で核・余核を持つがアーベルでない) | 任意の射が核・余核を持つ | $\mathbf{Ab}_{\mathrm{tf}}$(rem-abelian-category-nonexample) | 正規性・余正規性(単射・全射が像・余像と一致しない) |
| アーベル圏 | 正規性・余正規性(def-abelian-category) | $\mathbf{Ab}$、$R\text{-Mod}$、$\operatorname{Sh}(X;\mathbf{Ab})$ | 任意個の余極限の完全性(AB5)、生成対象 |
| Grothendieck圏 | AB5 + 生成対象 | $\operatorname{QCoh}(X)$、$R\text{-Mod}$ | — |
各行は直前の行を真に含む階層であり、rem-abelian-category-nonexample の $\mathbf{Ab}_{\mathrm{tf}}$ が「核・余核を持つ加法圏だがアーベルでない」段の具体例を与える。
この先の学び方: アーベル圏の性質(核・余核・正規性)だけでは、鎖複体のホモトピー・擬同型を扱うには不十分である。次の段階では、アーベル圏上の複体とホモロジー(鎖複体・鎖写像・鎖ホモトピー・擬同型)を経て、擬同型を可逆にする局所化により導来圏が構成される。アーベル圏はこの系列の出発点となる基幹(hub)記事であり、本記事で確立した核・余核・正規性の言語が、複体の圏や導来圏における完全三角形の定義にそのまま引き継がれる。
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